あら、教育上よろしくない「お友達」が来たようです
あの「お片付け事件」から数日が過ぎた。
オルデンブルク侯爵家の空気は、劇的に変わりつつあった。
まず、廊下がピカピカになった。
私の「安全点検」に合格するため、使用人たちが競うように掃除を徹底し始めたからだ。絨毯のめくれも、花瓶のグラつきも解消され、まさに「園児が走り回っても安心な環境」が整いつつある。
そして、最大の変化は当主クロードにある。
彼は私と顔を合わせると、バツが悪そうに視線を逸らすようになった。以前のような暴言は鳴りを潜め、まるで先生に怒られるのを恐れる子供のように大人しい。
(ふふ。しつけの効果が出てきたわね)
私は焼き上がったばかりのクッキーをカゴに入れ、クロードの執務室へと向かった。
飴と鞭。厳しく叱った後は、甘やかして褒める。これが信頼関係構築の鉄則だ。
◇ ◇ ◇
コンコン、とノックをして執務室に入る。
クロードは巨大な執務机に向かい、山のような書類と格闘していた。眉間に深い皺を寄せ、羽根ペンを走らせる姿は、一見すると冷徹な能吏に見える。
「……何の用だ。忙しいと言ったはずだが」
顔も上げずに不機嫌そうに言うクロード。
私は構わず、彼のデスクの端にティーセットとクッキーのカゴを置いた。
「根を詰めすぎると効率が落ちますよ。おやつの時間になさいませんか?」
「子供扱いするな。この書類は至急の案件なんだ。領地の税収報告に、治水工事の承認、それから……」
「まあ!」
私はわざとらしく声を弾ませて、彼の手元を覗き込んだ。
「すごいですねー、クロード様! こんなに難しい文字……じゃなくて、複雑な書類が読めるんですか? 計算も早いですし、さすが侯爵様です!」
パチパチパチ、と目の前で拍手をする。
クロードの手がピタリと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、不審そうに私を見た。
「……馬鹿にしているのか?」
「とんでもない。純粋な称賛です。毎日こんなにたくさんのお仕事をして、領民のために頑張って。本当に偉いですねー」
私は自然な動作で手を伸ばし、彼の銀色の髪をサラリと撫でた。
ポンポン、となだめるようなリズムで。
「……っ!?」
クロードがビクリと肩を跳ねさせた。
普段なら「触るな!」と怒鳴るところだろう。けれど、不意打ちの称賛と、幼少期にすらされたことのない「頭を撫でられる」という行為に、彼の思考回路はショートしたようだった。
顔を真っ赤にして、口をパクパクさせている。
「はい、ご褒美です」
私はカゴからクッキーを取り出し、彼の口元に差し出した。
うさぎの形をした、手作りの動物クッキーだ。
「さあ、あーん」
「き、貴様……ふざけ……むぐっ」
抗議しようと口を開けた瞬間、うさぎが口の中に飛び込む。
サクサクとした食感と、バターの優しい甘さ。
クロードはしばらく硬直していたが、やがて諦めたように咀嚼し、ごくりと飲み込んだ。
「……美味いか?」
「うん? ああ、まあ……悪くはない」
そっぽを向きながら答えるその耳は、ほんのり赤い。
ちょろい。あまりにもちょろすぎる。
私は心の中でガッツポーズをした。この調子なら、卒園までそう時間はかからないかもしれない。
その時だった。
「クロード様ぁ~~!!」
静かな執務室の空気を切り裂くような、甲高い声が廊下から響いてきた。
ドタドタドタ、という品のない足音と共に、執務室の扉が勢いよく開け放たれる。
「会いたかったですぅ~! 寂しくて死んじゃうかと思いましたぁ!」
飛び込んできたのは、ピンク色のフリルたっぷりのドレスを着た、小柄な少女だった。
栗色の巻き髪に、大きな瞳。愛らしい容姿をしているが、その言動は年齢不相応に幼い。
男爵令嬢、ミナ・バーンズ。
彼女は私など目に入っていないかのように、一直線にクロードの元へ駆け寄り、その腕にぎゅっとしがみついた。
「……ミ、ミナ? なぜここに」
クロードが困惑した声を上げる。
ミナは上目遣いで、こてんと首をかしげた。
「だぁってぇ、クロード様ったら最近全然会ってくれないんだもん! ミナ、心配で心配でぇ……あ、これクッキー? いただきぃ!」
彼女は私のカゴから勝手にくまのクッキーを掴み取り、パクりと口に入れた。
そして、ようやくそこに私がいることに気づいた――あるいは気づかないフリをやめたように、チラリとこちらを見た。
「あれぇ? 誰ですかぁ、この地味な人」
ミナは口元に食べカスをつけたまま、値踏みするように私をジロジロと見た。
「ああ、噂の奥様ですかぁ。はじめましてぇ。私、ミナ・バーンズって言いますぅ。クロード様とは、その……運命の相手? みたいな?」
クロードにべったりと張り付きながら、勝ち誇ったような笑みを向けてくる。
いわゆる「マウント」というやつだ。
クロードは鬱陶しそうに眉をひそめているが、幼馴染という立場があるのか、無下に振り払うことができていない。
「おい、離れろミナ。仕事中だ」
「やぁだ! もっと構ってくれなきゃ泣いちゃいますよぉ?」
駄々をこねて腕を揺さぶるミナ。
それを見て、私の脳内データベースが高速で検索を開始した。
(……はい、出ました)
私は冷静に分析する。
カテゴリー『自己中心型かまってちゃん』。
自分がお姫様でないと気が済まず、おもちゃ(男友達含む)を独占しようとするタイプ。園庭で他の子が遊んでいる遊具を無理やり奪い取り、注意されると「だって私が使いたかったんだもん!」と嘘泣きをする、あの手合いだ。
(なるほど。この子は『お友達』としては一番厄介なタイプね)
私はにっこりと笑って、一歩前に出た。
「はじめまして、ミナ様。妻のエレナです。賑やかな方ですね、まるで遠足前の園児のようですわ」
「はぁ? 何それ、嫌味ぃ?」
ミナがむっとした顔をする。
彼女はクロードの袖を引っ張り、甘ったるい声で言った。
「ねえクロード様ぁ。私、今日は帰らなくていいんですよねぇ? このお屋敷に泊めてくれる約束、してくれましたよねぇ?」
爆弾発言。
クロードが「は? そんな約束した覚えは……」と言いかけるより早く、ミナは「したもん! 絶対したもん!」と足をバタつかせた。
完全に、スーパーのお菓子売り場で寝転がる子供の理屈だ。
クロードが助けを求めるように私を見た。
私は静かに微笑んだ。
教育上よろしくない「お友達」が来たなら、対処法は一つだ。
「ええ、いいですよ」
私の言葉に、ミナが得意げにニマリと笑い、クロードが驚愕に目を見開いた。
「エ、エレナ!?」
「ちょうどよかったです。クロード様には、他者との協調性を学ぶ『集団生活』の機会が必要だと思っていましたから」
私はミナに向き直り、保育士時代に培った「絶対に逃がさない先生の目」で彼女を射抜いた。
「歓迎しますわ、ミナ様。ただし――」
この「園」のルールは絶対です。
お友達と仲良くできない悪い子には、私がたっぷりと「教育的指導」をさせていただきますので、覚悟してくださいね?
私の笑顔に、ミナが一瞬だけ背筋を震わせたのを、私は見逃さなかった。




