01:深緑の森の主
木漏れ日が、幾重にも重なる葉の隙間から降り注ぎ、苔むした地面に光のまだら模様を描いている。
深緑の魔女エリアーリアの住む森は、今日も静寂に満ちていた。百年の時を生きる彼女にとって、この変わり映えのしない平穏こそが日常だった。
蔦の絡まる小さな小屋の前、年季の入った木製の椅子に腰掛けて、手元のカップに口をつける。
鼻腔をくすぐるのは、カモミールの柔らかな甘さと、数種類のハーブが織りなす爽やかな香り。遠くで聞こえる山鳩の鳴き声と、頬を撫でる風の涼やかさが心地よい。
春の森を吹き渡る風が、彼女の長い金の髪を揺らした。森に降る木漏れ日そのもののような、淡い金の髪。
肌は白磁のように白く美しく、汚れ一つない。伏せがちな長い金の睫毛に彩られたのは、森の深緑そのものの色。
ここは魔女の森。人の手の届かない、神秘の領域。
(今日も変わりない。それでいい。それがいいの……)
いずれ自らの魂と魔力がこの森の一部となり、世界を支える力となる「大いなる還元」。それこそが魔女の宿命であり、存在意義でもある。
その時が来るまでこの穏やかな時間は続く。エリアーリアは、運命を静かに受け入れていた。
ふと。視界の隅にある若木の葉先が、力なく萎れていることに気がついた。
エリアーリアはカップを切り株のテーブルに置いて、音もなく立ち上がる。彼女の素足が触れる苔は、しっとりと柔らかい。
若木のそばに屈み込み、そっと指先を伸ばした。白い指が葉に触れた瞬間、淡い緑の光が走る。萎れていた葉先は見る間に瑞々しさを取り戻した。
「大丈夫。もう喉は渇かないでしょう」
幼子に語りかけるような、穏やかな声。
生命と植物を司る「深緑の魔女」。この森は彼女の庭であり、彼女自身そのものだった。
◇
いつも通り穏やかな午後の静寂は、唐突に破られた。
若木から手を離した瞬間、不快な魔力の揺らぎが森全体を走ったのだ。
くらりと軽い目眩を覚える。森に施している結界が、無理にこじ開けられたとエリアーリアは察した。
(……何かしら)
静かに凪いでいたはずの心に、小さなさざ波が経つ。魔女として生きたこの百年、このような乱暴な侵入者は存在しなかった。
ただの迷い人であれば、このようなことにはならない。誰かが明確な意志で、森の護りを突破したのだ。
直後、森の空気が一変した。
近くの枝で木の実をかじっていたリスが、ピィッと甲高い警告の声を上げる。鳥たちが一斉に枝を蹴って空へと逃げていく。
にわかに騒がしくなった森の中に、一陣の風が吹き抜けた。
(これは、血の匂い)
風が運んできたのは、鉄錆と泥とが交じりあった生々しい血の匂いである。
(血……? この森に、これほど濃い血の匂いはそぐわないわ)
エリアーリアの中で、疑念と警戒の意識が鎌首をもたげた。
この森に、もちろん獣たちはいる。肉食の狼や熊が獲物を狩れば、血の匂いが漂うこともある。
だがこの匂いは、彼女の知る森の営みから逸脱したものだった。食べるためではない、傷つけるためだけの悪意によるもの。
エリアーリアはゆっくりと立ち上がった。深緑の瞳に宿るのは、先ほどまでの穏やかさではない。自らの領域を侵した者への、冷たい怒りの感情だった。
彼女は迷いのない足取りで、結界が綻びた方向、血の匂いが濃い場所へと向かった。苔と土の上を歩く素足は足音を立てず、滑るように進んでいく。
森の入口に近づくにつれて、木々はまばらになっていく。木漏れ日は陽射しとなって、エリアーリアの金の髪を弾いた。
そしてまだ若い樫の木の根本に、それはいた。
エリアーリアは思わず足を止めた。木の陰に身を隠して息を殺す。
そこに倒れていたのは、一人の青年である。月の光を集めたような銀の髪は、今は泥と血に汚れて額に張り付いている。
年頃は二十歳になるかならずか。ようやく大人になったばかりの若者だった。
(人間? なぜこんなところに)
警戒は解かず、観察を続けた。
青年が着ている衣服は切り裂かれて汚れていたが、生地の質感やわずかに見える金糸の刺繍は、ずいぶんと豪華なものに思えた。
ひどく苦しそうな様子で、浅い息を繰り返している音が、静かな森の中に響いている。
顔はやはり汚れていたが、品良く整っており、育ちの良さを窺わせた。
エリアーリアは慎重に、一歩ずつ青年に近づいた。
間違いない。この男はただの旅人ではない。森での暮らしが長い彼女でも分かる。こんな人間が、なぜ血まみれで魔女の森に倒れているのか。
エリアーリアの百年の孤独と静寂に投げ込まれた、異質で危険な存在。
面倒ごとの匂いしかしなかった。
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