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夜の鏡

 夜の女子寮。

 わたし、中峰陽子はベッドに潜り込み、頭から布団をかぶっていた。


「いやいやいや、絶対行かないから! 夜の鏡なんて、ホラー映画直行便でしょ!?」


 必死で抵抗するわたしの布団を、容赦なく引きはがす影がある。

 パジャマ姿の七瀬麻衣。ゆったりしたシルク地の上下は、背の高い麻衣の体をすらりと包み込み、長い手足や胸元のラインをいやでも強調していた。


「何言ってるのよ。せっかくの青春イベントでしょ?」

 にやりと笑った麻衣が、ずいっと身を乗り出してくる。


「やだああ! わたしは明日まで生きたいのっ!」


 もみ合ううちに、足がもつれてベッドの端でバランスを崩す。

「きゃっ!」

 次の瞬間、どさりと音を立てて、麻衣とわたしの体が重なった。


 見上げると、間近に麻衣の顔。

 シャンプーの香りがかすかに漂い、肌に触れる吐息まで感じるほど近い。

 パジャマ越しに伝わる体温が熱くて、心臓の音が自分のものか麻衣のものか分からなくなる。


「……陽子」

 麻衣が小さく名前を呼ぶ。


 その声が胸の奥に直接落ちてきて、背中がぞくりと震えた。


「な、なに……?」

 情けないくらいか細い声しか出なかった。


 麻衣の瞳が、真っ直ぐにわたしを映している。

 冗談も笑みも浮かべていない、吸い込まれそうな真剣な眼差しに、鼓動がさらに早まっていく。


 ……もしかして、このまま……。


 胸がぎゅっと締めつけられ、何か言わなきゃと思ったその瞬間。


「やっぱり、行くしかないわね」


「この状況で!? なんでそうなるの!?」


 頭の中で積み上げていた妄想も期待も、すべて盛大にぶち壊されて、わたしは思わず絶叫した。



 結局、麻衣に強引に説得され、わたしは仕方なくベッドから起き上がった。麻衣は早速、噂倶楽部のノートをベッドの上に広げてきた。あの旧校舎から持ち帰ったやつだ。


「ほら、岡崎先生の条件よ。『夜の鏡』を解決しないと、噂倶楽部復活できないんだから。青春の試練だわ!」


「試練とか言わないで! わたしホラーはほんとに無理なんだから!」


 麻衣がノートをめくり、ページを指差す。

「ここに詳しく書いてあるわ。読んでみてよ、陽子」


 しぶしぶノートを手に取る。古びた紙に、丁寧な手書きの文字が並んでいた。

 ただ、“3日以内に姿を消す”の一節だけ、インクが妙に濃い。筆圧が跳ねていて、書いた人自身も怯えていたのかもしれない。


「えっと……『夜の鏡の噂:旧校舎女子トイレの鏡を、零時ちょうどにのぞくと、自分とは違う顔が映る。鏡を見た者は、3日以内に姿を消すという報告あり。失踪した生徒は、鏡に映った“偽の自分”に取り憑かれた可能性が高い。現れる条件:満月の夜、または心に弱さを抱えている者。対処法:“偽物に負けず、本物の自分を名乗り通した者は助かる”』」


 読み上げながら、背筋がぞわっとした。

「名乗り通せって……そんなの、できるわけないじゃん!?」


 麻衣は胸を張る。

「できるかどうかじゃないの。やるのよ。――青春だもの!」


「いやいやいや! 青春で命張るのは違うでしょ!?」



 旧校舎の廊下。

 窓の外をちらりと見ると、雲間に欠けた月が浮かんでいた。……満月じゃない。

 じゃあ“条件”は――わたし、か。


 深夜、わたしたちはこそこそと寮を抜け出して、目的の女子トイレに立っていた。


 噂の記録によると――「夜の零時、鏡をのぞくと、自分とは違う顔が映る」。


 スマホの時計が23:59を刻む。58、59――00:00。息を呑む。


 トイレの鏡は古びて曇り、蛍光灯の唸る音を鈍く反射していた。

 洗剤の匂いが微かに残っているのに、背筋は冷たい汗で湿っていく。


 麻衣は肘でわたしをつつき、「先にのぞいてみてよ」と平然とした顔で言った。


「……絶対いやぁ……」

 抵抗しても無駄だと分かっているので、しぶしぶ一歩前へ。


 ――最初は、普通のわたし。


 でも、瞬きをした瞬間。


 映っていたのは、笑っていない“わたし”だった。

 口元は固く結ばれ、目は冷たい光だけを宿している。


「ひっ……!」


 思わず目をそらしても、鏡の中の“わたし”は動かない。まるで切り離された別の存在みたいに。


「どうしたの、陽子? ……あ、そういえば知ってる? 零時ちょうどに合わせ鏡を見ると、自分の死顔が映るんだって!」


「なんで今それ言うのぉぉぉ!? わたしを殺す気!?」


 麻衣はけろっとして笑っている。悪気がないのが逆に恐怖だ。


 再び鏡を見れば――そこにいるのは冷酷な“わたし”。しかも今度は、口を動かしていた。


 ――『無理して笑わなくていい』


 胸が痛んだ。入学してすぐのころ。クラスで浮きかけて、必死で笑顔を貼りつけた日。あの顔が、そのまま鏡にあった。


 ――『本当は寂しいんでしょう?』


 思い出す。家はすぐ近くだったのに、寮に入った理由。……本当は、ひとりになりたくなかったから。


 ――『誰にも必要とされてない』


 胸が締めつけられる。けれど、その言葉と同時に思い出す。初めて声をかけてくれた麻衣の笑顔を。あの一言があったから、わたしはここにいる。


 ――『全部、嘘の笑顔。お前は空っぽ』


 今度は複数の声が重なった。鏡の中のわたしが、ひとつ、ふたつと分裂し、無数の“偽物”が輪唱のように責め立てる。

 照明がバチッと音を立てて瞬き、ガラスに無数の手形が浮かび上がり、内側から押し出してくる。


「やめて……そんなこと、言わないで……」


 涙がにじんだ瞬間、鏡の中の偽の“わたし”たちがにたりと笑った。


 ――『あなたは陽子じゃない。――あなたこそ、偽物』


 心臓が潰れそうで、声がうまく出せない。タイルの冷えが足裏から骨まで凍らせていく。


 ふと横を見ると、麻衣は腕を組み、まるで観客のようにいい笑顔で見ていた。……でも、拳だけが小さく震えていた。――任せる、ってことか。


 頭の奥で必死に考える。

 ――勝利条件。“偽物に負けず、本物の自分を名乗り通すこと”。


「……本当に、わたしが偽物なら」

 震える声で、わざとゆっくり言葉を紡ぐ。

「どうして“わたしの気持ち”をそんなに知ってるの?」


 鏡像が一瞬止まる。


「寂しいって言った。必要とされてないって言った。……それ、ぜんぶ“わたし”だから知ってるんでしょ?」


 唇が震えながらも、続けた。


「“弱さ”は偽物じゃない。積み重ねた“わたし”の一部だよ!」

「だから――わたしこそ、中峰陽子なんだ!」


 自分でも驚くくらい大きな声だった。


 次の瞬間、鏡の中の“偽物”はひび割れるガラスのように表情を歪め、霧のように掻き消えていった。


 鏡はただの古びた鏡に戻り、異変は収まった。


 わたしはその場にへたり込み、大きく息を吐いた。

 心臓はまだ早鐘を打っていたけれど、胸の奥に確かな実感が残っていた。

 ――偽物を追い払ったのは、わたしの言葉だった。



 翌日。

 わたしたちは職員室に呼ばれ、岡崎先生の前に立っていた。


「……なるほど。おまえたち、よくやったな」

 低くかすれた声で言いながら、先生は眼鏡を押し上げる。


「報告によれば、“偽の自分”と向き合ったそうだな。……人は誰しも心の奥にもうひとりの自分を飼っている。あれはおそらく、それを喰らう怪異だったのだろう」


「でもまあ、心配ご無用です!」

 麻衣が腕を組んでふんぞり返り、どや顔で言った。

「わたしたちが、ばっちり解決しましたから!」


「解決してないよ!? わたしが必死に踏ん張ったんだよね!? 麻衣は横で腕組んでただけだったよね!?」


 先生は、ただゆっくりと口元に笑みを浮かべた。

 けれどその笑みは優しさとも嘲りともつかず、底の知れないものにしか見えなかった。


「……五年前、噂倶楽部を潰すきっかけとなった“本物の鏡”は、まだこの学園に眠っている」


 ぞくりと悪寒が走る。


「……次の調査に備えるといい。噂倶楽部は、おまえたちの手で復活するのだからな」


 いや、わたしは復活なんてさせたくないんですけど!?



 その日の放課後。

 わたしたちは部室の清掃を続けていた。

 古びたロッカーの奥から、札でびっしり覆われた一本のペットボトルを見つけることになるなんて――このときのわたしは、まだ知る由もなかった。



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