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そのことに気付いた彼ははっと我に返り、自分の胸に張り付けられた電極を強引に引き剥がし、ついでにそれを思い切り引っ張って、コードの部分をブチリと引き抜いた。そして電天様の手から美味しそうな「きゅうり」を奪い、そのままばりばりと食べてしまった。
味はきゅうりそのものだった。しゃきしゃきとした歯ごたえで、実際にけっこう美味かった。
まあそれはいいけれど、それから彼は、
「電天様、騙されているよ。これはぼくらの世界では『振り込め詐欺』って言うんだ!」
そう言うと彼は電天様の手を引き、キャッシュコーナーを出た。
「とにかく僕は帰る!」
毅然とそう言うと、彼はすたすたと歩き出した。少し歩いて振り返ると、呆気に取られたような顔をした電天様が立っていた。
次の瞬間、バンバンというけたたましい音とともにどろんと煙があがり、ややあってその煙が消えると、彼は家の近くの犬の散歩コースにいた。
目の前には申し訳なさそうな困った顔をした犬のリードを持ち、とても怒った顔の彼の母が立っていた。
「あんた、急に出て来るんじゃないよ。こいつ、またうんこをしそびれたじゃないか!」
それから、「やれやれ!!!はぁ~!!!!」と言いながら犬の散歩を続けるはめになった母親を見送ると、彼は家に帰り、部屋でゴロンと寝転んでいろんなことを考えた。
(あ~あ、これでMP120の話は消滅だな。それとも僕は魂を取られた方がよかったのかな。だけどあれは完全にやばいよ。多分、魂を振り込んでもMP120スペシャルは売ってもらえなかっただろうな。うん。きっとそうだ…)
遅い朝飯を食べてしばらくしてから、彼はランニングでもして気分転換をしようと、河川敷の堤防をゆっくりと走った。
グラウンドの辺りまで走ると、突然どろんと煙が上がった。
「ありゃりゃ電天様。今日はよく逢いますね」
電天様はいきなり土下座した。
「本当にすまんことをした」
「電天様、そんなことしなくても…」
「やはりデーモンは詐欺師じゃったわい」
「はぁ~、やっぱりね」
「あれからMP製作所に電話をしたのじゃ」
「はぁ」
「電話といっても、わしの携帯電話はお前さんが食べてしもうたので、昔ながらの公衆電話から掛けたのじゃが。魔界の十円玉を5枚ほど使こうたかな」
「へぇー、魔界にも公衆電話があるのですね。十円玉も?」
「あたりまえじゃ。魔界にはきゅうりが嫌いな奴も多いし、小銭くらいはある」
「ああ、そうですか」
「それでじゃ。MP製作所の人…、人というても魔人じゃが」
「はぁ」
「そいつの話によると、デーモンなどという社員はおらんそうじゃ。しかも最近MP製作所の社員を名乗っての振り込め詐欺が横行しとるらしい」
「魔界にもそんな…」
「それと魔界のパンタグラフは、やっぱり何が何でも最大で100メートルなんだそうじゃ」
「何が何でも最大100メートルぅ?」
「わしにもようわからんが、魔界のパンタグラフが100メートルを少しでも越えると、熱力学の第二法則を破ることになり、場合によっちゃ宇宙全体の、仮に運が良くても我々の銀河系宇宙全体の時空連続体を破壊することにもなりかねんらしいのじゃ」
「時空連続体? ウチュウゼンタイ? ギンガケイウチュウ? そうなんですか。わかりました。わからんけど! とにかく120メートルは無理なのですね! で、ネツリキガクで?」
「ともあれそういうことじゃ。とにかく膜宇宙理論的な深い深い考察の結果、魔界の物理学会での結論はそういうことになっとるらしい」
「深い深い考察の結果…、ですね。で、マクウチュウリロン? 魔界のブツリガッカイ…」
「まあいい。とにかく気の毒な話じゃが、MP120スペシャルなどと言う代物は、デーモンの奴の脳内にあるお花畑に咲く作り話に過ぎんかったという訳じゃ」
「やっぱり作り話ですか。デーモンの脳内のお花…」
「せっかく池乃下球場でのう」
「でもまあ、しょうがないです。(きっぱり!)早速仕事を見付けて、あとは草野球で頑張ります」
「それは清々しいことじゃ。あ~、それでじゃな、確かこの前、池乃下球場でコーチを相手に試しに投げしようとしたら、池袋駅の四番線の架線から火花が飛んだということがあったじゃろう」
「よくそんなことを…」
「わしは何でも知っておる。魔界の…」
「そうでしたそうでした。あのときは電車が止まって大混乱になって、それで沢山の人に甚大な迷惑を…」
「それにしてもお前さんは人を思いやる優しい心を持っておる。そこが、わしがお前さんを気に入っておるところなのじゃ」
「はぁ」
「じゃが親父さんも言ったように、お前さんは悪気があってそうした訳ではない。じゃから、あまり気にせんでもよい。所詮それは過ぎたことに過ぎん」
「はぁ」
「『はぁ』はもういい。それで、実はその件についてMP製作所の人…、人といっても魔人じゃが…」
「はぁ」
「で、その魔人に相談したところじゃな。それはパンタグラフの離線に伴うアークという現象らしいのじゃ」
「離線でアーク?」
「まあ詳しいことはさておいて、ともあれ、その対策を考えてもろうたのじゃ」
「どんな対策ですか?」
「パンタグラフはお前さんの背中に付いておるのじゃが、そこから架線までの距離を計測する装置を付けてもろうたのじゃ。レーザーを使って正確に計測出来るらしい」
「レーザー?」
「もちろん魔界のレーザーじゃ。じゃからお前さんはもとより人間には全く見えんそうじゃ。それをお前さんの肩に取り付けた」
「僕の肩にそんな物を付けたのですか?」
「心配するな。大切な左肩ではない。右肩じゃ」
「はぁ」
「そして肩から架線までの距離が正確に99.99メートルになった時点でブレーカーを作動させ、集電を止めるようにしたそうじゃ。電源が切れるということじゃ。で、あ~、電源が切れるに際しても、その切れるタイミングを最適化したそうじゃ」
「サイテキカ?」
「そうじゃ。これで離線してもアークが生じることはないらしい。つまり火花は飛ばんということじゃ」
「はぁ、それはそれは御親切に」
「あまり嬉しくないようじゃのう」
「はぁ」
「その『はぁ』は気が抜ける。まあ、それは良いが、あと、VVVFインバーター制御に変えたそうじゃ」
「ぶいぶいぶい・・・?」
「というのはじゃな。JR東日本とJR九州では、架線の電気が違うそうじゃ。JR東日本は直流1500ボルト。JR九州は交流2万ボルトじゃ」
「ややこしいのですね」
「それで、お前さんの背中に着いちょったのは、もともとはJR九州用じゃった。それをJR東日本の電気にもさらに適合するように改造してもろうたのじゃが、その際VVVFインバーター制御にすると相互乗り入れがスムーズに出来るのじゃそうな。それに若干効率が良くなって、少しパワーアップするらしい。球速も152キロくらいになるそうじゃ。どうじゃ、凄いじゃろう?」
「ぶいぶいぶいで相互乗り入れがスムーズで152キロにアップ? ああそうですか」
「少しは喜べ」
「はいはいはい。どうもあざっす」
「あざっす? まあよい。で、実は…、これは、お前さんの魂を悪魔に売り渡そうとしたことに対する、罪滅ぼしなのじゃ。じゃからパンタグラフの改造はその頭金と思え。残りは次の機会に払うから」
「罪滅ぼしの…、頭金?」
「まあよいではないか。ともあれ、これからは離線してもアークは起きん」
「つまりパンタグラフが外れても、火花は飛ばないということですね。それは良かったです。あんまり関係ないけど」
「そう冷たくいうな。これはわしの気持ちの頭金じゃ」
「はいはいわかりました。でも、僕が池乃下球場で投げることは、太陽が超新星爆発しても、金輪際ないと思うけど」
「チョウシンセイバクハツ?」
「ようわかんないけどそういうのがあるらしいです」
「まだわからんぞ。もしかすると、何かの役に立つやも知れぬ」
「そうかも知れませんね。豪快に期待してませんけど」
「おっと、こうしてはおれん」
「またコンサートですか?」
「今度はお~いお茶女子大じゃ。デーモンに合ったら、張り倒してやる。まあいい。じゃあな!」
どろん!
それから彼はランニングの続きをやった。ひと汗かいて、それからゆっくりと堤防の道を歩いて家へと向かった。歩きながら彼は考えた。
(相互乗り入れも何も、VVVFインバータも何も、だいたいパンタグラフが架線に届かなくなるのだから、こんなものが一体何の役に立つのやら…)
それからいつもの河川敷の景色を眺めながら歩いていると、グラウンドで子供たちが草野球をやっているのが見えた。
そこではピッチャーの子がマウンドからぴょんと飛び上がり空中でボールを投げるという、妙に器用なことをやっていた。
(やってるやってる。何とかの魔球とかいって、昔マンガでそんなのがあったよな)
それを見た彼はそんなことを考え、そして自分もこれからは彼らみたいに、楽しく野球をやろう。彼はそう考えながら家へと向かった。
家では例によってソファーに座り、しばらく彼はぼーっとしていた。
それから彼は何となく、「マウンドでぴょんか…」とつぶやくと、これまた何となくテレビをつけた。
本当に何となくつけたのだが、VVVF、じゃない。Vリーグのバレー中継やっていた。
画面では鍛え上げられた選手のダイナミックなスパイクがコートに炸裂していた。
彼の眼はそのスパイクに釘付けになった。
(バレーのスパイクって…)
そのとき、河川敷での草野球の投手の姿と、バレーのスパイクが、彼の頭の中でばっちりとシンクロした。
(これだ!)




