「貸して」が言えない子は、一緒に遊べません
翌朝のダイニングルームは、嵐のような騒がしさに包まれていた。
「あーん、このパン硬いですぅ! ガストンに焼き直させてくださいよぉ!」
「紅茶がぬるいですぅ! もっと熱々にして!」
ミナ・バーンズ男爵令嬢。
昨日からこの「園」に体験入園している彼女は、朝から絶好調だった。
使用人たちを顎で使い、我が物顔で振る舞っている。
しかも、席順がおかしい。本来なら私が座るはずのクロードの隣の席に、当然のように彼女が鎮座していたのだ。
「クロード様ぁ、はい、あーん! ミナが食べさせてあげますねぇ」
「……いや、自分で食える」
「んもう! 照れ屋さんなんですからぁ」
クロードは朝から胃もたれしそうな顔をしているが、ミナの勢いに押されて拒絶しきれていない。
私はといえば、少し離れた下座で優雅にコーヒーを飲んでいた。
クロードが「助けてくれ」と言わんばかりの視線を送ってくるが、私は気づかないフリをする。
(ダメよ、クロード様。自分でお友達との距離感を学ばないと)
すると、ミナがこちらを振り返り、悪意たっぷりの笑みを浮かべた。
「ねえ、そこの地味な奥様ぁ。このバター、取ってくれません? 遠くて届かないんですぅ」
テーブルの上には、彼女の手が届く範囲にバターナイフがある。明らかに私を「使用人扱い」してマウントを取りたいだけの命令だ。
私はカップをソーサーに置き、にっこりと微笑んだ。
「ミナ様。ご自分のお手ては、何のためにあるのかしら?」
「はぁ?」
「ちゃんと二つ付いていますね。素晴らしいです。ご自分で取れますよね? すごいすごい」
「なっ……馬鹿にしてるんですか!?」
ミナが顔を真っ赤にして立ち上がる。
私は「自立を促すのも教育です」と心の中で呟き、またコーヒーに口をつけた。
◇ ◇ ◇
午後。場所を庭園のガゼボに移してのティータイム。
ここでもミナの独壇場だった。
「懐かしいですねぇ! 昔、クロード様とよくこのお庭で追いかけっこしましたよねぇ。あの頃から私たちが結婚するのは決まってるようなものでしたしぃ」
ミナはクロードの腕に絡みつき、べたべたと密着している。
クロードは引き剥がそうとしているが、ミナの吸着力はタコの吸盤並みだ。
「……ミナ、暑苦しい。離れろ」
「やぁだ! あ、そうだ。奥様はご存知ないでしょうけどぉ、私とクロード様、小さい頃は一緒にお風呂に入ったこともあるんですよぉ? きゃっ、恥ずかしい!」
典型的な「過去の栄光マウント」である。
十数年前の話を持ち出して優位に立とうとするのは、自信のなさと現状への不満の裏返しだ。
「まあ、それは微笑ましいお話ですね」
私は紅茶を淹れながら、感情の籠っていない声で相槌を打った。
「幼少期の裸の付き合いは、情緒の発達に良い影響を与えますから。お二人とも、いいお友達だったんですね」
「むぅ……何その余裕ぶった態度! ムカつく!」
私のスルー耐性に業を煮やしたミナが、口を尖らせる。
そして、私がクロードのために淹れた紅茶のカップをテーブルに置こうとした、その瞬間だった。
ガッ!
ミナの手が、わざとらしく私の手首にぶつかった。
カップが傾き、熱い紅茶が私のドレスの袖と、白いテーブルクロスに飛び散る。
「きゃっ! 危ない!」
ミナが大げさに悲鳴を上げ、すぐにニヤリと笑った。
「あーあ、奥様ったらトロいんですからぁ。クロード様の大事なティーセットを汚しちゃって。これだから田舎貴族は……」
静寂が流れた。
クロードがぎょっとして立ち上がろうとする。
「おい、大丈夫か!?」
しかし、私は片手で彼を制した。
熱い紅茶が掛かった腕がヒリヒリと痛む。
だが、私は痛みよりも、ある一点において猛烈に腹を立てていた。
食べ物や飲み物を、他者を傷つけるための道具に使ったこと。
そして、やったことを認めず、人のせいにしたこと。
(……はい、アウト)
私はハンカチで濡れた手首を拭うと、ゆっくりとミナに向き直った。
笑顔は消した。
保育園で、本当に危険なことや卑劣なことをした園児を叱る時の、「真顔」だ。
「ミナ様」
低く、重い声。
ミナの肩がビクリと跳ねた。
「わ、何よ……あんたが悪いんでしょ……」
「わざとやりましたね?」
「は、はあ? 言いがかりはやめてよ! 証拠あんの!?」
「ありますよ。今の角度とタイミング、明らかに自分からぶつかってきましたね。私はすべて見ていました」
私は一歩、彼女に近づいた。
ミナが気圧されて後ずさる。
「いいですか。お友達に意地悪をして、さらに嘘をつく。それは一番かっこ悪いことです。謝りなさい」
怒鳴ってはいない。けれど、その瞳の奥には絶対零度の迫力がある。
ミナは顔を青ざめさせ、助けを求めるようにクロードを見た。
しかし、クロードは――
あろうことか、私の背後に半歩下がり、私のドレスの裾を掴むようにして隠れていた。
完全に「強い先生に守ってもらう子供」の図である。
「クロード様ぁ!?」
「……ミ、ミナ。お前が悪い。謝れ」
クロードが私の背中越しにボソッと言う。
ミナは屈辱に顔を歪ませ、涙目で睨みつけてきた。
「……っ、覚えてなさいよ! 絶対許さないんだから!」
捨て台詞を吐いて、庭園から走り去っていくミナ。
やれやれ、と私は息を吐いた。
◇ ◇ ◇
その直後。
執事のセバスチャンが、銀の盆に載せた封書を持って現れた。
「旦那様、奥様。王宮より、建国記念舞踏会の招待状が届いております」
金色の箔押しがされた豪奢な封筒。
これを見た瞬間、先ほど走り去ったはずのミナが、どこからともなく戻ってきて、封筒をひったくろうとした。
「舞踏会!? 私が行きます! クロード様のパートナーは私ですよね!?」
「え、いや、それは……」
クロードが狼狽える。
貴族社会の通例として、妻である私が行くのが筋だが、愛人を同伴させるケースも無くはない。ミナはそこを狙っているのだ。
「ダメですよ」
私が封筒をミナの手からスッと取り上げる。
「これは王家主催の公式行事。いわば『お遊戯会』の本番です。お行儀よくできない子を連れて行ったら、クロード様だけでなく、オルデンブルク家全体が恥をかきます」
私はミナと、ついでにクロードを見比べた。
「いいですか? 舞踏会までの間、一番『良い子』にしていた方を連れて行きます。ミナ様、あなたが先ほどのような態度を改められないなら、お留守番ですよ」
「なっ……! 私を試す気!?」
「ええ、試します。クロード様もですよ? ちゃんとエスコートの練習ができて、好き嫌いなくご飯を食べられたら、連れて行って差し上げます」
私は二人に向かって、慈愛に満ちた――そして挑戦的な笑みを向けた。
これは競争だ。
もっとも、私の目的は舞踏会に行くことそのものではない。「園児たち」に社会性を身につけさせるための、絶好のカリキュラムなのだ。
◇ ◇ ◇
その後、部屋に戻る道すがら。
私はクロードに静かに言った。
「クロード様」
「……なんだ」
「ミナ様に流されてばかりじゃダメですよ。嫌なことは嫌、やめてほしいことはやめてと、ちゃんと言葉にしないと伝わりません」
これは「防犯訓練」の一種だ。実年齢二十四歳に誘拐の心配は薄いかもしれないが、詐欺や陰謀、もっと洒落にならない事案に巻き込まれかねない。
クロードは気まずそうに視線を泳がせ、小さな声で言った。
「……努力する」
その耳が赤いことを見逃さず、私は「よくできました」と心の中で彼を褒めた。
さて、お遊戯会に向けて、特訓の日々が始まりそうね。




