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9/11

本日をもって「卒園」とします

 翌朝、クロードが目を覚ますと、世界は嘘のように静まり返っていた。


「……ん……」


 クロードが身体を起こす。昨夜まで彼を苦しめていた高熱はすっかり引き、頭も冴えている。

 だが、何かがおかしい。

 いつもなら、彼が目覚める気配を感じて、「おはようございます」とカーテンを開けに来るはずの妻の姿がない。

 部屋の空気は冷たく、綺麗に整頓されすぎている。まるで、誰も住んでいない客間のように。


「……エレナ?」


 名前を呼んでみる。返事はない。

 ふと、枕元のサイドテーブルに目が止まった。

 そこには、見慣れないものが置かれていた。

 一輪の白いガーベラ。

 分厚い革表紙のノート。

 そして、封のされた一通の手紙。


 嫌な予感がクロードの背筋を駆け上がった。

 彼は震える手で封筒を手に取り、開封した。

 中から出てきたのは、一枚の公的な書類と、便箋だった。

 書類のタイトルを見た瞬間、心臓が凍りついた。


――『離婚届』


 夫の署名欄以外は、すでに美しく整った文字で埋められている。


「な……なんだ、これは……」


 呼吸が荒くなるのを感じながら、クロードは便箋の方に目を落とした。

 そこには、エレナからのメッセージが綴られていた。

 怒りや恨み言が書かれているのかと思った。だが、そこに書かれていたのは、あまりにも予想外な言葉だった。


『親愛なるクロード様へ


 まずは、全快おめでとうございます。

 この数日間、クロード様は本当によく頑張りましたね。

 嫌いなお野菜も頑張って食べられましたし、自分の気持ちを言葉にして伝えることもできました。ミナ様とのトラブルも解決し、お片付けも完璧です。


 私の目から見ても、クロード様はもう立派な「良い子」です。

 先生がいなくても、一人でお着替えも、挨拶も、公務もできるはずです。


 ですので、本日をもって、私の役目は終わりとさせていただきます。

 クロード様、ご卒園おめでとうございます。

 これからは侯爵家の当主として、一人で立派に歩んでいってくださいね。


 エレナより』


「……そつ、えん……?」


 意味が分からなかった。

 先生? 良い子? 役目は終わり?

 クロードは呆然としながら、もう一つの遺留品――革表紙のノートを手に取った。

 パラパラとページをめくる。


『○月×日

 氏名:クロード(推定5歳)

 本日の記録:夕食時に癇癪を起こしてお皿を割る。

 対応:「自分でお片付け」を徹底させる。

 結果:涙目になりながら完遂。えらいえらい。』


『△月○日

 本日の記録:執務室で頭を撫でたらフリーズした。

 考察:どうやら甘え方が分からないらしい。定期的な「よしよし」が必要。ウサギのクッキーを餌付けに成功。』


『□月△日

 本日の記録:お熱でダウン。

 特記:うわ言で「ハンバーグ食べたい」とデレる。可愛すぎて悶絶。完全に幼児退行している。手がかかる子ほど可愛いというのは本当かもしれない。』


――カァァァッ!!


 読み進めるうちに、クロードの顔から火が出そうになった。

 いや、全身の血が逆流するような感覚だ。

 なんだこれは。

 これは、自分の観察日記だ。それも、夫としてではなく、「聞き分けのない子供」としての。


 彼女は、クロードの冷酷な振る舞いを「反抗期」と捉え、不器用な求愛を「試し行動」と分析し、その弱さを「幼児性」として受け止めていたのだ。


「私は……私は、あいつに……こんな風に見られていたのか……っ」


 恥ずかしさで死にそうだった。

「僕の妻だ!」と大見得を切ったあの舞踏会の夜も、彼女にとっては「お遊戯会の発表」に過ぎなかったというのか。


 けれど。

 ページをめくる手は止まらなかった。

 文字の端々に、あふれんばかりの愛情――いや、「慈愛」が満ちているのが分かってしまったからだ。


『早く元気になってね』

『今日は笑顔が見れて嬉しかった』

『あなたは、もっと自信を持っていい素敵な子ですよ』


 彼女は、誰よりもクロードを見ていた。

 誰もが「氷の侯爵」と恐れ、遠巻きにする中で、彼女だけが彼の内面にある未熟さを理解し、真正面から向き合い、抱きしめてくれていたのだ。


 それを、彼は。

 「卒園」という言葉で、突き放された。

 いや、違う。彼女は本気で思っているのだ。彼が一人立ちできるようになったから、自分はもう不要だと。彼が彼女を必要としていたのは、単なる保護者としてだと。


「……ふざけるな……」


 ノートを握りしめる手に力がこもる。


「一人で歩ける? 立派な大人? ……そんなものに、なりたかったわけじゃない!」


 クロードはただ、エレナに笑ってほしかった。褒めてほしかった。

 彼女の掌の上で転がされているのが、心地よかった。

 それを「共依存」だの「教育完了」だのと、勝手に完結させられてたまるか。


 コンコン、と控えめなノックの音がした。

 執事のセバスチャンが入ってくる。


「お目覚めですか、旦那様」

「……エレナは」

「今朝早く、馬車で発たれました。ご実家の伯爵領へ戻るとのことです」


 セバスチャンは表情を変えずに告げた。そして、クロードの手にある離婚届と日記を一瞥し、ふっと微かに口角を上げた。


「『卒園証書』は、受け取られましたか?」

「……お前もグルか」

「滅相もございません。ただ、奥様は最後まで旦那様の自立を案じておられましたよ。『もうあの子は大丈夫だから』と」


 セバスチャンが挑発するように彼を見る。


「いかがなさいましょう。このまま『良い子』でお留守番をして、奥様の言いつけ通りに離婚を受け入れますか? それとも――」


 その先は聞くまでもなかった。

 クロードはベッドから飛び降りた。

 ナイトガウンを脱ぎ捨て、近くにあったシャツとズボンを乱暴に身につける。ボタンが一つ掛け違っているが、知ったことか。


「馬を出せ!」

「……御者は手配しておりませんが?」

「いらん! 私が乗る!」


 彼は離婚届を掴み取ると、セバスチャンの目の前でビリビリに引き裂いた。

 白い紙吹雪が舞い散る。


「卒園? 冗談じゃない!」


 クロードは窓を開け放ち、朝の冷たい風を浴びながら叫んだ。


「誰が卒園などするものか! 私はまだ学び足りない! 再入園の手続きをしてやる!」


 セバスチャンが満足げに深く一礼した。


「行ってらっしゃいませ、旦那様」


◇ ◇ ◇


 厩舎から愛馬を引き出し、鞍もつけずに飛び乗った。

 門番が驚いて道を空ける中、クロードは風のように駆け抜けた。


 待っていろ、エレナ。

 勝手に終わらせるな。勝手に完結するな。

 私はまだ、お前に「好きだ」の一言も伝えていないんだぞ。

 「よくできました」なんて言葉じゃ足りない。私が欲しいのは、そんな教師からの評価じゃない。


 街道を飛ばすこと数十分。

 遠くの丘の上に、一台の馬車が見えた。

 地味で、飾りのない、彼女の実家の紋章が入った馬車だ。


「見つけた……!」


 彼は手綱を強く握りしめた。

 心臓が破裂しそうなほど脈打っている。

 これは「癇癪」でも「知恵熱」でもない。

 紛れもない、一人の男としての衝動だ。


「逃がさないぞ、エレナ!!」


 クロードは馬腹を蹴り、全力で彼女の元へ疾走した。

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