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このお屋敷、安全基準を満たしていません

 翌朝。

 窓から差し込む日差しが部屋の奥まで届く時間になっても、私の部屋には誰も訪れなかった。

 本来なら、一時間前には専属メイドがモーニング・ティーと洗面器を持って現れるはずだ。

 だが、扉は固く閉ざされたままである。


(……なるほど。完全なネグレクトね)


 私はベッドの上で優雅に伸びをしながら、冷静に現状を分析した。

 これは典型的な「嫁いびり」だ。

 使用人たちは、主であるクロードが私を蔑ろにしているのを見て、自分たちもそれに倣っているのだ。以前の私なら、部屋の隅で膝を抱えて「嫌われているんだわ」とメソメソ泣いていただろう。朝食抜きで一日を過ごすことも珍しくなかった。


 しかし、今の私は違う。

 今の私にとって、朝食が運ばれてこないことは「悲劇」ではない。

 単なる「給食当番の遅刻」である。失敗は誰にでもあることだが、繰り返さないように注意が必要だ。


「時間は守りましょうねって、あれほど言ったのに。減点1です」


 私はテキパキとベッドから降りると、自分でドレスに着替え始めた。コルセットをきつく締めるのは動きにくいので省略し、シンプルなワンピースを選ぶ。

 保育士は体が資本だ。空腹で低血糖を起こしては、夫という名の怪獣の相手など務まらない。

 来ないなら、取りに行けばいいだけの話である。


◇ ◇ ◇


 部屋を出て、長い廊下を歩く。

 久しぶりにまともな視界で屋敷の中を見渡すと、そこかしこに「気になる点」があった。


「……あら」


 私は廊下の角で足を止めた。

 高価そうな絨毯の端が、少しだけめくれ上がっている。

 普通の人なら気にも留めない些細なことだ。だが、私の「保育眼」は誤魔化せない。


(あれは危険。絶対に引っかかるわ)


 特に、あの夫のような「精神年齢5歳児」は、廊下を走る──比喩ではなく、彼はいつも大股で急いでいる──傾向がある。あんなトラップ、転んでくださいと言っているようなものだ。


 ちょうど向こうから、若い従僕が気だるげに歩いてくるのが見えた。私と目が合うと、彼は露骨に面倒くさそうな顔をして、適当に頭を下げる。


「ああ、奥様。何か御用で?」

「おはようございます。いいところに会いましたね」


 私は満面の笑みで彼の手を取った。

 従僕がギョッとして身を引こうとするが、私の握力──職業柄、意外と強い──はそれを許さない。


「そこの絨毯、めくれていますよ。危ないですねー」

「はあ? そんなの、あとで掃除の時にでも……」

「今、直しなさい」


 声のトーンは変えていない。笑顔も崩していない。

 けれど、私の目からハイライトを消して告げると、従僕はヒッと小さく悲鳴を上げた。


「万が一、クロード様があそこで転んでお怪我をされたらどうするんですか? 『あ、忘れてました』で済みますか? このお屋敷の危機管理はどうなっているのかしら」

「す、すぐに直します!」


 従僕が慌てて絨毯を直しに行く背中を見送り、私は満足げに頷いた。

 廊下を進むにつれ、私のチェックは厳しくなる。


「そこの花瓶、台座がグラグラしています。地震が来たら倒れますよ。固定するか、低い位置に移動させて」

「窓の鍵が開いています。不審者が入ってきたらどうするんですか? 戸締まり確認は基本です!」

「階段の手すりに埃がたまっています! 滑って落ちたら大事故ですよ! これは経験談です!」


 すれ違うメイドや従僕たちに、次々と笑顔でダメ出しをしていく。

 彼らは一様に「あのおどおどした奥様がどうしたんだ?」と困惑し、しかし有無を言わせぬ私の迫力に押されて、渋々ながらも動き始めていた。

 よしよし。環境整備は保育の基本である。事故と怪我の種は、徹底的に排除するのみ。


◇ ◇ ◇


 そして辿り着いた、屋敷の厨房。

 中からは、賑やかな談笑の声と、良い匂いが漂ってきていた。

 扉を開けると、そこには優雅にコーヒーを飲んでいる料理長と、つまみ食いをしている数人の料理人たちの姿があった。

 私の姿を認めると、彼らの動きが一瞬止まる。


 恰幅の良い料理長、ガストンが、口元のパン屑を払いながら億劫そうに近づいてきた。


「おや、奥様。こんな所までご足労とは。お腹が空きましたか? 今、残りを運ばせようと思っていたんですがね」


 へらへらとした態度。完全に舐めきっている。

 「残り」という言葉にピクリと眉が反応しそうになったが、私はぐっと堪えた。

 ここで感情的になったら負けだ。対モンスターペアレント戦と同じ。まずは相手の懐に入り、主導権を握る。


「ガストンさん、皆様もお疲れ様です。朝早くから大変ですね」


 私が労いの言葉をかけると、ガストンは拍子抜けした顔をした。


「は、はあ……」

「ところで、昨日の晩餐のハンバーグ。とても美味しかったですわ」

「……へえ、それはどうも」

「ただ、付け合わせの人参のグラッセが、ほとんど手付かずで残されていたのをご存知?」


 ガストンの顔色が少し変わった。

 彼は料理人としてのプライドは高いらしく、残飯が出ることは面白くないはずだ。


「旦那様は、野菜がお嫌いなんです。特に人参は、どんなに工夫しても避けてしまわれる。大人の偏食はどうしようもありませんよ」

「いいえ、工夫が足りません」


 私はきっぱりと言い放った。


「人参独特の土臭さが残っていました。あれでは子供舌……いえ、繊細な味覚を持つ旦那様は召し上がりません。一度茹でこぼしてから、極限まで細かく刻んでソースに混ぜ込むか、あるいはすりおろしてポタージュに隠すべきです」


 私の口から飛び出した具体的な調理法に、ガストンが目を見開く。


「な、なぜ素人の奥様がそんなことを……」

「栄養バランスが偏ると、精神的にも不安定になりやすいんです。旦那様の健康を守るのも、料理長の勤めではありませんか? もし難しいようでしたら、私がレシピを書きましょうか? 『野菜嫌いな子もパクパク食べる!魔法のレシピ』なら百通りは頭に入っていますけれど」


 私が一歩踏み出すと、ガストンは気圧されたように一歩下がった。

 その時、入り口の方から低い声が響いた。


「……朝から騒々しいな。何をしている」


 クロードだ。

 不機嫌オーラを全開にして、腕組みをして立っている。

 ガストンが救世主を見たような顔で駆け寄った。


「だ、旦那様! 奥様が厨房に押し入ってきて、料理に難癖をつけておられるのです!」


 なんと見事な責任転嫁。子供の喧嘩でも、もう少しマシな嘘をつく。

 クロードが冷ややかな視線を私に向ける。


「エレナ。私の食事に文句があるのか?」

「とんでもない。クロード様のために、より良い食環境を提案していただけですわ」

「……余計なことを。お前の浅知恵など必要ない」


 クロードは鼻で笑い、私を挑発するように言った。

 これは、いわゆる「試し行動」だ。

 相手がどこまで許容するか、わざと嫌なことを言って反応を見ているのだ。ここで怒ったり泣いたりすれば、彼の思う壺である。


「そうですか。それは残念です」


 私はさらりと流した。

 その反応の薄さが意外だったのか、クロードが一瞬眉をひそめる。


「……フン。これだけ元気なら、懲罰として地下室に入れる必要はなさそうだな。だが、覚えておけ。この屋敷の法律は私だ」

「ええ、よく存じております」


 今のところはね、と胸中で呟く私に気が付くことなく、クロードは踵を返し、去り際に振り返ってニヤリと笑った。


「そうだ、今日の夕食の献立は私が選んでやろう。お前が泣いて逃げ出すようなメニューにしてやるから、覚悟しておくんだな」


 捨て台詞を残して去っていく背中を見ながら、私は心の中で「はいはい」と手を振った。

 嫌がらせのメニュー? ピーマン尽くしか何かだろうか。可愛いものだ。


 ふと、厨房の隅にある柱の陰に、気配を感じた。

 目を向けると、一人の小柄なメイドが、お盆を胸に抱いてこちらを見ていた。

 他の使用人たちが「奥様が旦那様に言い負かされた」とクスクス笑っている中で、彼女だけは、不安そうに、けれどどこか期待を含んだ瞳で私を見つめていた。

 眼鏡をかけた、地味なメイドだ。


(……あの子、リリーって言ったかしら)


 唯一、私を嘲笑していない目。

 クラスに一人はいる、先生の味方になってくれそうな真面目な子。

 私は彼女にだけ分かるように、小さくウインクを送ってみた。

 リリーは顔を真っ赤にして、慌てて柱の裏に隠れてしまった。


(ふふ。まずはあの子から攻略しましょうか)


 お腹の虫がグウと鳴った。

 私は呆気にとられているガストンに向き直り、ニッコリと笑った。


「さて、料理長。お話はこれくらいにして、朝食をいただけます? あ、パンは焼きたてでお願いね」

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