4
それから福の神は一旦電源を切ると、スーツを折りたたみ、彼に手渡そうとした。でもその前に魔法ではさみを出し、スーツの両手を手首から先だけちょきんと切り落とした。
「どうしてそこを切るのですか?」
「ボールは自分の手で握るとよい。そうすれば自由に変化球も投げられよう」
「なぁるほど」
「さあさあ着替えた着替えた」
「だけど、あの…、考えてみると僕、左投げなんだけど。で、そのスーツ、というか、モデルになったその人は右投げですよね。それじゃ僕、困るんだけど…」
「何のことはない。裏返しに着るのじゃ」
「あははは。なるほどね」
「ああ、それから…、なるべく余計なものは着けんとはだかの上からスーツを着るのじゃ。その上にトレーニングウエアを着ると良い」
しばらくして、彼はトレーニングウエア姿でスパイクを履いて茶室の土間から出て来た。
「これってウレタンフォームというより、ナイロンで出来た、ただの下着みたいですね」
「スーツの電源が切れておるときは全く自由に動けるのじゃ。まあよい。まずは肩慣らしじゃ。いきなり動作させると、お前さんの肩を傷めてしまうからのう」
福の神に言われるまでもなく、彼は肩慣らしのキャッチボールを始めた。
もちろん相手は先程の忍者がやってくれた。その忍者は捕球といい返球といい実に柔らかくてスムーズな動作でキャッチボールをしていた。
そして(魔界には忍者のプロ野球チームでもあるのだろうか? それに、この黒い和服のようなコスチュームは、魔界のプロ野球のユニフォームなのだろうか…)などと彼がいらぬことを考えているうちに、彼の肩はすぐに出来た。
確かにそれは、そのときの彼唯一の取り得だった。
そして彼が福の神に魔界のプロ野球の有無について質問する暇も無く、肩が出来た彼を見計らうように、福の神は言った。
「あ~、使い方じゃが、まず左手、じゃなかった。あ~、右手の袖のあたりの電源ボタンを押すのじゃ」
「これ…ですね」
「そうじゃ。それでスーツは作動状態に入る」
「ありゃりゃ、本当だ」
確かに彼は強制的にセットポジションの構えになった。
左右は逆だが、その人物そっくりの…
「グラブは臍の前じゃ。さっきも言ったように、臍の辺りにもう一つのスイッチが付いておる。それをグラブで押せばスーツが投球動作に入るのじゃ」
「はい」
それから彼は言われたとおり、グラブで臍のスイッチをポンと押した。
と、突然、スーツは物凄い力で動き始めた。
彼の体はスーツに引きずられるように、強引に投球動作入ったのだ。
それは、その人物の現役時代の投球フォームそのものだった。しつこいようだが左右は逆の。
そして、すばらしく切れの良い快速球が、忍者の構えるミットに吸い込まれた…
それから福の神の説明を受けつつ、彼はひとしきり投げ終えると茶室で元の服装に着替え、脱いだスーツを福の神に手渡し、それからもう一度茶室の縁側に座った。
福の神は受け取ったスーツを元通り巾着に入れ、その巾着ごと彼に手渡した。
「ほれ、これを持って行くがよい」
巾着を受け取った彼はそれをひざの上に置いた。
「でも福の神様。どうして僕にこんなことをして下さるのですか?」
それは彼の素朴な疑問だった。
「それはさっき言ったぞ。ノックアウトと最後通告としごきで気の毒に思うたと。それとあとは、その人物の言いぐさじゃ」
「言いぐさ?」
「お前さんのことをぼろくそに言うておったのじゃ。実はわしは試合の中継を魔界のテレビで見ておった」
「魔界のテレビ?」
「魔界にもテレビくらいある。人間界の番組も見ることが出来る。魔界では結構人気があるのじゃ」
「へぇー」
「まあそれはよいが、とにかくその人物はじゃな。お前さんのことを『よくもまあこんな投手がプロにいたもんですね』と言いおった」
「僕、そんなこと言われていたんだ…」
「その言葉が、わしにスーツを作らせる決め手になったのじゃ。わしはお前さんのことが気の毒でたまらんかった。今から思うに、その人物は口が滑ったのやも知れぬ。と言うのはどうも酔っ払ったようなしゃべり方じゃったので、一杯ひっかけて解説をしておった可能性が無きにしも非ずじゃ。その人物は悪い人間には思えんからじゃ」
「だからそれはきっと、僕を激励しようと思ってのことですよ」
「お前さんは心が真っ直ぐで良い。うん。ますます気に入った」
「また真っ直ぐ…」
「じゃから、そんなお前さんのためにこのスーツを作ったのじゃ」
「僕のために?」
「まあよいではないか。ともあれ、これでお前さんも大投手じゃ」
「はぁ」
「『はぁ』はもういい」
「は…、はい」
「わかれば良い。それじゃグッドラックじゃ!」
「あの…、ええと、僕が投げる試合の中継を見て数時間しか過ぎていないのに、どうしてスーツを作る時間があったのですか? 過去へ行ったり、縫製工場とか、いろいろ…」
「魔界は人間界とは時の流れが全く違うのじゃ。まああまり難しく考えるな」
「時の流れ?」
「そうじゃ。まあ良いではないか。じゃぁな。グッドラック、パートⅡじゃ。わっはっは」
どろん!
その直後、彼は電車のロングシートに一人で座っていた。
ひざの上には巾着があった。
それから彼は、自分がどうやってアパートに帰ったのか全く記憶が無かった。
次の朝、自分の安アパートで目覚めたとき、枕元に巾着があるのを見て彼は驚いた。
いくら何でもあれは電車の中で見た夢に違いない。彼はそう思っていたからだ。
しかも中には、きちんと折りたたまれたスーツが入っていた。




