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「最愛のパートナーコース」への再入園を許可します

 馬車がガタン、と大きく揺れて急停車した。

 外から馬のいななきと、御者の驚いた声が聞こえる。


「な、なんだ!? おい、危ないぞ!」

「止まれ!!」


 その怒号を聞いた瞬間、私の心臓が跳ね上がった。

 まさか。

 窓から恐る恐る顔を出すと、馬車の進路を塞ぐようにして、一頭の黒馬が立ちふさがっていた。

 その背から、一人の男が飛び降りてくる。

 シャツのボタンは掛け違えられ、髪は風で乱れ、汗まみれで、呼吸を荒らげている。

 いつもの冷徹で完璧な「氷の侯爵」の面影はどこにもない。

 けれど。


「……かっこいい……」


 私の口から、無意識にそんな言葉が漏れた。

 なりふり構わず私を追いかけてきたその姿が、今まで見たどんな彼よりも魅力的に映ってしまったのだ。


「エレナ!!」


 クロードが馬車の扉を強引に開けた。

 彼は私を見るなり、腕を掴んで引きずり出す勢いで迫ってきた。


「く、クロード様!? 危ないですよ、飛び出し注意です!」


 私は反射的に「先生スイッチ」を入れて、彼をたしなめようとした。

 ここで流されてはいけない。私は教育者として、彼を自立させるために去るのだから。


「もう卒園式は終わったはずです。お家に帰りなさい。一人でできるでしょう?」

「うるさい!」


 クロードは私の言葉を遮り、私の肩を強く掴んだ。

 至近距離で、青い瞳が燃えるように私を見つめている。


「先生として話すな! 俺を見ろ! 一人の男としての、俺を見ろ!」


「……え?」


 耳を疑った。

「俺」。

 今まで「私」という堅苦しい一人称しか使わなかった彼が、初めて素の自分をさらけ出した。


「卒園? 自立? そんなものが欲しくて頑張ったわけじゃない! 俺が野菜を食ったのも、頭を下げたのも、全部お前に……お前に笑ってほしかったからだ!」


 クロードの声が震えている。

 それは癇癪ではない。魂からの叫びだった。


「あの日記を読んだ。恥ずかしくて死ぬかと思った。お前が俺を、手のかかるガキとしてしか見ていなかったことが悔しかった! それでも……図星だったから言い返せない自分が、もっと情けなかった!」


 彼はギリッと唇を噛み、少しだけ視線を伏せた。


「俺は、甘え方を知らなかった。厳しく育てられ、完璧であることだけを求められ……誰かに無条件で許される心地よさを、知らなかったんだ。お前が教えてくれるまで」


「クロード様……」


「だが、これじゃダメだ。お前に守られているだけの子供じゃ、お前を幸せにできない。お前の隣に立つ資格がない!」


 クロードは懐から、くしゃくしゃになった紙を取り出した。

 それは、私が置いてきた離婚届だった。

 無惨に破り捨てられ、それを不器用にセロハンテープで繋ぎ合わせてある。


「卒園なんて認めない。俺はまだ学び足りない」


 彼はそのつぎはぎだらけの紙を、私に突きつけた。


「これは『再入園願書』だ」

「……はい?」

「ただし、今度は『手のかかる子供』としてじゃない。……『お前を一生守り抜く夫』としてのコースに、再入園したい」


 クロードはその場に片膝をついた。

 泥だらけの地面も気にせず、彼は私の手を取り、その手の甲に熱い口づけを落とした。


「エレナ。俺と、やり直してくれ。もう二度と、お前を悲しませない。お前のすべてを愛し、守り、支えるパートナーになると誓う。だから……俺のそばにいてくれ」


 上目遣いではない。

 真っ直ぐな、力強い眼差し。

 そこにいるのは、私の庇護を求める「園児」ではなかった。

 私を愛し、私を必要とし、そして私を守ろうとする、一人の男性だった。


 視界が滲んだ。

 張り詰めていた緊張の糸が切れ、胸の奥から熱いものが溢れ出してくる。

 ああ、ダメだ。

 もう、「先生の仮面」を被っていられない。


「……クロード様、あ、いえ……あなた」


 私は涙を拭い、泣き笑いのような顔で彼を見下ろした。


「そのコースは、特進クラスですよ? カリキュラムは厳しいですし、もう甘えん坊は許されません。それでも、いいんですか?」


 私の意地悪な問いかけに、クロードはふっと表情を緩ませ、今日一番の――いや、出会ってから一番の、眩しい笑顔を見せた。


「望むところだ。俺は優秀な生徒だろ?」

「……ええ。私の、自慢の生徒です」

「ふん。今度は、頼れるパートナーだと認めさせてやる……!」


 私は彼の手を取り、強く握り返した。

 風が吹き抜け、私たちの新しい始まりを祝福しているようだった。


◇ ◇ ◇


 それから、数年の月日が流れた。


 オルデンブルク侯爵家の庭園には、柔らかな春の日差しが降り注いでいる。

 芝生の上では、三歳になる銀髪の男の子が、キャッキャと声を上げて走り回っていた。


「パパ、待てー!」

「こら、レオン。転ぶぞ」


 その子を追いかけているのは、落ち着いた物腰の紳士――クロードだ。

 彼は転びそうになった息子を軽々と抱き上げ、「高い高い」をして喜ばせている。

 その表情は穏やかで、かつての氷のような冷たさは微塵もない。


 彼はあれから、本当に変わった。

 領地の経営を立て直し、使用人たちとも信頼関係を築き、社交界でも「頼れる当主」として評価されている。

 そして何より、私に対しては――


「エレナ、寒くないか? ショールを持ってきたよ」


 息子を降ろしたクロードが、私の隣に来て、優しく肩にショールを掛けてくれた。

 その自然な気遣い。スマートなエスコート。

 完璧な「スパダリ」である。


「ありがとう、あなた」

「ああ。……それと、レオンが寝たら、その……久しぶりに二人でゆっくりしたいんだが」


 耳元で囁かれた言葉に、私の頬が熱くなる。

 夜の彼は、特進クラスどころか大学院レベルの熱烈さで、私を愛してくれるのだ。

 少しだけ「甘えん坊」な一面も残っているけれど、それは私だけの秘密である。


「ふふ、分かりました」


 私は手元の革表紙のノートを開いた。

 かつては観察日記だったこのノートは、今は私たちの「家族の記録」になっている。


 私は新しいページに、今日の幸せな光景を書き記した。


『○月×日

 本日の記録:パパとレオンが庭で遊んでいる。

 二人とも笑顔が素敵。

 クロード様は今日も世界一かっこいい夫でした。

 評価:花丸満点。』


「何を書いているんだ?」

「ふふ、内緒です」


 私はノートを閉じ、愛する夫と息子に向かって、最高の笑顔を向けた。


「さあ、ランチの時間ですよ! 今日はみんなでハンバーグを作りましょうか!」

「やったー!」

「……俺は、豆入り鶏肉じゃなくて、昔ながらの牛肉のものがいいんだが」

「あら、野菜も入れますよ? 食育ですから」


 幸せな笑い声が、青空に吸い込まれていく。

 私の「育児理論」改革は、こうして大成功のうちに幕を閉じたのだった。

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