「嘘つき」は泥棒の始まりです
「見なさい! これよ、これが証拠よ!」
ミナが高らかに掲げたのは、手のひらサイズの小瓶だった。
どす黒い液体が入ったその瓶を、彼女は勝ち誇った顔で見せつける。
「クロード様の枕の下から見つけたの! エレナ、あなたが看病しているフリをして、これを隠したんでしょう!?」
「ほう。枕の下、ですか」
私は腕組みをしたまま、冷静にその瓶を見つめた。
クロードはずっとベッドに横たわっている。彼を起こさずに、枕の下に瓶を隠すなど、手品師でもなければ不可能だ。あるいは、彼が昏睡していれば話は別だが、彼はついさっきまでハンバーグを食べていた。
ミナが連れてきた怪しげな医師――いや、自称医師の男が、大げさに頷く。
「左様。その瓶からは微量の砒素の反応が出ております。旦那様の症状とも一致する。これは計画的な犯行ですぞ」
「衛兵! 早くこの女を捕らえて!」
ミナが叫ぶ。
彼女が連れてきた私兵たちが、私を取り囲もうとジリジリと距離を詰めてくる。
だが、私は一歩も動かなかった。
恐怖? まさか。
私が感じていたのは、呆れと、哀れみだけだ。
(詰めが甘い。甘すぎるわ、ミナ様)
私はため息をつき、静かに口を開いた。
「随分と手際が良いですね。まるで、最初からそこに瓶があると知っていたみたい」
「な、何よ……私は偶然見つけたのよ!」
「そうですか。では質問です。その瓶に、私の指紋はついていますか?」
「は? なにをわけの分からないことを……」
「私が隠したのなら、当然指紋がついているはずです。逆に言えば、もしあなたの指紋しかついていなければ……どういうことか分かりますよね?」
ああ、しまった。こちらの世界では、まだ指紋鑑定は一般的ではなかったか。
とはいえ私の堂々とした態度に、ミナの顔が引きつった。彼女は慌てて瓶を握りしめ、背中に隠そうとした。
分かりやすい反応だ。せめて状況証拠から話を詰めていけばいいものを、劇的で決定的な物証を演出しようとして、かえって馬脚を現した。であれば、こちらも……
「それに、そちらの先生。医師免許を見せていただけますか? 王都の医師会に登録されている番号を、今すぐここで暗唱していただきたい」
「そ、それは……い、今は手持ちがなくてだな……!」
「正規の医師であれば、そらんじているものでは?」
男が狼狽え、視線を泳がせる。
私は冷ややかな視線で彼らを射抜いた。
「証拠能力のない小瓶に、身元不明の自称医師。これで侯爵夫人を断罪できると思っているのですか? おままごとは、お家に帰ってからになさい」
「う、うるさいっ!」
論理で勝てないと悟ったミナは、ヒステリックに叫んだ。
「問答無用よ! やっておしまいなさい!」
彼女の命令で、私兵たちが武器に手をかける。
暴力による強行突破。思考停止した子供が最後に選ぶ手段だ。
やれやれ、これだから指導の行き届いていない子は困る。
「……そろそろ、いいかしら?」
私がパン、と手を叩いた。
それが合図だった。
「そこまでです」
凛とした声と共に、部屋の奥――ウォークインクローゼットの陰から、数人の人影が現れた。
先頭に立つのは、執事のセバスチャン。
そして、その後ろには眼鏡をかけた小柄なメイド、リリーと、さらにもう一人の老紳士が控えていた。
「な、なんで執事がそこに……!?」
「奥様の指示により、待機しておりました」
セバスチャンが眼鏡の位置を直し、淡々と告げた。
かつては私を軽んじていた彼だが、今のその目には、主に対する深い敬意と忠誠が宿っている。
「ミナ様。あなたがその小瓶を旦那様の枕元に滑り込ませる瞬間、警備担当の者が天井裏から目撃しております」
「えっ……!?」
「最近、奥様の改革により屋敷内の警備を強化しておりましてね。不審な動きはすべて監視対象なのです」
セバスチャンが冷徹に告げる。
ミナが顔面蒼白になって後ずさる。
続いて、メイドのリリーが一歩前に進み出た。彼女は震える手をおプロンの前で握りしめ、それでもしっかりと顔を上げて証言した。
「わ、私……見ました!」
「リリー!?」
「ミナ様が、裏口でその男の人に……お金を渡しているのを、見ました! 『上手くやれば倍払うから』って……!」
リリーの声は震えていたが、その瞳は真っ直ぐに真実を映していた。
私が唯一の味方として目をつけた彼女。
まだ弱気なところはあるけれど、勇気を出して声を上げてくれた。
(よく言えました。花丸をあげましょう)
私は心の中で彼女に拍手を送った。
最後に、老紳士が進み出る。彼はクロードが幼い頃から診ている、本物のかかりつけ医、バートランド医師だ。
「診察させていただきました」
バートランド医師は、眠っているクロードの脈を取り、呆れたように言った。
「毒? 馬鹿げている。これは典型的な知恵熱……いや、過労による発熱ですな。栄養を取って寝ていれば治る」
静寂。
完全なるチェックメイトである。
ミナの連れてきた男は「ひ、ひぃ!」と悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、入り口で待機していた本物の衛兵──セバスチャンが手配した正規の王国兵だ──に取り押さえられた。
残されたのは、ミナただ一人。
彼女はわなわなと震え、そして突然、床に泣き崩れた。
「……だって……だって、仕方ないじゃない!」
彼女は大粒の涙を流し、クロードに向かって手を伸ばした。
「私はクロード様を愛してるの! あんな地味な女より、私の方がふさわしいのに! クロード様のためを思ってやったのよ! 愛ゆえの行動なのよ!」
泣き落とし。
「あなたのため」という言葉を免罪符にする、最も醜い自己正当化だ。
「ミナ様」
私は彼女を見下ろした。
怒りはなかった。ただ、事実を事実として伝えるだけだ。
「それは愛ではありません。ただの『わがまま』です」
「……っ!」
「相手の意思を無視し、傷つけ、自分の思い通りにコントロールしようとする。それは、お人形遊びと変わりません。クロード様はあなたのおもちゃではないのです」
私の言葉は、静かだが鋭い刃となって彼女に突き刺さった。
ミナは反論しようと口を開いたが、言葉にならず、ただ嗚咽を漏らした。
「連れて行きなさい」
セバスチャンの合図で、衛兵たちがミナの両脇を抱えて連行していく。
「いやぁ! クロード様ぁ!」という叫び声が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
◇ ◇ ◇
嵐が去った寝室に、静寂が戻る。
使用人たちも下がり、部屋には私と、眠り続けるクロードだけが残された。
私はベッドサイドに座り、彼を見つめた。
規則正しい寝息。長い睫毛。
彼は何も知らない。
ミナが来たことも、冤罪をふっかけられたことも、私がそれを全て処理したことも。
ただ、私にハンバーグを食べさせてもらい、手を握ってもらい、安心して眠っているだけだ。
私はそっと、彼の手を握った。
温かい。
けれど、その温もりが、今は少しだけ重く感じられた。
「……私がいなきゃ、何もできないんですね」
ポツリと漏れた言葉。
この数日、私は彼を「教育」し、守り、導いてきた。
彼は私に懐き、依存し、私の掌の上で転がっている。
一見、上手くいっているように見える。けれど。
(これじゃ、ダメだわ)
今の彼は、私という「母親役」に依存するだけの、大きな子供だ。
私が守れば守るほど、彼は弱くなる。
これは健全な夫婦関係ではない。「共依存」だ。
そもそも、私の目的は「円満離婚」だったはずだ。あまりにも順調すぎて、そんなことも忘れていた。
カリスマ保育士としての私のプロ意識が告げていた。
『いつまでも先生が手助けしていたら、その子は一生、一人で靴も履けないままですよ』
「……卒園の時期が、来たみたいですね」
私は彼の手をそっと布団に戻した。
そして立ち上がり、ライティングデスクに向かう。
引き出しから取り出したのは、一枚の書類。
この国では、妻側からの申請だけでも、十分な理由──例えば夫の長期間の暴力や暴言の証拠など──があれば離婚が成立する。日記という証拠は揃っている。
私は羽ペンを取り、迷いなく署名欄にサインをした。
「よく頑張りました、クロード様。でも、これからは一人で頑張らないと」
書き上げた書類――『卒園証書』という名の離婚届を、枕元のサイドテーブルに置く。
その上に、あの日記帳を添えて。
私は振り返らなかった。
教育の最終段階。「自立」を促すための、最後にして最大の試練を与えるために。




