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3/8

好き嫌いと食べ散らかしは、断固として許しません

 その日の夕食は、異様な雰囲気に包まれていた。

 ダイニングルームに入った瞬間、ツンと鼻を突く刺激臭が漂ってきたのだ。


 席に着くと、クロードがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて待ち構えていた。

 私の目の前に置かれた銀の蓋を、執事が恭しく開ける。


「……あら」


 そこにあったのは、真っ赤に染まったスープと、見たこともない色をした魚の姿煮、そして何かの内臓の燻製だった。

 強烈な香辛料と、独特の生臭さが混じり合い、普通のご令嬢なら見ただけで卒倒しそうなラインナップだ。


「どうだ、エレナ。我が家のシェフが腕によりをかけて作った特製料理だ」


 クロードがふんぞり返り、勝ち誇ったように言った。


「お前のような田舎育ちの貧乏貴族には、少々刺激が強すぎるかもしれんが……残すことは許さんぞ? どうしても食べられないと言うなら、床に額を擦り付けて泣いて謝れば、許してやらんでもない」


 なるほど。これが予告していた「嫌がらせ」か。

 幼稚すぎて笑いが出そうになるのを堪え、私はスプーンを手に取った。

 前世の保育園では、子供たちが持ち寄った謎の木の実や、泥団子を食べるフリは日常茶飯事。時には誤飲しそうになった虫を素手で取り出したこともある。

 それに比べれば、これは歴とした「食べ物」だ。


「いただきます」


 私は迷いなく赤いスープを口に運んだ。

 ピリリとした辛味が舌を刺すが、ベースの出汁はしっかりしている。魚も見た目はグロテスクだが、白身は淡白で悪くない。


「……うん、なかなか」

「は?」

「カプサイシンは代謝を上げますし、内臓系は鉄分が豊富ですわ。貧血気味の私にはぴったりの栄養食ですね。ありがとうございます、クロード様」


 私は涼しい顔でスープを飲み干し、魚をきれいに骨だけにした。

 クロードの顔から、みるみるうちに笑みが消えていく。


「な……なぜだ……? それは、北方の蛮族が好む激辛毒消しスープだぞ!? 普通の人間なら一口で喉が焼けるはず……」

「あら、私、刺激物には耐性がありますの」


 ストレスという名の刺激に比べれば、こんなもの白湯と同じだ。

 私が優雅に完食してみせると、クロードは悔しげに唇を噛んだ。

 自分の目論見が外れたことが、よほど面白くないらしい。

 彼は苛立ちをぶつけるように、自分の皿――こちらはごく普通のクリーム煮込みだ――を乱暴に突っついた。


「チッ……! どいつもこいつも、私を馬鹿にしやがって!」


 そして、フォークを投げ捨てると、あろうことかまだ料理が残っている皿を、手の甲で払いのけた。


 ガシャーン!!


 派手な破砕音がダイニングに響き渡る。

 皿は床で粉々になり、クリームソースが高価な絨毯に無惨な染みを作った。

 使用人たちが息を呑み、凍りつく。

 また始まった、いつもの癇癪だ。


「こんな泥のようなものが食えるか! 作り直せ!」


 クロードが怒鳴り散らす。

 執事のセバスチャンが、青ざめた顔で駆け寄ろうとした。


「も、申し訳ございません旦那様! すぐに片付けて、代わりの物を……」

「待ちなさい」


 凛とした声が、その場を制した。

 私が手を挙げると、セバスチャンはびくりと動きを止めた。

 私はゆっくりと立ち上がり、散乱した皿の残骸を見下ろした。そして、静かに、しかし有無を言わせぬ低いトーンで告げた。


「誰も手を出さないで」


 それから、クロードに向き直る。

 彼は私を睨みつけて、威嚇してきた。


「何だ貴様、指図する気か?」

「クロード様」

「ああん?」

「自分で落としたものは、自分でお片付けしましょうね」


 一瞬、時が止まったような静寂が流れた。

 クロードは、自分が何を言われたのか理解できないという顔で、ポカンと口を開けた。


「……は? 何を言って……」

「聞こえませんでしたか? お・片・付・け、です。自分で散らかしたんでしょう? なら、自分で綺麗にするのが道理です」


 私が聖母のような――ただし目は全く笑っていない微笑みで言うと、クロードの顔が真っ赤に染まった。羞恥と、それ以上の激怒で。


「ふ、ふざけるな!! 私は侯爵だぞ!? なぜ私が下男のような真似を……」

「侯爵だろうが王様だろうが、食べ物を粗末にする子は許しません」


 私は彼を遮り、一歩踏み出した。

 その迫力に、クロードがたじろぐ。


「いいですか。そのお皿を片付けるまで、次のお料理は出しません。もちろん、お代わりも、食後のデザートも抜きです」

「なっ……!?」

「セバスチャン、他の者も。もし手伝ったら、あなた達も同罪とみなして『おやつ抜き』にしますよ」


 私が背後の使用人たちに視線を走らせると、全員が直立不動で「は、はい!」と頷いた。彼らは昨日の私の「改革」を目の当たりにしている。今の奥方を敵に回してはいけないと、本能で悟っているのだ。


 孤立無援となったクロード。

 彼はわなわなと震えながら、私と、床の惨状を交互に見た。

 プライドが許さない。けれど、この女は絶対に引かない。その圧力が、ビリビリと肌を刺す。


「……く、そ……っ」


 長い、長い沈黙の後。

 クロードは屈辱に顔を歪ませながら、ゆっくりとしゃがみ込んだ。

 震える手で、大きな破片を拾い上げる。


「……これで、いいんだろ……!」

「はい、よくできました。破片で指を切らないように気をつけて。ソースは布巾で拭いてくださいね」


 私が監督のように指示を飛ばすと、彼はおそらく悔しさで涙目になりながら、黙々と床を拭き始めた。

 その背中は、かつての「氷の侯爵」の威厳など微塵もなく、ただの「先生に怒られて掃除させられている悪童」そのものだった。


 使用人たちが、信じられないものを見る目でその光景を見守っている。

 あの暴君クロードが、奥様の言いつけで床掃除をしている。

 それは、オルデンブルク家の歴史が動いた瞬間だった。


◇ ◇ ◇


 その日の深夜。

 私は自室の机を前にして、真新しい革張りのノートを開いていた。

 羽ペンにインクを含ませ、サラサラと文字を走らせる。


『保育記録 1日目

 氏名:クロード・フォン・オルデンブルク(精神年齢推定5歳)

 本日のトラブル:食事中の癇癪、食器の破損。

 対応:毅然とした態度で「お片付け」を指示。

 結果:成功。本人は不服そうだが、指示には従った。

 評価:花丸。ただし、反省の色は見られないため継続的な指導が必要。』


 書き終えたページを満足げに眺め、私はフッと息を吐いた。

 これは、前世で毎日書いていた「保育日誌」そのものだ。

 対象が園児から夫に変わっただけで、やることは変わらない。


「ふふ。手がかかる子ほど可愛い……とはまだ思えないけれど」


 日記をパタンと閉じ、私は窓の外に浮かぶ月を見上げた。

 お片付けはできた。第一段階はクリアだ。


「さて。次は『ごめんなさい』の練習ですね」


 私の教育カリキュラムは、まだ始まったばかりである。

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