氷の侯爵様は、どうやら絶賛反抗期のようです
「顔を見るのも不愉快だ。私の視界に入るなと言ったはずだが?」
氷点下の如く冷ややかな声が、頭上から降り注ぐ。
オルデンブルク侯爵家の当主、クロード・フォン・オルデンブルク。
私の夫である彼は、今日も今日とて、妻である私、エレナを見下ろして侮蔑の言葉を並べていた。
白銀の髪に、凍てつく湖のような青い瞳。その美貌は「氷の侯爵」の異名に相応しく、社交界のご婦人方が見れば黄色い声を上げて卒倒するレベルだろう。だが、今の彼が浮かべているのは、妻を汚物でも見るような表情だ。
「も、申し訳ございません、旦那様……あ、あの……」
「言い訳をするな!」
廊下の隅で小さくなっていた私に対し、クロードの苛立ちは頂点に達したようだった。
彼が乱暴に手を払う。その手が私の肩に当たったのは、おそらく彼にとっても偶然だったのかもしれない。けれど、華奢な体躯の私は、いとも容易くバランスを崩してしまった。
「あ……」
視界がぐるりと回る。
背後にあったのは、長く急な階段だった。
浮遊感。そして、全身を打ち付ける鈍い衝撃と激痛。
(あ、これ、死んだかも)
転がり落ちる最中、私の意識は急速に暗転していった。
薄れゆく視界の端で、クロードが目を見開いてこちらを見下ろしているのが見えた。心配しているようには見えない。ただ、面倒事が起きたとでも言いたげな顔で。
――ああ、なんて理不尽な人生だったんだろう。
その瞬間、私の脳裏に強烈な光が走った。
まるで走馬灯のように、見たことのない風景が溢れ出してくる。
園庭を走り回る子供たち。泥団子。お昼寝の時間。連絡帳の山。
『せんせー! たけしくんがまた砂投げた!』
『うちの子は特別なんです! 主役以外はやらせないでください!』
理不尽な要求を繰り返すモンスターペアレント。噛みつき、引っ掻き、暴れ回る猛獣のような園児たち。
それらを笑顔一つで捌き、手玉に取り、最後には「先生のおかげです」と感謝させてきた、あの怒涛の日々。
(……あれ? 私、前世は『伝説のカリスマ保育士』だったじゃない)
そうだ。私、死ぬまで保育士をやっていたんだ。
三百人の園児を統率し、PTA会長すら黙らせた私が、こんな青二才の癇癪に怯えていたなんて。
(業務効率が、悪すぎる……!)
そこで、私の意識は一度完全に途切れた。
◇ ◇ ◇
チチチ、と小鳥のさえずりが聞こえる。
重い瞼を持ち上げると、そこは見慣れた天蓋付きのベッドだった。
「……痛っ」
起き上がろうとして、全身の痛みに顔をしかめる。
頭には包帯が巻かれているようだ。どうやら即死は免れたらしい。
ズキズキと脈打つ頭痛と共に、今の私「エレナ」の記憶と、前世の私の記憶が完全に統合されていく。
エレナ・フォン・オルデンブルク、二十歳。
実家である伯爵家の借金返済のカタとして、この侯爵家に嫁いできて半年。
夫であるクロードからは「金で買われた女」と蔑まれ、使用人たちからも「飾り物の奥様」と軽んじられる日々。
これまでの私は、ただただ彼らの顔色を窺い、ビクビクと怯えて過ごしていた。
「……馬鹿みたい」
ぽつりと呟いた自分の声に、驚くほどドスの効いた色が混じる。
ベッドから降り、姿見の前に立つ。
そこには、蜂蜜色の髪と新緑の瞳を持つ、儚げな美少女が映っていた。顔立ちは文句なしに可愛い。ただ、目元にクマがあり、表情が暗いせいで幸薄そうに見えるのが難点だ。
「素材はいいのよ、素材は。こんなに可愛いのに、自信がないなんてもったいない」
鏡の中の自分に向かって、私はにっこりと微笑みかけた。それはかつて、保護者たちを安心させ、子供たちを沈黙させた「プロの笑顔」だった。
「よし。先生がプロデュースしてあげるからね」
状況を整理しよう。
ここは「家庭」という名のクラスルームだ。
現状は、学級崩壊真っ只中。
夫のクロードは、さしずめ「クラス一の問題児」。支配的で暴力的、コミュニケーション能力は欠如しており、気に入らないことがあるとすぐに暴れる。
(なるほど。要するに、反抗期ね)
二十四歳にもなって反抗期とは恐れ入るが、前世で相手にしてきた「おやつが気に入らないと泣き叫ぶ三歳児」や「お気に入りの先生を独占したくて暴れる五歳児」に比べれば、言葉が通じるだけマシかもしれない。いや、通じていないからこうなっているのか。
その時だった。
バァン!! と乱暴な音を立てて、寝室の扉が開け放たれたのは。
「いつまで寝ているつもりだ、この無能が!」
怒号と共に踏み込んできたのは、件の問題児――クロードだった。
後ろには、おろおろと従う執事やメイドたちの姿が見える。
階段から落ちた妻が目覚めたという報告を受けて、開口一番がこれだ。心配の言葉一つない。
以前の私なら、この剣幕に縮み上がり、「ごめんなさい、すぐに起きます」と涙目で謝っていただろう。
だが、今の私に見えているのは、「氷の侯爵」ではない。
(あらあら。お顔を真っ赤にして、血管切れそう)
眉間に深い皺を寄せ、肩を怒らせて威嚇するその姿。
私にはもう、彼が「お昼寝を邪魔されて不機嫌な園児」にしか見えなかった。
「聞いてんのか、エレナ! 貴様の不注意のせいで、屋敷中が大騒ぎだ。私の時間をどれだけ無駄にすれば気が済む!」
クロードが私の目の前まで大股で歩み寄り、見下ろしてくる。
その威圧感にも、私は一切動じなかった。
むしろ、自然と口元が緩んでいく。
私はベッドの縁に腰掛けたまま、首をかしげて、慈愛に満ちた――そして少しばかり憐れみを含んだ声色で言った。
「あらあら、まあまあ」
「……は?」
「そんなに大きな声を出して。クロード様、もしかして眠いんですか?」
「は……?」
クロードの表情が凍りついた。怒りとか以前に、意味が理解できないという顔だ。
後ろに控えていた執事のセバスチャンが、驚きのあまり眼鏡をずり落としそうになっている。
「それとも、お腹が空いちゃったのかしら。ごめんなさいね、私が寝ていたから寂しかったの?」
「き、貴様……頭でも打ったのか? 何を訳のわからないことを……!」
「ふふ、すごいですねー。そんなに元気なら安心です」
私は彼の言葉を華麗にスルーし、拍手まで送ってみせた。
保育士の基本スキル、「肯定的な無視」である。
癇癪を起こしている子供のネガティブな言動には反応せず、ただ事実だけを受け流す。まともに取り合うと、相手は「構ってもらえた」と学習して余計に暴れるからだ。
「おい、ふざけるな!」
「はいはい、お話は後でゆっくり聞きましょうねー。まずは身支度を整えますから、少しお外で待っててくださる?」
私は彼を子供扱いしたまま、メイドに向かって手招きをした。
メイドのアナが、幽霊でも見るような目で私を見ながら、恐る恐る近づいてくる。
「旦那様、聞こえませんでしたか? お着替えの時間です」
私がにっこりと、しかし目は笑っていない「先生の顔」で告げると、クロードは言葉を失ったように口をパクパクとさせた。
これまでの怯えきった反応との落差に、脳の処理が追いついていないらしい。
やがて彼は、顔を真っ赤にして、吐き捨てるように言った。やっぱり子供だ。
「……っ、勝手にしろ! あとで後悔することになるぞ!」
マントを翻し、足音荒く部屋を出て行くクロード。
バタン! と扉が閉まる音を聞きながら、私は「元気でよろしい」と心の中で花丸をつけた。
◇ ◇ ◇
その日の夕食。
ダイニングルームには、重苦しい沈黙が流れていた。
長テーブルの端と端に座る私とクロード。
カチャリ、カチャリと食器の音だけが響く。
クロードは相変わらず不機嫌そうに、眉間に皺を寄せたまま食事を進めている。
今日のメインディッシュは、仔牛のローストや舌平目のムニエルといった豪華な料理……の横に、なぜか不釣り合いなほど素朴な「ハンバーグ」が一皿置かれていた。
私はスープを飲みながら、横目で彼を観察する。
クロードは豪華な料理には目もくれず、フォークをハンバーグに突き刺した。
そして、一口食べた瞬間。
(……あ)
見た。
ほんの一瞬、コンマ数秒だけだが、あの常に険しい眉間の皺が消え、口元が緩んだのを。
まるで、大好物のおやつをもらった子供のような、無防備な表情。
すぐにまた仏頂面に戻ってしまったが、私の目は誤魔化せない。
(やっぱり。この人、味覚までお子ちゃまなんだ)
事前にシェフに聞き込みをした際、「旦那様はなぜか挽き肉料理の時だけ残飯が少ない」という情報を得ていたが、的中したようだ。
氷の侯爵だの、冷酷な当主だのと言われているが、中身はただの「素直になれない偏食坊や」に過ぎない。
私はナプキンで口元を拭い、こみ上げる笑いを隠した。
恐怖の対象だった夫が、今や可愛らしい観察対象に成り下がった瞬間だった。
(いいでしょう。クロード様)
私は心の中で、高らかに宣言する。
(あなたがその幼児性を卒業し、一人前のレディへのエスコートができる男になるまで、私が徹底的に「教育」して差し上げます。そして立派に更生した暁には――私、笑顔でここを退職……いえ、離婚させていただきますからね!)
「……何を見ている。気色が悪い」
「いいえぇ? よく噛んで食べていて、偉いなぁと思って」
「……ッ!?」
噎せ返る夫を尻目に、私は優雅にワインを傾けた。
私の華麗なる「育児」生活は、今まさに幕を開けたのである。




