02:未練という名の楔
倒れた青年を、エリアーリアは距離を置いて眺めた。
ぽつ、ぽつ、と冷たい春の雨が降り始めて、森の緑を濃く濡らしていく。雨粒が青年の銀髪や汚れた頬を打つ。彼の苦しげな呼吸だけが、静かな森に響いていた。
(関わってはいけない)
脳裏に、師である大地の魔女テラの厳格な声が響く。
『我ら魔女はただ還るための存在。人間との交わりは、魂に未練という楔を打つ。未練は、還りを妨げる毒である』
その教えは、エリアーリアの百年を支えてきた魔女の理そのものだった。
彼女は左の胸元を押さえる。そこに刻まれているのは、花のような紋様だ。『深緑の魔女』の証である、魔女の紋様だった。
そして目の前の青年は、自然の摂理が引き受けるだろう。獣が傷つき倒れれば、やがて森の土に還る。この人間も同じ。彼女が手を下すまでもなく、森がすべてを受け入れる。
エリアーリアは静かに踵を返し、その場を去ろうとした。
「……うぅ……」
苦痛に満ちた、か細い呻き。
その声が、彼女の足を縫い止めた。
数歩進んだまま、動けない。雨脚は次第に強まって、彼の体温を容赦なく奪っていく。そのさまが、森を見通す魔女の力を通して痛いほどに伝わってくる。
魔女として生きた百年は、静謐と孤独に満ちていた。人としての心など、とうの昔に捨て去ったはずだった。
だがどうしたことだろう。
かつて人間だった頃の、人を助けたいという思い。忘れていたはずの感情が、心の奥底で動くのを感じる。
――見捨てれば彼は死ぬ。
その事実が、理屈を超えた重みとなってエリアーリアにのしかかった。
(なぜ……なぜ、足が動かないの。今の私は魔女。人としての心なんて、もう必要ないのに)
エリアーリアは天を仰ぎ、深く長い溜息をついた。雨粒が彼女の長い金の睫毛を濡らして、水滴を弾いた。
「……目覚めが悪すぎるわね、まったく」
呆れたような独り言は、誰に聞かせるものでもない。
エリアーリアは青年へ向けて手をかざした。彼の体は淡い緑の光に包まれて、ふわりと宙に浮き上がる。
雨に濡れる森の中、浮遊する青年を先導するように、彼女は小屋へと戻っていく。
誰もいない小屋の中は、暖炉の残り火が揺れる、ハーブの香りが満ちた穏やかな空間。外の荒れた天候が嘘のようだ。
(傷が癒えたら、すぐに追い出してやるんだから)
エリアーリアは自分に言い聞かせながら、青年を寝台に横たえた。
人との過度な交わりは、魔女の禁忌。その一歩を踏み出してしまった自覚は、胸の奥にしまい込む。
手当ての準備は手際よく進んだ。
魔力を帯びた小刀で、血と泥に汚れた上質な衣服を切り裂く。剥き出しになった肩口の傷は深く、赤黒く腫れていた。
背中にも傷がある。正面から切り結んだ後、逃げる時に受けたのだろう。
青年の必死の逃避行が、目に見えるようだった。
服を脱がせる途中、懐の内ポケットから小さな物が転がり出た。拾ってみると指輪である。
立派な意匠の紋章が刻印された指輪は、いかにも風格を感じさせた。
エリアーリアは眉を寄せるが、すぐに首を振って指輪を脇の机に置いた。
(この紋章、見覚えがあるような気がするけど……。まあ、いいわ。今は治療が先)
清めの魔力を込めた湧き水を布に含ませ、傷口を拭おうとした、その瞬間。
水が肌に触れた途端、異変が起きた。
傷口を中心に、まるで黒いインクが透明な水に滲むように、禍々しい紋様が浮かび上がったのだ。
「……何なの?」
エリアーリアは思わず手を止める。
それはただの痣や紋様ではなかった。黒い茨が皮膚の下を這うように広がり、まるで生き物のように禍々しく脈打っている。
彼女が込めた清めの魔力に反応して、それを喰らい、さらに力を増している。
その正体を察して、エリアーリアの顔からさっと血の気が引いた。
「これはただの傷じゃない。これほどの悪意に満ちた呪い、見たことがない……!」
魔女の魔法とは系譜が違う、人間の闇魔術。相手を苦しめて命を奪うためだけの邪術だ。
同時に理解した。この『魔力を喰う』性質の呪いであれば、森の守護結界を突破してもおかしくない。
彼女は単なる厄介事ではなく、邪悪な何かに触れてしまったことを悟った。