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 そのとき彼はとっさにフォークボールの握りに変えた。だからボールはワンバウンドで審判のお尻に当たった。しかも尾てい骨から外れた、お尻の肉がたっぷりある場所であったことも幸いだった。

 審判に大した怪我はなかったのだ。

 そのうえ彼はボールを「ぶつけた」直後、血相を変えて審判の元へ駆け寄り、土下座して謝ったのだ。

 そういう訳で彼は出場停止一ヶ月と少々の制裁金という処分で済んだ。

 もちろん彼は、二度とそのスーツを使う気にはなれなかった。

 だからスーツは巾着に入れ、安アパートの押入れの奥にしまい込んでしまった。


 制裁が解けたシーズン終盤の消化試合で、彼は自分本来のフォームで二度ほど登板した。

 彼の体が「魔法のピッチングフォーム」を多少は覚えていたことが幸いしたのか、まずまずのピッチングが出来た。

 もちろんスーツを使っていた時とはかなり見劣りする内容ではあったが、彼は多少なりとも手応えを感じていたのだった。


 シーズンが終わり、彼は秋季練習初日のグラウンドへと向かった。

 ところが到着するや編成部長に事務所まで呼び出され、その場で戦力外通告を受けてしまった。

 彼にとっては寝耳に水の話だった。しかし彼は「球団の方針」とのみ告げられ、解雇の理由を教えてもらうことはなかった。

 だが本当の理由が審判にボールを「投げつけた」というあの「暴力事件」であったということは、彼にとっては火を見るよりも明らかだった。

(自分がまた何をやらかすかわからない。球団のお偉いさんたちはそういうふうに考えていたのだろう…)

 彼は想像するしかなかった。


 それから彼は自分のロッカーを片付け、そしてグラウンドを去ることとなった。

 彼は歩きながら、ふとグラウンドを振り返った。

 するとかつて彼が代役を務めた、あの肩を壊したベテラン投手が黙々と外野の芝生を走っているのが遠くに見えた。

 そして彼が「時間外の捕球」をさせてしまうこととなったあのブルペン捕手は、いつものようにブルペンでボールを受けていた。

「ナイスボール!」という威勢のいい声も、(地獄耳でなくとも)彼のいる場所まで届いた。


 彼らに声を掛けようかとも思ったが、練習や仕事の邪魔になるのも申し訳ないし、戦力外になった自分が情けなくもあり、「まあいいか…」と思った彼は、寂しくその場を去った。

 そんな彼はもはや「怪力コーチ」に指導されることも無い。だから、駅までの道をダッシュする必要も無かった。

 それで彼はその道をのろのろと歩いた。

 そして彼が電車に乗ると昼間の時間帯で、ゆっくりと座ることが出来た。

 彼はロッカーの荷物を無理やり詰め込んで、ぱんぱんに膨れ上がったバッグを膝に抱え、窓の外を眺めながら、ぼんやりと今後のことを考えていた。

(どこかの入団テストを受けようかな。でも、現実は厳しい筈だ。あのスーツを使わなければ自分はただの「二戦級投手」だし、その上、「暴力魔」というレッテルまで貼られているし…)


 それから安アパートに帰り中に入ると、彼はそのバッグを放り投げ、くたびれたソファーに腰を下ろした。

 そして彼は一度ため息をついて、それから何気なく前を見た。

 すると目の前のテーブルには、この夏彼に来た暑中見舞いのはがきが何枚か無造作に置いてあった。

 その中に、高校時代の野球部の仲間からのもがあった。軟式野球チームを作ったといって、お揃いのユニフォーム姿の写真も印刷されていた。懐かしい仲間の姿が写っていた。

 高校時代よりも少しだけ歳をとって見えたが、彼らの目は一緒に甲子園を目指した高校時代と全く同じだった。

 それを見ていると、絶望的だった彼は、少しずつ「まんざらでもない気分」になっていった。

(こっちで仕事を探すより、地元に帰ろうかな。このチームで、のんびり野球をやりながら、ゆっくり職を探そうかな。まあ何とかなるさ…)

 そんなことを考えながら、彼はソファーにゴロンと横になった。そして、まんざらでもない気分になった彼は少し眠くなり、しばらくうとうととした。


 と、突然、「ボンッ」という音がして彼は飛び上がった。辺りには煙がただよっていた。

 火事かガス爆発か? それから彼は辺りを見渡したが、煙で何も見えなかった。

 だけど床だけがかすかに見えたのでそれを頼りにドアへと向かい、放り投げてあったバッグを見付けると、それを抱え外へ出ようとした。

 と、ドアの所に人影があった。


 やがて煙はだんだん薄くなり、その人影がはっきりと見え始めた。

 白髪のぼさぼさの髪を後ろに束ね、げじげじの長い眉毛を生やし、もじゃもじゃの不精ヒゲを胸のあたりまで伸ばし…あの福の神だった。

「お前さん、まだ野球に未練があるようじゃのう」

「あなたは、いつぞやの!」

「わっはっは。まあ座れ」

「でも、どうして僕がまだ野球に未練があると?」

「命より大切そうに抱えておる、そのバッグは何じゃ?」


 だいたい「福の神」だなんて言いながら、とんでもないものを渡された! 彼はずっとそう思っていた。

 よりによって審判にボールを投げつける羽目になるなんて! 

 例の「暴力事件」のことで、彼は福の神に対してかなり怒っていたのだ。

 そんな彼の頭の中に、その「怒!」がリバイバルした。

「で? あなた、一体ここへ、何しに?」

「そう怒らんでもよいではないか。わっはっは。まあ、わしの話を聞け」

「はぁ」

「あ~、今日わしがお前さんの所に現れたのはじゃな、ほかでもない。お前さんにある魔力を授けようと思うたからじゃ」

「魔力?」

「立ち話もなんじゃ。まあ座れと言ったじゃろうが」


 それで彼はつい先程まで寝転んでいた、自分のくたびれたソファーに座った。

 まあ座れも何も自分の部屋の自分のソファーだ。他人に指図される筋合いなど全く無いが…

「間違いなくお前さんの役に立つ筈じゃ」

「役に立つ? それって…また何か変なスーツじゃないでしょうね?」

「変なスーツとはこりゃまた御挨拶じゃのう。あれはお前さんが勝手に使い方を間違えただけじゃ。いやいや、お前さんではなかった。あの怪力コーチじゃな。よりによって、肝心なあの場面で、臍のスイッチをあの怪力で押すとはのう。わっはっは」

「笑いことじゃありません! 僕、暴力魔にされた上に、クビですよ!」

「じゃからスーツはもうやめた。ろくなことがない。とんでもない手間暇かけた揚句あの始末じゃ」

「そうですよ!!(怒)」

「そう怒るな。じゃから今度は魔力なのじゃ。魔力なら、臍のスイッチで暴走することも無かろう。わっはっは」

「魔力なら暴走しない?」

「そうじゃ。まあいい。今日はそれをお前さんに授けに来たのじゃ。今度こそお前さんの役に立つこと間違いなしじゃ。その為にわしは『魔界の気象予報士』の資格まで取ったのじゃ」

「今度は気象予報士ですか。前は確か鋳物の…」

「それだけではないぞ。わしは天之水分神あめのみくまりのかみの所で修行をしておった」

「あめの…、何ですかそれは」

「豊作の神じゃ。ばりばり縁起が良いのじゃ」

「じゃ、僕が登板するとグラウンドが豊作になるのですか?」

「当たらずとも遠からずじゃな」

「何ですかそれは?」

「まあよいではないか。とにかくこの魔法でまた天下無敵じゃ。年俸もうなぎ登り。ぜいたくな暮しが出来るぞ。高級車に乗って颯爽とスタジアムへ。家へ帰れば、革張りの高級ソファーに100インチのプラズマテレビ。ケチケチ…」

「聞いたようなせりふですね」

「それはいいが、まだ野球には未練があるのじゃろう?」

「そりゃまあ、出来ることならもう一度プロのマウンドで…」

「そうじゃろうそうじゃろう」

「でも魔法で凄い球を投げるっていうのはダメですよ。そういうのは、ドーピングと同じでしょう? それに、また出場停止なんて嫌ですよ!」

「その点は心配無用じゃ。お前さんの投げる球自体は全く変わらんからじゃ。じゃがこの魔力を授かることで、お前さんは試合で重要な働きをし、チームの勝利に貢献すること請け合いじゃ。わっはっは」

「またわっはっは!何ですかそれは!」

「それにどう間違っても、審判にボールを投げつけるようなハメになることは、無いと思う。あ~、お前さんがわざとやらん限りじゃが」

「チームの勝利に貢献して、審判にボールを投げつけない?」

「そうじゃ」

「だけど、やっぱり怪しいなあ」

「お前さんも疑り深い奴よのう」

「一ヶ月の出場停止を食らったのですよ。その上、クビ!」

「それはまあ、大変気の毒に思うておる。しかしわしも次の魔法に向けいろいろ考え、そしてわざわざ気象…」

「気象予報士ですね。魔界の」

「それに天之水分神の所で…」

「それじゃ、豊作の神様の所で田植えの指導でも受けたのですか?」

「田植えの指導は受けてはおらん」

「そうですかそうですか。まあ、何でもいいけれど、多分、大変だったのですね」

「そうじゃ。それに、お前さんには多分迷惑は掛けん」

「多分迷惑は掛けん? 多分って…、場合によっては掛けることも無きにしも非ず?」

「そう厳密に言われても困るが…」

「じゃ、厳密には迷惑を掛けることも、あり得る?」

「そう根掘り葉掘り訊くもんじゃない。それはまあ絶対に迷惑を掛けんと誓えと言われれば、そうとは言い切れんが、概ね迷惑を掛けることは、あ~、ないと思うが」

「概ね迷惑を掛けることは、あ~、無いと思う? 何だかいいかげんだなあ。やっぱり怪しい!」

「う~ん。やっぱり怪しいか」

「だって僕は、暴力魔にされた上に…」

「そうじゃよな。言われてみればまさにそのとおりじゃ。考えてみれば、わしはいらぬことをせぬ方が良いのやも知れぬ」

「はぁ?」

「すまんかった。大変お騒がせしたな。ならばわしは帰る」


 あんなに積極的だった福の神が、どういう訳か突然弱気になり、それからドアの方へとぼとぼと歩き始めた。

 どこへ帰るのかは定かではないが、その後ろ姿がやけに寂しそうだった。

 これ程一生懸命自分の為に魔法を考えてくれ、(魔界の)気象予報士の資格も取り、その上豊作の神様の所に弟子入りまでしたらしい。

 それなのにむげに断るのも福の神に申し訳ないのではないか。

 彼はそう思い始めていたのだ。ともあれ得意の「申し訳ない思い」が湧き起こった彼は、ドアの近くまで歩いていた福の神に思わず声を掛けた。

「ねえねえ、ちょっと待って」

 すると福の神は振り返り、嬉しそうに戻ってきた。

「そうこなくっちゃ!」

 どうやらこれは福の神の演出の疑惑があったのだが彼は、

(ダメならさっきソファーで考えたみたいに田舎へ帰ればいい。同級生のチームで投げるだけだ。それに福の神の話によると投げる球自体はあまり変わらないらしいから、ドーピングでもないみたいだし、〈多分〉自分に迷惑は掛からないのなら…)と、福の神がドアの所から嬉しそうに彼の元へと戻ってくる短い間に、そんなことを考えたのだった。

「わかりました。もう球団はクビになったことだし、ダメ元です。お願いします!」

「わかった。それじゃじっとしておれ」

 そう言うと福の神は彼の顔に手をかざし、何やら訳のわからない呪文を唱え始めた。

〈ウラガボールチャンナギティアミガフユイアミガフユイ・・・・・・〉

 呪文はしばらく続き、それから福の神は言った。

「これでOKじゃ」

「一体僕にどんな魔法を?」

「あわてんでもよい。これで田舎の草野球で投げる必要などないわい」

「僕が高校時代の仲間のチームで投げようかなぁ、なんて思っていたことを、どうして知っていたのですか?」

「言わずもがなじゃ。わしは魔界に…」

「ああ、そうでしたね。で、どんな魔力なんですか?」

「そのうちにわかる」

「そのうちにわかる?」

「わしは魔界の気象予報士の資格を取ったのじゃ。しかも天之水分神に弟子入りもした。じゃから、見てのお楽しみじゃわい。わっはっは。ああそうそう。押入れに仕舞い込んでおる魔法のピッチングフォームのスーツは持って帰るぞ。もういらんじゃろう? 魔界の草野球チームでわしが使う。忍者たちのチームと試合があるのじゃ。まあよい。それでは君の成功を祈る」

どろん!


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