泣き声の音楽室
夜の寮の食堂。
夕食の片づけもひと段落し、残っていた数人がテーブルに肘をついて談笑していた。
そのなかで、ひときわ声をひそめるグループの話題が耳に飛び込んでくる。
「ねえ、聞いた? 夜の音楽室からピアノが聞こえるんだって」
「え、それって……」
「“泣き声の少女”が弾いてるんだってさ。聞いた人はね、数日後には同じ曲を無意識に弾くようになって……最後には消えるんだって」
――カラン。
わたし、中峰陽子は、思わずスプーンを取り落としかけた。
心臓がどきんと跳ねて、耳まで熱くなる。
(な、なにそれ!? 消えるって、完全にアウトでしょ!?)
全身が一瞬で冷えた気がした。
そんなとき――。
「青春だわ!」
隣の席から高らかな声。
言うまでもなく、七瀬麻衣だ。
肩までの黒髪ストレートを揺らし、背筋を伸ばすその姿はクラスの誰もが振り返るほど美人なのに、言うことはどうしてこうも残念なのか。
「いやいやいや!? どこが青春なの!? 消えるんだよ!? 最後の部分ちゃんと聞こえてた!?」
「だってほら、音楽と怪異の融合よ? ロマンチックじゃない!」
「ロマンチックじゃなくてホラーだよぉぉ!」
麻衣は涼しい顔で、わたしの抗議なんてまるで届いていない。
それどころか、「決まりね!」と親指を立てていた。
「決まりってなにが!? やめようよ! 普通に生きたいんですけど!?」
「次の調査は音楽室に決定! 青春は待ってくれないのよ!」
「いやだから青春の定義がバグってるぅぅぅ!」
周囲の子たちも笑っていたけれど、わたしは本気で涙目だった。
……そして案の定、わたしの抵抗なんて受け入れられるはずもなく。
◆
深夜。旧校舎の音楽室。
麻衣にずるずると引きずられるようにしてたどり着いたそこは、昼間の喧騒が嘘みたいに静まり返っていた。
窓から差し込む月明かりは冷たく、埃をかぶった譜面台がぼんやり浮かび上がる。
黒光りするアップライトピアノの存在感が、不気味なほど際立っていた。
「うわ……完全に出るやつじゃん……」
「いい雰囲気じゃない! 青春の香りがする!」
「青春じゃなくて心霊現象のにおいだからぁぁ!」
わたしの声は裏返っていた。
けれど麻衣は、まるで遊園地に来たかのようにきらきらした目で辺りを見回している。
そのとき。
ぽろん――。
低い鍵盤の音がひとつ、勝手に鳴った。
空気がひりつき、背筋に冷たいものが走る。
「ひっ……!? だ、誰も触ってないよね!?」
わたしは思わず麻衣の袖を掴んで後ずさった。
なのに――。
「……え?」
気づいたら、わたしはピアノの椅子に座っていた。
どうやって移動したのか記憶がない。
足も手も動かしていないのに、まるで夢遊病者みたいに。
「な、なんで……!? わたし、ここに座った覚えなんて……っ!」
立ち上がろうとしたが、腕も足も鉛みたいに重い。
そして次の瞬間――わたしの指が、勝手に鍵盤を押し始めた。
ぽろん、ぽろん……。
泣いているみたいに物悲しい旋律。
それは勝手に流れ出し、部屋の空気を支配していく。
「ちょ、ちょっと!? わたしピアノ弾けないから! なんで動いてるのぉぉ!?」
「すごい! 陽子、隠れた才能があったのね!」
「ちがうってばぁぁぁ!!」
止めようとしても指は止まらない。旋律に絡め取られるように、勝手に動く。
頭の奥に、知らない記憶が流れ込んできた。
――孤独な少女の放課後。
――誰にも認められなかった練習の時間。
――涙に濡れた最後の旋律。
胸が痛くなった。
「……泣いてるの、あなた……?」
震えながら声を漏らしたそのとき――。
ピアノの蓋に、ぼんやりと顔が映った。
涙で濡れた少女の顔。唇がゆっくりと動く。
『一緒にいて』
『友達になって』
『……消えて』
「や、やめ……!」
喉が潰れそうで声が出ない。けれど必死に抵抗しようとする。
「陽子ぉー! 本物の演奏会みたい! 観客ゼロだけど!」
「実況してないで助けてよぉぉ!」
説得しなきゃ。この子に言葉を届けなきゃ。
きっと寂しくて、誰かと一緒にいたかったんだ。
「大丈夫だよ……あなたの曲、ちゃんと聴いてる。すごくきれいだよ」
ピアノの音が一瞬揺れた。
少女の表情が、少しだけ柔らいだ。
……でも。
『だったら――一緒に消えて』
「ひっ……!」
腕が重くなり、体が引き込まれそうになる。
その瞬間。
「どいて! わたしも弾かせて!」
「えええええ!? 今このタイミングでぇぇ!?」
麻衣がわたしをぐいっと押しのけ、椅子に腰を下ろした。
そして、ためらいもなく鍵盤に両手を置くと――。
……ドン。
……ガーン。
めちゃくちゃな和音が鳴り響いた。リズムも音程もあったものじゃない。
けれど麻衣は、満面の笑みで次から次へと鍵盤を叩き続ける。
「ふふっ、わたしもピアノ弾けるようになりたいの! 青春だし!」
音楽室に響くのは、旋律と呼ぶのもおこがましい滅茶苦茶な音列。
なのに、麻衣は本当に楽しそうで、まるで子どもが遊園地ではしゃぐみたいな笑顔を浮かべていた。
「……もう……ほんとにバカなんだから……」
呆れ声が漏れたはずなのに。
その必死で楽しそうな姿を見ていると、不思議と胸が温かくなって――気づけばわたしの口元に、ふっと笑みが浮かんでいた。
その瞬間だった。
陽子の指を縛っていた旋律がぷつりと途切れ、代わりに麻衣の出鱈目な音が部屋を埋め尽くす。
めちゃくちゃな和音なのに、なぜかそこには笑い声みたいな明るさがあった。
ピアノの蓋に映る少女の影が、じっと麻衣を見つめていた。
そして、ぽつりと声が届いた気がした。
「……そういえば……わたしも……ピアノを始めたときは……ただ、楽しかった……」
少女の瞳が潤み、口元にかすかな笑みが浮かぶ。
その笑みは、麻衣の無邪気さと、わたしの思わずこぼした笑みに重なって――。
音楽室を覆っていた冷たい空気が、少しずつやわらいでいった。
そして、少女の姿は霧のように溶けて消えた。
◆
静まり返った音楽室。
わたしは椅子の横でぐったり崩れ落ち、麻衣は得意げに胸を張っていた。
「ね、やっぱりわたしの演奏が決め手だったわね!」
「いやいやいや!? 絶対ちがうよね!? むしろ邪魔だったよね!?」
「ふふっ、これも青春のハーモニーよ」
「無茶苦茶理論すぎるぅぅぅ!!」
そんな騒ぎのあと――。
音楽室には、ふたたび深い静寂が戻っていた。
その静けさの中に、ほんのかすかに。
少女の小さな笑い声が聞こえた気がした。
◆
その夜、寮に戻ったわたしはぐったりとベッドに倒れ込んだ。
「……もうやだ。心臓がいくつあっても足りない……」
隣のベッドでは、麻衣が満足そうに伸びをしている。
「やっぱり青春って最高ね!」
「いやいやいや!? あれのどこが最高なの!? 心霊現象だよ!? 心霊現象!!」
「ほら、怖いだけじゃなくて、最後に救いがあったじゃない。笑って消えたのよ? きっと成仏したのよ」
「そうかもしれないけどぉぉ!」
毛布に顔をうずめて呻くわたしをよそに、麻衣は布団の上で次のページをめくるみたいに話を続けた。
「そういえば岡崎先生、まだまだ怪異の資料があるって言ってたわよね」
「……え」
「旧校舎には他にも噂が残ってるんだって。ほら、“開かずの理科準備室”とか、“首を振る肖像画”とか!」
「や、やめてよ!? 今言うことじゃないから!!」
でも、胸の奥がざわついた。
さっきの音楽室みたいに、まだ解き明かされていない“何か”が、この学園には眠っている――。
次の怪異は、どんな顔でわたしたちの前に現れるのだろうか。