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ある女

作者: 中原純軽
掲載日:2026/04/07

短編です。

ホラーって良いですよね。

 今から僕が話すのは本当に僕が経験した話だ。

 僕は幽霊を信じてはいない。

 しかし今でもこの話を思い出す度に、冷たい指で背筋をすっとなぞられるような、そんな感触を覚える。

 それでも僕の幽霊不在論は揺るがないのだが、その出来事を「偶然」で片付けることも、僕には簡単には出来なかった。

 これは極めて個人的なエピソードだ。

 その時期になると、僕はいつも思い出す。

 四月の初め。

 彼がいなくなった日の付近になると起こるその出来事に、僕はほんの少しの薄寒さと懐かしさを覚えるのだ。

 もし本当に幽霊がいるとするなら、今まさにこの話を書いている僕を覗き込んでいるかもしれない。

 何を書いているのだ?

 そんなことを思いながら、僕はその出来事を記すとする。

 もちろん、他の人から見れば他愛のない出来事に映るだろう。

 極めて「個人的」なエピソードなので、過度な期待はしないでもらえると嬉しい。

 誰かにこの、ボタンを一つだけ掛け違えたような違和感や、うまく説明のつかない気持ちを理解してもらうことはできないのだ。

 なにしろ当事者である僕でさえも、僕の心の中の部屋の一つにそっと隠した「恐怖」を見つけ出すことが出来ないからだ。

 果たしてそれは何だったのか。

 どのような形をしているのか、書きながら確かめていこうと思う。

 まずはあの女の話から始めるのが良いかもしれない。

 僕があの夜出会った女の話だ。



『何を書いているのだ?』



 彼ーー僕のお爺さんが亡くなったのは四月の初めだった。

 彼は自宅で息を引き取った。

 僕と妻が自宅で看取った。

 80歳の時だった。

 僕たちが深夜、彼の様子を見に行った時には、すでに硬くなっていた。

 僕たちも初めてのことで、ひどく動揺し、すぐにかかりつけ医を呼んだ。

 死因は老衰だった。

 持病が何か関係していたのかもしれない。

 しかし、詳しくは分からなかった。

 死亡診断書には老衰の二文字が書かれた。

 彼は昔気質の人間だった。

 昔気質というと色んなことが連想されると思うが、僕にとってのそれは、あまり肌に合うようなものではなかった。

 平たく言うと高圧的であった。

 敵もそれなりにいただろう。

 僕はあまり好ましい印象を抱くことはなかった。

 何かにつけてケチをつけるようなそんな人物であった。

 ……故人のことを悪く言うのはやめよう。

 彼と暮らした期間は短かったが、しかし、彼とのかけがえのない時間を過ごしたことは確かだったのだ。

 悪い人間ではなかった。

 磁石には極性があるように、引かれ合う部分、反発し合う部分があると言うだけの話だった。

 その彼が体調を崩し始めたのは、年が明ける前後のことだった。

 少しずつ寝る時間が増えていった。

 体も動かなくなった。

 僕と妻の介護生活が始まった。

 仕事の傍ら、彼の寝食、風呂の世話をする日々が本格的に始まった。

 そんなある日、彼は言った。

「妻は来なかったか?」

 僕は聞き返した。

「妻ですか?」

 その先は言えなかった。

 なぜなら彼の妻は二年ほど前に他界していたからだ。

「妻だよ、妻」

 僕は答えた。

「来てませんよ。何かあったんですか?」

 彼は言った。

「気のせいかな。今いた気がして・・・・・・」

 もう亡くなっていますよ、とは言えなかった。

「すみません、僕は見ていませんが」

 と言うと、

「そうか」

 とだけ無愛想に答えて、ベッドの上でしばらく「うんうん」と無言でひとり頷いていた。

 僕が言葉に詰まっていると、彼は言った。

「いや、そこにいたんだよ」

 と、彼はベッドの脇の窓を指差した。


 それから何週間後かのこと。

 酒に弱い僕は、珍しくその日、数年ぶりに会う友人と飲み明かし、深夜の街を歩いていた。

 介護があるから、最近は夜遅くまで外にいることはなかったのだが、その日は数年来だからと僕の妻に頼んでおいたのだ。

 僕は駅前を離れ、閑静な住宅街の中にある僕たちの家まで歩を進める。

 賑やかな明かりが消えていく。

 女がいた。

 若い女だ。

 道の角に座り込んでいた。

 赤いトップスに、短い黒のタイトスカート。

 黒い髪は首元までだったが、項垂れていて、顔は見えなかった。

 僕と同じく酒に飲まれたか。

 しかしここは住宅街だ。

 駅前と違って少し歩けば、すぐに自宅に着くだろう。

 若い女性にとって、わざわざ危険な外で座り込んでいるのは、僕に少なからず違和感を残していた。

 僕はつい目で追ってしまう。

 目が合ったらどうしよう、そんなことを頭の片隅で考えながら彼女のそばを通り過ぎる。

 彼女は何も喋らなかったし、身動き一つしなかった。

 声をかけるべきどうかとも思ったが、何かが僕を押し留めていた。

 自宅の前に着き、僕は静かに玄関の鍵を開ける。

 そっと扉を開くと、彼がいた。

 彼は黒い影のようだった。

 彼は一人、電気もつけず、暗闇の中、玄関に立っていた。

 驚く僕に彼は言った。

「妻は来ていたか?」

 僕は言った。

「来ていませんよ」

 なぜなら僕が近くで出会ったのはあの赤い女だけだったからだ。


 それからさらに何週間かして、彼は息を引き取った。

 三時過ぎの出来事だった。

 僕と妻はその頃から何か嫌な予感がして、一時間おきくらいに寝ている彼の様子を見に行っていた。

 僕が様子を見に行った時、彼はすでにこの世界からいなくなっていた。

 葬儀はしめやかに行われた。

 近い親族だけで行った。

 彼は灰になり、そして海へ帰っていった。

 僕は、やはり泣いた。

 あまり心は通っていなかったかもしれない。

 しかし、彼の死は僕の心に確実に何かを残していった。

 彼が時折見せた笑顔が、今でも心の隅にあった。

 彼が亡くなった後、不思議なことが二つ起こるようになった。

 一つは勝手にチャイムが鳴った。

 大きな声を出せない彼が僕たちを呼ぶ時に使っていたチャイムだ。

 それが誰も押していないのに鳴った。

 僕は実際には見ていないのだが、妻曰く、電池を外しても鳴ったのだと言う。

 もう一つはリビングの時計が止まるようになった。

 毎年彼の命日が近づいてくると、時計の針が三時過ぎを差した時点で止まった。

 電池切れというわけではなかった。

 その時計は電波時計で、数日後には、再び正しい時刻を指すようになっているのだった。


 正直なところ、僕はあの女よりもチャイムと時計に恐怖を感じた。

 恐怖と原因がはっきりと結びついているからだ。

 まるでスイッチのように、オンにすれば繋がって、オフにすれば消えた。

 電池がないのに鳴るチャイム、電池があるのに止まる時計。

 原因は明らかだ。

 だがその恐怖も消えていく。

 毎年の出来事だから、僕はそのうち慣れてしまって、今では何か懐かしささえ感じる。

 女のことは妻には話していない。

 妻には話すことが出来なかった。

 オン、オフ、オン、オフ。

 僕がその繋がりを探している間に、彼女は僕を置いて旅立ってしまった。

 僕たちには子供がいなかったので、僕一人だけがこの世界に取り残された。

 あれから赤い女には会っていない。

 もしあの「偶然」がもう一度起きたなら、僕は何を聞くだろうか。

 この世の真実でも聞くのだろうか。

 どうやってオンとオフを切り替えたのか?

 赤い女に出会った通りに差し掛かるたび僕は、背筋に冷たい何かを感じる。

 あの路地を曲がった角に座り込む妻が顔を上げることがないように、僕は何も知らないふりで、彼女のそばを通り過ぎるのだった。

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