【番外編】最強のモンペ義母が襲来しました
時系列は、『再入園』の少し後、レオン君が生まれる一年ほど前になります。
穏やかな朝の光が、オルデンブルク侯爵邸のダイニングルームに差し込んでいた。
銀食器が触れ合う微かな音が、小鳥のさえずりのように優しく響く。
「……うん、美味しいよ。エレナ」
向かいの席で、クロード様がはにかんだような笑顔を見せた。そのフォークの先には、以前なら絶対に口にしなかった人参のグラッセが刺さっている。
「それは良かったです。ビタミンAは粘膜を保護し、免疫力を高めますから。季節の変わり目には最適なんですよ」
私は侯爵夫人としての淑やかな微笑みを浮かべながら、テーブルの下で小さくガッツポーズを決めた。
(よし! 偏食改善プログラム、フェーズ3完了! この調子なら来週にはピーマンの肉詰めも献立に導入できるわ)
私の名前はエレナ。かつて日本という国で「保育士」として激務をこなしていた前世の記憶を持つ。
奇妙な縁でこの侯爵家に嫁ぎ、前世の記録を取り戻して以来、私は彼の「育ち直し」――もとい、傷ついた自尊心の回復と生活習慣の改善に取り組んできた。
ようやく彼が私の目を見て話し、自分の意思で食事を楽しめるようになった、その矢先。
屋敷の重厚な玄関扉が、悲鳴のような音を立てて乱暴に開かれた。
続いて廊下から、ヒールの足音が近づいてくる。一定のリズムで床を叩くその硬質な音は、聴く者の神経を逆撫でするような、ヒステリックな鋭さを孕んでいた。
「なんですの、この玄関の花瓶の位置は! 規定より三センチ右でしょう! それに使用人の挨拶、角度が何度足りないと思っているの!」
ダイニングにまで届く金切り声。
その瞬間、クロード様の顔から血の気が引いた。持っていたフォークが音を立てて皿の上に落ちる。
「あ……母、うえ……」
ガタガタと震えだし、瞳孔が開いて視線が泳ぎ始める。呼吸が浅い。
私は瞬時に状況を理解し、意識のチャンネルを「家庭」から「業務」へと切り替えた。
(来たわね――最強のモンスターペアレント)
ダイニングの扉が勢いよく開け放たれる。
そこに立っていたのは、豪華絢爛なドレスに身を包んだ中年女性――先代侯爵夫人、ベアトリスだった。扇子を武器のように構え、鷹のような目で室内を睥睨する。
「お久しぶりね、愚息。それに……そこの平民上がりの貧乏貴族」
彼女の視線が私を射抜く。値踏みするような、粘着質な視線だ。
「クロードが最近、すっかり腑抜けてしまったと聞いたから、私が直々に再指導に来てあげたわ。感謝なさい」
開口一番、これである。
私はスッと立ち上がり、最上級のカーテシーで出迎えた。背筋を伸ばし、口角をミリ単位で調整する。
「ようこそお越しくださいました、お義母様。事前の連絡もなしに、これほどのサプライズ……使用人一同、肝を冷やしておりますわ」
心の中では、即座に業務日誌へ書き込む。
『特記事項:ベアトリス様、アポイントなしの突撃訪問。社会通念上のマナー指導が必要』
「ふん、口だけは達者なようね。まあいいわ。今日から私がこの屋敷の規律を叩き直します。覚悟おし!」
それは、嵐の幕開けだった。
◇ ◇ ◇
最初の衝突は、その日の夕食の席で起きた。
メインディッシュとして運ばれてきたハンバーグを見た瞬間、ベアトリスがテーブルを叩いたのだ。
「なっ……! なんですの、この下品な料理は!」
「ハンバーグですが?」
「見ればわかります! 私が言っているのは、なぜ侯爵当主の食卓に、肉をミンチにするような蛮族の餌が並んでいるのかということよ!」
ベアトリスはクロード様の皿に手を伸ばし、それを乱暴に払いのけようとした。
「下げさせなさい! すぐに最上級のフィレ肉を持ってきて!」
クロード様が小さく悲鳴を上げ、条件反射のように首をすくめる。
その手が皿に触れる寸前、私はベアトリスの手首を、優しく、しかし確固たる力で制した。
「お義母様」「な、何よ。離しなさい!」
「本日の献立は、クロード様の現在の体調、咀嚼機能、消化吸収率、そして何より『ご本人のリクエスト』を総合的に判断して決定しております」
私はにっこりと、営業用の鉄壁スマイルで告げた。目は一切笑わずに。
「栄養バランスと本人の意向を無視した食事の強要は、心身の健全な発育を著しく阻害する要因となります。現代の――いえ、当園の教育方針に反しますので」
ベアトリスの顔が怒りで赤く染まる。
「は……発育? 何を言っているの? 私はクロードのためを思って言っているのよ! あなたのような小娘に、私の教育論を否定する資格があるとでも!?」
「ございますとも。現在の当主の妻、および健康管理責任者は、私ですから」
バチバチと火花が散る。
ベアトリスは鼻息も荒く私を睨みつけると、「いい度胸ね……後悔させてやるわ」と捨て台詞を吐いて部屋を出て行った。
残された静寂の中、私は脳内の「保護者ブラックリスト」を開き、一番上の行に赤字で太く書き込んだ。
『ベアトリス様:対話困難・要注意・要警戒』
(ああ、典型的な『あなたのため』という名の支配。一番厄介なタイプだわ。でも安心してクロード様、この程度の方、春先の保護者会にはざらにいらっしゃったから)
◇ ◇ ◇
翌日から、ベアトリスによる私への「指導」という名の嫌がらせが始まった。 それはまるで、私という保育者の資質を試すかのような、理不尽な要求の連打だった。
「廊下の絨毯、色が気に入らないわ。明日の朝までに全て最高級の絨毯に変えなさい」
「私のドレス、デザインが古臭いから今夜中にあなたが縫い直しなさい。心を込めた手縫いでね」
「庭の薔薇、全部抜きなさい。私は百合が好きなの」
矢継ぎ早に繰り出される無理難題。まともな令嬢なら泣いて実家に帰るレベルだろう。 だが、私は動じない。理不尽な要求への対応フローチャートは、すでに私の血肉となっている。
「まあ、絨毯を変えたいのですね。お義母様の美的感覚、大変勉強になります」
私は深く頷く。これは『受容と共感』のテクニック。まずは相手の感情を受け止め、肯定する。ただし、要求を呑むとは一言も言っていない。
「ドレスの手縫い……なるほど、手仕事の温かみを重視されるのですね。素晴らしいこだわりです」
「お庭の改造……百合がお好きなんですね。その情熱、しかと受け止めました」
私は流れるように肯定の言葉を紡ぎながら、背後に控える執事のセバスチャンにハンドサインを送る。
――記録せよ。
心得たセバスチャンは恭しく手帳を開き、猛烈なスピードで筆記を始める。
「な、なによ。何を書かせているの?」
「今後の運営改善のための『ご意見記録』ですわ。お義母様の貴重なご提言を、一言一句漏らさず後世に残すためです」
もちろん、これは『クレーマー対応記録』であり、暗に「あなたの発言はすべて証拠として保全されていますよ」というプレッシャーを与えるためだ。
「さあ、他には? どのようなご不満がおありですか?」
「ぐ……っ!」
私が笑顔で受け流し、セバスチャンが淡々と記録し続ける異様な光景。暖簾に腕押しとはこのことだ。ベアトリスは次第に焦りを募らせていく。
怒らせたいのに怒らない。泣かせたいのに泣かない。彼女にとって、私はもっとも扱いづらい「反応のない玩具」だった。
「きぃぃっ! なんなのよ、あなたは! 生意気なのよ!」
ベアトリスはヒステリーを起こして地団駄を踏んだ。その姿はもはや、高貴な夫人ではなく、スーパーの菓子売り場で泣き叫ぶ幼児そのものだった。
よし、私へのターゲット固定は成功している。そう思った時だ。
敵は、最も卑劣な手段を選んだ。ターゲットを「攻略困難な私」から、「か弱いクロード様」へと変更したのだ。
◇ ◇ ◇
その日の午後、クロード様が執務室に呼び出された。 嫌な予感がして私が駆けつけると、重厚な扉越しに、ベアトリスの金切り声と、クロード様の押し殺したような嗚咽が漏れ聞こえてきた。
「お前は私の最高傑作だったのに! なんでこんな失敗作に成り下がったの!」
隙間から覗くと、ベアトリスがクロード様に詰め寄っていた。
「あの女を追い出しなさい! そして私の言う通りの良い子に戻りなさい。さもなくば……お母様は死にますからね!」
出た。
精神的支配の常套手段、自殺をほのめかす情緒的脅迫。
クロード様は椅子の上で小さくなり、ガタガタと震えている。過去のトラウマがフラッシュバックし、心が凍り付いているのだ。
(そこまでよ)
私の中で、何かが冷たく透き通る感覚があった。
保育士として、いや、一人の人間として、もっとも許せない行為だ。
私はドアをノックもせずに押し開けた。
「失礼します」
「なっ、誰が入っていいと……!」
私はツカツカと二人の間に割って入る。迷いも容赦もない。あってはならない。
「お義母様。子供を人質にした交渉、および精神的な安全性を脅かす言動は、当家における重大なルール違反です」
「はあ? 親が子に何を言おうと勝手でしょう! この泥棒猫、親子の絆を引き裂く気!?」
「絆? いいえ、それはただの鎖です。奴隷に付けるような」
私の言葉に、ベアトリスが激昂する。彼女の理性の糸が切れる音が聞こえたようだった。
「お黙りなさいッ!!」
振り上げられた手が、私の頬を狙って落ちてくる。
前世の経験と照合するまでもなく、修羅場の内にも入らない。
避けるまでもない。そう思った瞬間――
ガバッ、と私の前に覆いかぶさる影があった。
「やめろッ!!」
クロード様だった。
彼は震える体で私を庇い、母親を睨みつけていた。
「ク、クロード……? お母様に、歯向かうの……?」「俺は……っ」
クロード様は息を呑み、それでも声を絞り出した。その声は震えていたが、もはや怯えだけの声ではなかった。
「俺は、人形じゃない! 最高傑作でも、失敗作でもない! エレナと共に生きる、一人の男だ!!」
屋敷中に響くような、魂の叫び。 初めて、彼が「母親」という名の絶対的な呪縛に対して、明確な「NO!」を突きつけた瞬間だった。
「き……きいいいいっ!!」
ベアトリスの顔が般若のように歪む。自分の所有物が意思を持ったことへの、耐え難い拒絶反応。
「親不孝者! 誰のおかげで大きくなれたと思っているの! この恩知らず!」
理性を失った彼女は、近くの飾り棚にあった重厚な花瓶を掴み、力任せに投げつけてきた。
狙いは、クロード様と私。
危険な凶器が空を切って飛来する。クロード様がギュッと目を瞑った。
だが、私は動かない。 視界の中、花瓶がスローモーションのように回転して迫る。
――園児が癇癪を起して投げつける積み木。砂場のスコップ。給食の皿。
それらの不規則な軌道に比べれば、今の投擲はあまりにも素直で、直線的すぎた。
(ああ、身体が覚えてる)
思考するより早く、私の足は半歩前へ出ていた。
毎日、暴れる幼児を抱きかかえて鍛え上げた前世の経験は、ドレス姿であっても鈍らない。私はクロード様の腰を抱き、まるで舞踏のようなステップで――しかしその実、園児をあやす重心移動で、鮮やかに軌道を躱した。
パリーンッ!!
背後の壁で、花瓶が砕け散る。
破片が飛び散り、静寂が戻った部屋で、私は冷徹な声を発した。
「……暴力行為、確認いたしました」
私はゆっくりとベアトリスに向き直る。もはやそこに、嫁としての愛想笑いはない。あるのは、園の安全と衛生を守る管理責任者としての、氷のような「業務の顔」だ。
「園内――いえ、家庭内の安全を脅かす行為は断じて看過できません。これは明らかなガイドライン違反です」
「な、何を……」
「したがって、お義母様。あなたを『強制退園』――当家への出入り禁止処分とさせていただきます」
私の宣言と同時に、セバスチャンが指を鳴らした。
控えていた屈強な使用人たちが、音もなく入室し、ベアトリスを取り囲む。その手際は、まるで汚染物を迅速に処理するかのように冷ややかで、無駄がなかった。
「なっ、無礼者! 私は先代夫人よ! 誰か、こいつらを捕まえなさい!」
ベアトリスが叫ぶが、誰も動かない。使用人たちの目は冷たい。彼らが従うべき主人は、過去の亡霊ではなく、今ここにいる私たちなのだから。
私は淡々と、事務的に告げた。
「貴族法に基づき、家長への著しい不敬、および後継者育成の阻害行為を確認。これらは強制隠居を命じるに十分な理由となります……お義母様、あなたは教育者を気取っていますが、失格です」
「なっ……」
「子供を所有物とし、恐怖で支配する。それは教育ではありません。ただの依存です。再教育が必要なのは、あなたの方ではありませんか?」
ぐうの音も出ない正論に、ベアトリスは唇を震わせ、崩れ落ちた。
「連れて行け。辺境の隠居屋敷へ」
クロード様が、静かに、しかし威厳を持って命じた。
それが、決定打となった。
「いやあああ! クロード、待って、見捨てないでえええ!」
悲鳴を上げながら引きずられていくベアトリス。その声が遠ざかると、屋敷には、まるで嵐が過ぎ去った後のような、清浄な静けさが戻ってきた。
◇ ◇ ◇
嵐が去った執務室。
クロード様は肩で息をしながら、呆然と立ち尽くしていた。
「……言えた。あの母上に……」
「はい。立派でしたよ、クロード様」
私が近づくと、彼は壊れ物を扱うように、そっと私を抱きしめた。その体はまだ、小刻みに震えている。
私は彼の背中に腕を回し、よしよし、とあやすようにポンポンと叩いた。
「怖かった……心臓が止まるかと思った……」
「ええ、よく頑張りましたね。すごいです。一等賞ですよ。花丸をあげます」
「ありがとう、エレナ。君がいてくれたから……」
しばらく頭を撫でていると、不意にクロード様が身を離した。
そして、私の瞳をじっと見つめる。その瞳には、怯えた子供の色はもうない。熱っぽい、焦がれるような大人の男の色が宿っていた。
「……エレナ」
「は、はい?」
「頭を撫でるのもいいが……」
彼は私の腰に手を回し、ぐっと体を引き寄せた。逃がさないとでも言うような、強い力だ。 耳元にかかる吐息が熱い。
「もう、子供扱いしないでくれないか」
言うが早いか、彼は私の唇を塞いだ。
これまでの労わるような淡白な触れ合いとは違う、深い、独占欲に満ちた口づけ。
指先まで痺れるような熱が走り、今度は私が真っ赤になってフリーズする番だった。
「……これからは、君を守れる夫になるから」
甘く、低い声で囁かれ、私は完全に陥落した。
手のかかる子供だと思っていた夫は、頼もしい一人の男性として歩き出していたのだ。
私は降参するように、彼の胸に顔を埋めた。
「……はい。期待しています、あなた」




