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「その下にある三つの『申し訳ない思い』も全部忘れてしまえ」

(え?)

 彼は自分の耳を疑った。そして自分の頭の中を正確に言い当てられたことに当惑した。

 それから彼は恐る恐る、その声の発する方を見た。

 彼の隣には奇怪な老人が座っていた。

 白髪のぼさぼさの髪を後ろに束ね、げじげじの長い眉毛を生やし、もじゃもじゃの不精ヒゲを胸のあたりまで伸ばし、お坊さんの袈裟のような物を着て、一方の手に巾着を持っていた。


「そもそもお前さんは何も悪くない。人助けもしたじゃろう」

「人助け?」

「肩を傷めた誰かさんの、代役を務めたじゃろう」

「はぁ」

「だいたい、あの怪力コーチにとっ捕まって遅くなったおかげで、わしの隣に座れたのじゃ。人生何が幸いするかわからんのう、若いの。わっはっは」

 いつの間にこんな奇怪な老人が隣に座っていたのか、彼には全く記憶がなかった。

 そもそもこの老人は何故、自分がピッチングフォームのことや「申し訳ない思い」で頭が一杯だったと知っていたのか。そしてコーチにしごかれたことも…

 彼にはとても不思議に思えた。

 だけどその一方で、それくらいのことなどやってしまいそうな迫力を、彼はその老人から感じ取っていた。

 それと一見奇怪な老人に思えたものの、げじげじ眉毛の下にはとても悪人とは思えないようなやさしい目があった。それで彼はその老人に少しだけ心魅かれた。


「あなたは一体…、どなたですか?」

「わしか? わしは八番手の福の神じゃ。七福神から漏れてはおるが奴らとそう見劣りはせんわい」

「七福神の八番手ぇ?」

「わっはっは。まあ安心いたせ。いずれにしてもわしは福の神の端くれじゃ。今夜お前さんがわしの隣に座ったのはじゃな、大変な幸運なのじゃ」


 七福神の八番手…、何だか先発ローテーションから漏れた控えの投手みたいで彼自身と似た境遇のようにも思われ、彼はその老人に少しだけ共感した。

 と同時に、少しだけ胡散臭いものも感じた。

 七福神の八番手…、本当に能力があるのなら、七福神に入れてもらえる筈だ。

 だから彼はこの老人のことを、(もしかしたら頭のイカれた酔っ払いかも…)などとも思い始めてもいた。

 それで彼はいい加減に、その老人にこう答えた。

「それはどうも、御親切に。はははっ」

「おや、わしのことが信じられんようじゃのう。わしを(もしかしたら頭のイカれた酔っ払いかも…)と思うておる。どうじゃ、ずぼしじゃろう」

「いえいえ、そんなこと…」

「今、お前さんは『いえいえ、そんなこと…』などと申しはしたが、まだわしのことをただの酔っぱらったじじいだと思うておる。どうじゃ、ずぼしじゃろうハートⅡじゃ。わっはっは」

「はぁ」

「そんくらいのことはお前さんの顔を見ればすぐにわかる。お前さんは心が真っ直ぐじゃ」

「僕の心が…、真っ直ぐ?」

「そうじゃ。お前さんの心は曲がってはおらん。じゃがまあ、いまはそげなことはまあどうでも良い。じゃがわしはお前さんが気に入った。わっはっは」

「はぁ。気に入っていただけたのは光栄ですが、僕に何か御用ですか?」

「ピッチングフォームのことじゃ!」

「ピッチングフォーム?」

「じゃから『そげなピッチングフォームなぞ、忘れてしもうて構わんわい』と、最初に言ったじゃろうが」

「そういえば、どうして僕がピッチングフォームのことで悩んでいたと、知っていらっしゃったのですか?」

「わしは魔界に生きる者じゃから、お前さんの考えることは何でもわかるし、お前さんのことなら何でも知っておる」

「何でもわかる? 何でも知っている? そんなぁ…」

「心配するな。お前さんの極端なプライベートのことなどは、わしもあまり気にしてはおらんわい」

「僕の極端なプライベート…、はぁ」

「心配するな。お前さんを取って食う訳でもない。そもそもわしは福の神じゃ」

「そもそも…、福の神ぃ?」

「さっき言ったじゃろう。七福神の…、」

「ああ、確か、八番手と…」

「まあよい。それでじゃ。あの図体のでかい怪力コーチにはこう言われたじゃろう」

「はぁ」

「あ~、お前さんの肩が開いておる。投球時、足を踏み込んで、体重が前に乗って肩が開く。お前さんはそのタイミングが早すぎるのじゃと。じゃから球の出所が見やすいし、バッターから見るとあまり恐怖感が無いのじゃ。それにじゃな、少しばかりシュート回転しおる」


 その老人が見掛けによらず、なかなか野球に詳しいことに少し驚き、それで彼は少しだけその老人を尊敬し、信用する気分にもなっていた。少なくとも悪い人物とも思えなかったし…

「やけにお詳しいですね」

「まあそれはよいのじゃが、実は、耳寄りの話があるのじゃ」

「耳寄りの話?」

「実は極秘のルートで、お前さんに理想のピッチングフォームを手に入れたのじゃ」

「ピッチングフォームを、手に入れたぁ?」

「そうじゃ。こいつは肩の開かん理想のフォームなのじゃ」


 意外と野球に詳しそうで、この老人に一目置こうとしたのだが、「ピッチングフォームを手に入れた」などと、めちゃめちゃ訳のわからぬことを言い始めるものだから、彼は少々当惑した。

「でも手に入れたって言ったって、ピッチングフォームはウレタンフォームみたいな物じゃないのだから…」

「ところが実際に手に入れたのじゃ。それで、あ~、ウレタンフォームは当たらずとも遠からずじゃ」

「はぁ~?」

「それも、とびきりのピッチングフォームじゃわい」

「ウレタンフォームみたいなのが? まあ…、どうしても手に入れたとおっしゃるのなら、それはいいとして、だったらあなたが投げないと。だけど、お見受けするところお年を召していらっしゃるようだし、まさかプロ野球選手でいらっしゃる訳は…」

「ばかもん! わしがプロ野球選手に見えるか?」

「ひえ~~、どうもすみません!」

「いやいや、脅かしてしもうたな。気にせんでよい。わっはっは」

「はぁ」

「もちろん、お前さんがそのフォームで投げるのじゃ」

「僕がそのフォームで? じゃあ今からどこかでフォームの指導でもして下さるのですかぁ? でも、今夜はもう晩いしぃ…」

「そんな有難迷惑そうな顔をせんでも良い。心配するな。あの怪力コーチが長々とやっておったようなフォームの指導など無用じゃわい。多少取り扱いの説明はいるが」

「取り扱いの説明? そんな電気製品じゃあるまいし」

「まあ、電気製品…、というよりは、あ~、強いて言えば衣料品の類じゃな」

「ピッチングフォームが強いていえば衣料品の類? で、ウレタンフォームみたく? 何ですかそれは?」

「まあよい。とにかくこれはお前さんにとって理想のピッチングフォームなのじゃ。それを、お前さんが着る!」

「僕がピッチングフォームを、着る?」

「さっき衣料品の類と言ったじゃろう」

「え~、ピッチングフォームが衣料品だなんて! だからウレタンフォームってか。ああああああ、何だか僕、めまいがしてきたみたい」

「めまいなぞせんでもよい。電車が揺れておるだけじゃ。ほれ、丁度今、ポイントを通過したところじゃ」

「はぁ」

「まあそげなことはどうでもよい。実は…、これは、魔法のピッチングフォームなのじゃ」

「魔法のピッチングフォーム?」

「そうじゃ」

「しかも衣料品の類、ですか? もしかして、ウレタンフォームで出来てんの?」

「そうじゃ。衣料品の類じゃ、よう分っておるのう。じゃからそれをお前さんが着る」

「……」

「そんなややこしい顔をせんでもよい」

「はぁ」

「まあ詳しくは後で話すが、とにかくこれを手に入れた以上、さっきからお前さんの頭の天辺にあった、ああ、怪力コーチから教わった、あのごちゃごちゃした、ええい! あんなややこしいピッチングフォームのことなんぞ、ばっさりと忘れてしもうて構わんのじゃ。どうじゃ、いい話じゃろう。わっはっは」

「何でもいいけど、僕が魔法のピッチングフォームを、着る?」

「そうじゃ。お前さん、飲み込みが早いのう」

「ああ、やっぱり僕、めまいがしているのかも。それとも、頭がおかしくなっちゃったのかな。やっぱり豪快に疲れているんだ…」

「たった2イニングしか投げておらんじゃろうが。何が疲れていようか!」

「1回と3分の2です。一発くらったのは二回の表、ツーアウト満塁からです。あ~あ、あの一発で試合を壊しちゃったな。それに監督やコーチには迷惑を掛けたし、ブルペン捕手の人にも…」

「おぬしは人を思いやる優しい心を持っておるな。気に入った。いやいや、さっきからわしはお前さんを気に入っておったのじゃ」

「はぁ」

「しかしわしはその『申し訳ない思い』も忘れろと最初に言ったぞ。お前さんは何も悪くないからじゃ。まあいい。ますますお前さんが気に入った」

「そんなに気に入られても…」

「まあよい。電車の中は少々騒々しい。ちょっと来んかね」

「どこへ?」

「いいから付いて来い。茶でも飲もう」

「どこでですか?」

「いいからいいからいいから」

 どろん!

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