好き嫌いと食べ散らかしは、断固として許しません
その日の夕食は、異様な雰囲気に包まれていた。
ダイニングルームに入った瞬間、ツンと鼻を突く刺激臭が漂ってきたのだ。
席に着くと、クロードがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて待ち構えていた。
私の目の前に置かれた銀の蓋を、執事が恭しく開ける。
「……あら」
そこにあったのは、真っ赤に染まったスープと、見たこともない色をした魚の姿煮、そして何かの内臓の燻製だった。
強烈な香辛料と、独特の生臭さが混じり合い、普通のご令嬢なら見ただけで卒倒しそうなラインナップだ。
「どうだ、エレナ。我が家のシェフが腕によりをかけて作った特製料理だ」
クロードがふんぞり返り、勝ち誇ったように言った。
「お前のような田舎育ちの貧乏貴族には、少々刺激が強すぎるかもしれんが……残すことは許さんぞ? どうしても食べられないと言うなら、床に額を擦り付けて泣いて謝れば、許してやらんでもない」
なるほど。これが予告していた「嫌がらせ」か。
幼稚すぎて笑いが出そうになるのを堪え、私はスプーンを手に取った。
前世の保育園では、子供たちが持ち寄った謎の木の実や、泥団子を食べるフリは日常茶飯事。時には誤飲しそうになった虫を素手で取り出したこともある。
それに比べれば、これは歴とした「食べ物」だ。
「いただきます」
私は迷いなく赤いスープを口に運んだ。
ピリリとした辛味が舌を刺すが、ベースの出汁はしっかりしている。魚も見た目はグロテスクだが、白身は淡白で悪くない。
「……うん、なかなか」
「は?」
「カプサイシンは代謝を上げますし、内臓系は鉄分が豊富ですわ。貧血気味の私にはぴったりの栄養食ですね。ありがとうございます、クロード様」
私は涼しい顔でスープを飲み干し、魚をきれいに骨だけにした。
クロードの顔から、みるみるうちに笑みが消えていく。
「な……なぜだ……? それは、北方の蛮族が好む激辛毒消しスープだぞ!? 普通の人間なら一口で喉が焼けるはず……」
「あら、私、刺激物には耐性がありますの」
ストレスという名の刺激に比べれば、こんなもの白湯と同じだ。
私が優雅に完食してみせると、クロードは悔しげに唇を噛んだ。
自分の目論見が外れたことが、よほど面白くないらしい。
彼は苛立ちをぶつけるように、自分の皿――こちらはごく普通のクリーム煮込みだ――を乱暴に突っついた。
「チッ……! どいつもこいつも、私を馬鹿にしやがって!」
そして、フォークを投げ捨てると、あろうことかまだ料理が残っている皿を、手の甲で払いのけた。
ガシャーン!!
派手な破砕音がダイニングに響き渡る。
皿は床で粉々になり、クリームソースが高価な絨毯に無惨な染みを作った。
使用人たちが息を呑み、凍りつく。
また始まった、いつもの癇癪だ。
「こんな泥のようなものが食えるか! 作り直せ!」
クロードが怒鳴り散らす。
執事のセバスチャンが、青ざめた顔で駆け寄ろうとした。
「も、申し訳ございません旦那様! すぐに片付けて、代わりの物を……」
「待ちなさい」
凛とした声が、その場を制した。
私が手を挙げると、セバスチャンはびくりと動きを止めた。
私はゆっくりと立ち上がり、散乱した皿の残骸を見下ろした。そして、静かに、しかし有無を言わせぬ低いトーンで告げた。
「誰も手を出さないで」
それから、クロードに向き直る。
彼は私を睨みつけて、威嚇してきた。
「何だ貴様、指図する気か?」
「クロード様」
「ああん?」
「自分で落としたものは、自分でお片付けしましょうね」
一瞬、時が止まったような静寂が流れた。
クロードは、自分が何を言われたのか理解できないという顔で、ポカンと口を開けた。
「……は? 何を言って……」
「聞こえませんでしたか? お・片・付・け、です。自分で散らかしたんでしょう? なら、自分で綺麗にするのが道理です」
私が聖母のような――ただし目は全く笑っていない微笑みで言うと、クロードの顔が真っ赤に染まった。羞恥と、それ以上の激怒で。
「ふ、ふざけるな!! 私は侯爵だぞ!? なぜ私が下男のような真似を……」
「侯爵だろうが王様だろうが、食べ物を粗末にする子は許しません」
私は彼を遮り、一歩踏み出した。
その迫力に、クロードがたじろぐ。
「いいですか。そのお皿を片付けるまで、次のお料理は出しません。もちろん、お代わりも、食後のデザートも抜きです」
「なっ……!?」
「セバスチャン、他の者も。もし手伝ったら、あなた達も同罪とみなして『おやつ抜き』にしますよ」
私が背後の使用人たちに視線を走らせると、全員が直立不動で「は、はい!」と頷いた。彼らは昨日の私の「改革」を目の当たりにしている。今の奥方を敵に回してはいけないと、本能で悟っているのだ。
孤立無援となったクロード。
彼はわなわなと震えながら、私と、床の惨状を交互に見た。
プライドが許さない。けれど、この女は絶対に引かない。その圧力が、ビリビリと肌を刺す。
「……く、そ……っ」
長い、長い沈黙の後。
クロードは屈辱に顔を歪ませながら、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
震える手で、大きな破片を拾い上げる。
「……これで、いいんだろ……!」
「はい、よくできました。破片で指を切らないように気をつけて。ソースは布巾で拭いてくださいね」
私が監督のように指示を飛ばすと、彼はおそらく悔しさで涙目になりながら、黙々と床を拭き始めた。
その背中は、かつての「氷の侯爵」の威厳など微塵もなく、ただの「先生に怒られて掃除させられている悪童」そのものだった。
使用人たちが、信じられないものを見る目でその光景を見守っている。
あの暴君クロードが、奥様の言いつけで床掃除をしている。
それは、オルデンブルク家の歴史が動いた瞬間だった。
◇ ◇ ◇
その日の深夜。
私は自室の机を前にして、真新しい革張りのノートを開いていた。
羽ペンにインクを含ませ、サラサラと文字を走らせる。
『保育記録 1日目
氏名:クロード・フォン・オルデンブルク(精神年齢推定5歳)
本日のトラブル:食事中の癇癪、食器の破損。
対応:毅然とした態度で「お片付け」を指示。
結果:成功。本人は不服そうだが、指示には従った。
評価:花丸。ただし、反省の色は見られないため継続的な指導が必要。』
書き終えたページを満足げに眺め、私はフッと息を吐いた。
これは、前世で毎日書いていた「保育日誌」そのものだ。
対象が園児から夫に変わっただけで、やることは変わらない。
「ふふ。手がかかる子ほど可愛い……とはまだ思えないけれど」
日記をパタンと閉じ、私は窓の外に浮かぶ月を見上げた。
お片付けはできた。第一段階はクリアだ。
「さて。次は『ごめんなさい』の練習ですね」
私の教育カリキュラムは、まだ始まったばかりである。




