旧講堂の拍手
放課後の旧校舎。
わたし、中峰陽子は、ほうきを手にぐったりと肩を落としていた。
「もうやだ……ほんとにやだ……」
埃まみれの部室掃除。前回のペットボトル事件でクタクタなのに、麻衣はというと――。
「ほら! これで噂倶楽部の実績は二件目よ!」
肩までの黒髪を揺らし、にこっと笑う麻衣。
ほんと、空気を読まないというか、自信満々というか……。
「いやもう、辞めたいんですけど……」
「なに言ってるの! 青春は始まったばかりでしょ!」
麻衣がロッカーから見つけたノートの一枚に、こんな走り書きがあった。
『旧講堂に響く拍手――それは観客のいない舞台に立つ者の、最後の声』
……いやいやいや! 最後の声って、どう考えてもヤバいやつでしょ!?
「よーし! 次の調査決定!」
「決定じゃないから! 即中止だからぁぁぁ!!」
当然のように麻衣に引っ張られ、わたしは夜の旧講堂へ連行されることになった。
◆
旧校舎の隣にある旧講堂は、長い間使われていない。
扉の前に立っただけで、背筋に冷たい風が吹き込むようだった。
重たい両開きの扉に手をかける。
ギィィ、と錆びついた蝶番が鳴り、隙間から冷気が押し寄せた。
「……うわ、臭っ……」
湿った木材とカビの匂いが鼻を刺す。
月明かりが割れた窓から差し込み、舞台には古びた幕が垂れ下がっていた。
赤いはずの布は茶色に褪せ、破れ目から埃がはらはらと落ちてくる。
観客席はほとんどが壊れた椅子。背もたれの板が折れ、布地は剥げ、木材は黒く染みている。
でも――そこに、誰かがまだ座っているような錯覚がした。
「ひぃ……完全にホラー映画のセットじゃん……」
「いい雰囲気じゃない! 青春の舞台って感じ!」
麻衣のテンションは上がる一方。わたしはすでに帰りたい。
足を進めると、床板がギシ、と鳴った。
天井の照明は当然落ちているのに、不意にどこからか微かなざわめきが。
……人の声? 風の音? どっちなのか分からない。
舞台に上がろうとしたとき――。
パチ……。
「え……?」
たったひとつの拍手が、講堂に響いた。
わたしの鼓動と同じタイミングで。
次の瞬間――。
パチ……パチ……。
「ひっ!?」
今度は二拍。観客はいない。なのに、確かに舞台に向けられた喝采。
「すごいわ! わたしたち、スターになっちゃった!」
「やめて! 手振らないで! なんで煽るの!? ほら! 拍手増えてるじゃん!」
パチパチパチ……。
音は重なり、まるで満員の観客が座っているかのような錯覚を生む。
足が重くなり、降りようとしても動けない。
「やだ……降りられない……」
「ふふっ、降りられないヒロイン! まさに青春よ!」
「助ける気ゼロぉぉぉ!?」
◆
突然、舞台にスポットライトが当たった。
光が照らした先には、一冊の古びた本。
「……絶対嫌な予感しかしない」
「これは運命ね! 開けてみなさい!」
恐る恐る手に取ると、それは芝居の台本だった。
タイトルは――『王子と町娘』。
「うわぁ……」
めくると、手書きの台詞が並んでいる。
次の瞬間、拍手がひときわ大きくなり、まるで舞台に「演じろ」と迫ってくるようだ。
「えっ……やるの!? ほんとにやるの!?」
「当然よ! 青春は演劇から始まるの!」
麻衣はノリノリで「王子役」を宣言し、わたしは否応なく「町娘」に。
◆
最初はただのコントだった。
「さあ、愛しき娘よ! この王子が迎えに来た!」
「棒読み!? しかも変なイントネーション!」
「ふふ、これはわざと。笑いを取る演出よ!」
「やめてぇぇぇ! 観客席ざわめいてるから!」
見えない観客が「ブー!」と囁いている気がして、心臓が潰れそう。
けれど麻衣は次第に真剣になっていった。
声のトーンが低く落ち着き、仕草も自然に。
まるで本物の王子みたいに、堂々とした演技を始めたのだ。
「……愛している。町娘よ。運命に引き裂かれても、私はきみを選ぶ」
――え。
さっきまでの茶化した演技とは全然違う。
ぐっと近づいてくる麻衣の熱に、わたしの喉はカラカラになった。
けれど、違和感があった。
麻衣の瞳が、舞台のライトを映すようにぎらぎらと輝いている。
その真剣さは、わたしを見つめているというより――観客席に向けられているみたいだ。
「えっ……ちょ、待って。麻衣……?」
心臓が跳ねるのは、近づかれてドキドキしたせいだけじゃない。
――これ、麻衣が自分の意思でやってるんじゃない。
気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
彼女は、あの“拍手”に取り込まれかけている。
観客に応えようとする気持ちが、怪異に利用されているんだ。
「どうしよう……止めなきゃ……でも、この舞台から降りられない……!」
喉がつまって声が出ない。
麻衣の演技はますます真に迫り、拍手もどんどん熱を増していく。
舞台全体が、わたしたち二人を芝居に閉じ込めようとしていた。
◆
必死に考える。
――拍手。これは、喝采。けれど同時に“終わり”の合図でもある。
でも今のこれは、わたしたちを讃えているんじゃない。
観客のいない客席から沸き起こる喝采は、わたしを飲み込み、押し潰そうとしている。
パチ……パチ……パチパチパチパチ――!!
音は次第に早まり、重なり合い、まるで無数の手が一斉に叩きつけられているように響く。
鼓膜が震え、胸の奥まで響き渡る。
声にならない囁きが混じって聞こえる。
『もっと演じろ』
『最後までやれ』
『終わりは許さない』
影の観客たちが、形を持ち始めていた。
空っぽだった椅子に、黒い人影がずらりと並び、無表情の顔で舞台を見上げている。
無数の目が、わたしに釘付けになっていた。
「や……やだ……」
逃げたいのに足が動かない。
心臓が破裂しそうなほど鳴って、汗が背中を伝う。
――このままじゃ、わたし、本当に舞台に取り込まれる。
そのとき、頭に浮かんだのは、さっきまでの芝居だった。
町娘が苦しみながらも、最後に観客へ向けて深く礼をして幕を閉じる……そんなラストの一節。
「……そうだ……」
終わりを告げるのは、観客じゃない。演じるわたし自身だ。
それを思い出した瞬間、震える足に力が戻る。
わたしは舞台の中央に立ち、深く頭を下げた。
「――ありがとうございました!!」
叫ぶように、声を張り上げた。
その瞬間、拍手がぴたりと止んだ。
静寂。
最後の一拍が木霊のように講堂に残り、ゆっくりと消えていく。
観客席の人影は、一体また一体と溶けるように消え、最後には空っぽの椅子だけが並んでいた。
幕の裏に見えた影も、拍手の残響とともに霧のように散っていく。
重苦しかった空気がすうっと軽くなり、月明かりが舞台を照らし返した。
もうそこには、ただ古びた講堂が残っているだけだった。
――終わったんだ。
膝が震え、息が一気に抜けていく。
胸の奥に残るのは、恐怖と安堵がごちゃ混ぜになった感覚だった。
◆
「はぁぁ……生きてる……」
その場にへたり込み、全身の力が抜ける。
麻衣はというと、満足そうに笑っていた。
「やっぱり陽子、座長の器だわ!」
「いやいやいやいや!! 副部長で十分だから!!」
必死に叫んだ声が舞台に虚しく反響する。
鼓動はまだ早鐘を打っていて、足も震えて立ち上がれない。
麻衣は何事もなかったように手を差し伸べてきた。
その笑顔はどこか舞台の王子のままのようで、わたしの胸はまた変にドキドキする。
結局その手を取って立ち上がるしかなく、講堂を後にした。
◆
その夜。
寮に戻ったわたしは、全身の力を抜いて布団に潜り込んだ。
暗闇の中で、さっきの舞台の光景が何度も脳裏に蘇る。
真剣な瞳で見つめられたこと。
名前を呼ばれたこと。
あの一瞬、心臓が止まるかと思うくらいに胸が締めつけられたこと。
「……やめやめやめ! 思い出すなぁぁぁ!!」
枕に顔を埋めてジタバタする。
どうして青春がホラー寄りなのか、本当に理解不能だ。
けれど胸の奥に残る鼓動は、恐怖だけのものじゃない気がして――ますます眠れなくなった。