本日をもって「卒園」とします
翌朝、クロードが目を覚ますと、世界は嘘のように静まり返っていた。
「……ん……」
クロードが身体を起こす。昨夜まで彼を苦しめていた高熱はすっかり引き、頭も冴えている。
だが、何かがおかしい。
いつもなら、彼が目覚める気配を感じて、「おはようございます」とカーテンを開けに来るはずの妻の姿がない。
部屋の空気は冷たく、綺麗に整頓されすぎている。まるで、誰も住んでいない客間のように。
「……エレナ?」
名前を呼んでみる。返事はない。
ふと、枕元のサイドテーブルに目が止まった。
そこには、見慣れないものが置かれていた。
一輪の白いガーベラ。
分厚い革表紙のノート。
そして、封のされた一通の手紙。
嫌な予感がクロードの背筋を駆け上がった。
彼は震える手で封筒を手に取り、開封した。
中から出てきたのは、一枚の公的な書類と、便箋だった。
書類のタイトルを見た瞬間、心臓が凍りついた。
――『離婚届』
夫の署名欄以外は、すでに美しく整った文字で埋められている。
「な……なんだ、これは……」
呼吸が荒くなるのを感じながら、クロードは便箋の方に目を落とした。
そこには、エレナからのメッセージが綴られていた。
怒りや恨み言が書かれているのかと思った。だが、そこに書かれていたのは、あまりにも予想外な言葉だった。
『親愛なるクロード様へ
まずは、全快おめでとうございます。
この数日間、クロード様は本当によく頑張りましたね。
嫌いなお野菜も頑張って食べられましたし、自分の気持ちを言葉にして伝えることもできました。ミナ様とのトラブルも解決し、お片付けも完璧です。
私の目から見ても、クロード様はもう立派な「良い子」です。
先生がいなくても、一人でお着替えも、挨拶も、公務もできるはずです。
ですので、本日をもって、私の役目は終わりとさせていただきます。
クロード様、ご卒園おめでとうございます。
これからは侯爵家の当主として、一人で立派に歩んでいってくださいね。
エレナより』
「……そつ、えん……?」
意味が分からなかった。
先生? 良い子? 役目は終わり?
クロードは呆然としながら、もう一つの遺留品――革表紙のノートを手に取った。
パラパラとページをめくる。
『○月×日
氏名:クロード(推定5歳)
本日の記録:夕食時に癇癪を起こしてお皿を割る。
対応:「自分でお片付け」を徹底させる。
結果:涙目になりながら完遂。えらいえらい。』
『△月○日
本日の記録:執務室で頭を撫でたらフリーズした。
考察:どうやら甘え方が分からないらしい。定期的な「よしよし」が必要。ウサギのクッキーを餌付けに成功。』
『□月△日
本日の記録:お熱でダウン。
特記:うわ言で「ハンバーグ食べたい」とデレる。可愛すぎて悶絶。完全に幼児退行している。手がかかる子ほど可愛いというのは本当かもしれない。』
――カァァァッ!!
読み進めるうちに、クロードの顔から火が出そうになった。
いや、全身の血が逆流するような感覚だ。
なんだこれは。
これは、自分の観察日記だ。それも、夫としてではなく、「聞き分けのない子供」としての。
彼女は、クロードの冷酷な振る舞いを「反抗期」と捉え、不器用な求愛を「試し行動」と分析し、その弱さを「幼児性」として受け止めていたのだ。
「私は……私は、あいつに……こんな風に見られていたのか……っ」
恥ずかしさで死にそうだった。
「僕の妻だ!」と大見得を切ったあの舞踏会の夜も、彼女にとっては「お遊戯会の発表」に過ぎなかったというのか。
けれど。
ページをめくる手は止まらなかった。
文字の端々に、あふれんばかりの愛情――いや、「慈愛」が満ちているのが分かってしまったからだ。
『早く元気になってね』
『今日は笑顔が見れて嬉しかった』
『あなたは、もっと自信を持っていい素敵な子ですよ』
彼女は、誰よりもクロードを見ていた。
誰もが「氷の侯爵」と恐れ、遠巻きにする中で、彼女だけが彼の内面にある未熟さを理解し、真正面から向き合い、抱きしめてくれていたのだ。
それを、彼は。
「卒園」という言葉で、突き放された。
いや、違う。彼女は本気で思っているのだ。彼が一人立ちできるようになったから、自分はもう不要だと。彼が彼女を必要としていたのは、単なる保護者としてだと。
「……ふざけるな……」
ノートを握りしめる手に力がこもる。
「一人で歩ける? 立派な大人? ……そんなものに、なりたかったわけじゃない!」
クロードはただ、エレナに笑ってほしかった。褒めてほしかった。
彼女の掌の上で転がされているのが、心地よかった。
それを「共依存」だの「教育完了」だのと、勝手に完結させられてたまるか。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
執事のセバスチャンが入ってくる。
「お目覚めですか、旦那様」
「……エレナは」
「今朝早く、馬車で発たれました。ご実家の伯爵領へ戻るとのことです」
セバスチャンは表情を変えずに告げた。そして、クロードの手にある離婚届と日記を一瞥し、ふっと微かに口角を上げた。
「『卒園証書』は、受け取られましたか?」
「……お前もグルか」
「滅相もございません。ただ、奥様は最後まで旦那様の自立を案じておられましたよ。『もうあの子は大丈夫だから』と」
セバスチャンが挑発するように彼を見る。
「いかがなさいましょう。このまま『良い子』でお留守番をして、奥様の言いつけ通りに離婚を受け入れますか? それとも――」
その先は聞くまでもなかった。
クロードはベッドから飛び降りた。
ナイトガウンを脱ぎ捨て、近くにあったシャツとズボンを乱暴に身につける。ボタンが一つ掛け違っているが、知ったことか。
「馬を出せ!」
「……御者は手配しておりませんが?」
「いらん! 私が乗る!」
彼は離婚届を掴み取ると、セバスチャンの目の前でビリビリに引き裂いた。
白い紙吹雪が舞い散る。
「卒園? 冗談じゃない!」
クロードは窓を開け放ち、朝の冷たい風を浴びながら叫んだ。
「誰が卒園などするものか! 私はまだ学び足りない! 再入園の手続きをしてやる!」
セバスチャンが満足げに深く一礼した。
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
◇ ◇ ◇
厩舎から愛馬を引き出し、鞍もつけずに飛び乗った。
門番が驚いて道を空ける中、クロードは風のように駆け抜けた。
待っていろ、エレナ。
勝手に終わらせるな。勝手に完結するな。
私はまだ、お前に「好きだ」の一言も伝えていないんだぞ。
「よくできました」なんて言葉じゃ足りない。私が欲しいのは、そんな教師からの評価じゃない。
街道を飛ばすこと数十分。
遠くの丘の上に、一台の馬車が見えた。
地味で、飾りのない、彼女の実家の紋章が入った馬車だ。
「見つけた……!」
彼は手綱を強く握りしめた。
心臓が破裂しそうなほど脈打っている。
これは「癇癪」でも「知恵熱」でもない。
紛れもない、一人の男としての衝動だ。
「逃がさないぞ、エレナ!!」
クロードは馬腹を蹴り、全力で彼女の元へ疾走した。




