王宮舞踏会は、大きな「お遊戯会」に過ぎません
王宮の大広間は、シャンデリアの煌めきと、着飾った貴族たちの熱気で溢れかえっていた。
建国記念舞踏会。
この国で最も格式高い夜会であり、貴族たちにとっては己の地位と人脈を誇示する戦場でもある。
けれど、私――エレナ・フォン・オルデンブルクにとっては、別の意味を持っていた。
これは「お遊戯会」の本番である、と。
「……エレナ。ネクタイは曲がっていないか? 髪は変じゃないか?」
会場の入り口で、夫のクロードがガチガチに強張った顔で聞いてくる。
氷の侯爵と呼ばれる男が、まるで発表会前の園児のように落ち着きがない。
彼は人混みが苦手だし、社交的な会話──という名の腹の探り合い──も得意ではない。つまり、極度の「舞台負け」を起こしている状態だ。
「大丈夫ですよ、クロード様。とっても格好いいです」
私は彼のエスコートを受けながら──実際には私が彼を支えながら──小声で囁いた。
彼が着ているのは、私が選んだミッドナイトブルーの礼服だ。銀髪によく映えており、黙って立っていれば絵本から抜け出した王子様そのものである。
「背筋を伸ばして。ご挨拶はハキハキと、ですよ。嫌なことを言われたら、ニッコリ笑ってスルーです。練習しましたよね?」
「あ、ああ……分かってる」
クロードが深く深呼吸をする。
よしよし、適度に緊張感を持つのは良いことです。
私たちがホールに足を踏み入れると、一斉に視線が集まった。
噂の「不仲夫婦」が揃って現れたことへの好奇心と、クロードの美貌への感嘆。そして、隣にいる私の変化への驚き。
前世の記憶を取り戻してからの私は、姿勢も表情も変わった。「自信」という名のドレスを纏った女は、それだけで人目を引くものだ。
「あらぁ~! クロード様ぁ!」
その優雅な空気をぶち壊すように、甲高い声が飛んできた。
人波をかき分けて現れたのは、淡いピンクのドレスに身を包んだミナ・バーンズだ。
彼女はどこかの弱小貴族の三男坊をパートナーにして会場入りしていたらしいが、彼を放り出して一直線にこちらへ突進してきた。
「お待ちしてましたぁ! もう、遅いんですからぁ!」
「ミ、ミナ……?」
「ほら、あっちに珍しい飲み物があるんですって! 行きましょうよぉ!」
ミナは有無を言わさずクロードの腕に絡みつき、強引に引っ張り始めた。
クロードが助けを求めるように私を見る。
だが、私は軽く手を振って見送った。
「行ってらっしゃいませ。お友達と仲良くね」
これは彼にとっての実践テストだ。
嫌なものに流されず、自分の意思を通せるか。ミナという名の「誘惑」をどう処理するか。
遠くから見守らせてもらおう。
連れ去られるクロードを見送り、私は壁際のテーブルで果実水を手に取った。
やれやれ、手のかかる子供を持つと、親同士の交流もままならないわね。
「……ふっ。随分と余裕のある奥方だ」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには見目麗しい青年が立っていた。
蜂蜜を溶かしたような金の髪に、知的な碧眼。穏やかな微笑みを浮かべているが、その纏うオーラは只者ではない。
第二王子、アラン殿下だ。
「これは殿下。ご挨拶が遅れました」
「いいよ、お忍びみたいなものだから。楽にして」
アラン殿下は気さくに笑い、私の隣に立った。そして、人混みの中でミナに振り回されているクロードの方をちらりと見た。
「噂は聞いているよ。オルデンブルク家が最近、劇的に変わったと」
「……お恥ずかしい限りです」
「いや、褒めているんだ。使用人たちの意識改革、屋敷の修繕、そしてあの『氷の侯爵』のしつけ……いや、更生かな?」
殿下が悪戯っぽく私を見る。
どうやら、私の「育児理論」は王宮の耳にも届いているらしい。
「興味があってね。君がどうやってあの暴れ馬を御しているのか。僕も部下の教育には手を焼いていてね、ぜひ教授願いたいものだ」
「ふふ、恐れ入ります。基本は『褒めて伸ばす』と『お片付け』の徹底ですので」
知的で話の分かる相手との会話は楽しい。
私たちはしばらく、人材育成という名の育児論について花を咲かせた。アラン殿下は聞き上手で、私の保育士時代の経験則に深く頷いてくれた。
その時だった。
「――エレナ!!」
会場のざわめきを切り裂くような、切羽詰まった声が響いた。
見ると、ダンスホールの向こうから、クロードがこちらへ向かって早足で――いや、ほとんど走って近づいてくるのが見えた。
その顔は鬼気迫るもので、目は血走っている。
腕にはまだミナがぶら下がっていた。
「ちょっとぉ、クロード様! どこ行くんですかぁ!?」
「離せッ!!」
クロードが叫び、ミナの手を乱暴に振り払った。
その勢いにミナがよろめき、尻餅をつきそうになる。
会場中の視線が彼に釘付けになる中、クロードは私の目の前まで来ると、アラン殿下と私の間に強引に割り込んだ。
「……クロード様? ご挨拶の途中ですよ」
「うるさい!」
クロードは私を背に隠すようにして立ち、アラン殿下を睨みつけた。
相手は王族だというのに、今の彼にはそれが見えていないようだ。
「殿下、失礼ですが……その女性から離れていただきたい」
低い、唸るような声。
それはまるで、大好きなお母さんを他の男に取られそうになった子供の、必死の威嚇だった。
あるいは、大切な宝物を守ろうとする獣の咆哮か。
「クロード、誤解だよ。僕はただ……」
「関係ない! 彼女は……エレナは、僕の妻だ!!」
クロードが叫んだ。
そして振り返りざまに、私の腰をぐいと抱き寄せた。
強い力で胸板に押し付けられる。心臓が早鐘のように打っているのが伝わってきた。
「王子と言えど、僕の妻に、気安く触れないでいただきたい」
シーン……と、広間が静まり返った。
誰もが息を呑んだ。
あの冷徹で他人に興味を示さなかったオルデンブルク侯爵が、公衆の面前で、王族に歯向かってまで妻への独占欲を露わにしたのだ。
これは大事件である。
ミナが呆然と口を開けてこちらを見ている。
アラン殿下が目を丸くしている。
……ああ、どうしましょう。
不敬罪ギリギリだわ。
でも。
(よく言えました)
私の胸の奥から、温かいものが込み上げてきた。
ミナの誘惑を振り切り、権力者(殿下)にも怯まず、自分の「欲しいもの」を主張した。
課題、「嫌なことは嫌と言う」。
そして、「僕の妻だ」という所有宣言。
合格だ。満点である。
私は静寂の中で、ゆっくりと手を上げた。
そして、興奮で肩で息をしているクロードの頭に、ポンと手を置いた。
「よしよし」
衆人環視の中。
私は慈愛に満ちた笑顔で、彼の銀髪を優しく撫でた。
「よく言えましたね、クロード様。自分の気持ち、ちゃんと言葉にできましたね。偉い偉い」
「……っ、う……」
私の言葉に、クロードの全身からスッと力が抜けた。
怒りと嫉妬で真っ赤になっていた顔が、今度は羞恥でさらに赤くなる。
彼は私の肩に額を預け、借りてきた猫のように大人しくなった。
「……エレナ、みんな見てる……」
「いいじゃないですか。頑張ったご褒美ですよ」
私は構わずに撫で続けた。
その異様な光景――夫を子供のようにあやす妻と、あやされて大人しくなる夫――を見て、周囲の空気が変わった。
「な、なんて情熱的なの……!」
「あんなに激しく愛を叫ぶなんて、氷の侯爵に春が来たのね!」
「熱愛だわ! これぞ真実の愛よ!」
貴族のご婦人方が、うっとりと頬を染めている。
どうやら「教育的指導」は、フィルターを通すと「熱烈な愛情表現」に見えるらしい。
アラン殿下が「ぷっ」と吹き出し、やがて声を上げて笑い出した。
「あはは! 参ったな、これは僕の完敗だ。すごいよ、エレナ夫人。君の教育は本物だ……そしてクロード、こんな女性は滅多にいないよ。大切にしたまえ」
◇ ◇ ◇
会場が和やかな、そして熱っぽい空気に包まれる中。
一人だけ、蚊帳の外に置かれた人物がいた。
ミナだ。
彼女は柱の陰で、ドレスの裾を握りしめて震えていた。
恥をかかされた。無視された。そして何より、自分に向けられるはずだった「特別」が、あの地味な女に向けられている。
「……許さない」
彼女の瞳に、暗く濁った炎が宿る。
「あの女さえいなければ……私が、私が一番なのに……!」
華やかな舞踏会の光の届かない場所で、黒い悪意が芽吹こうとしていた。




