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次の朝、一晩ぐっすり眠って少し前向きに考えられるようになった彼は、父の助言に従って電車のダイヤの乱れも空のダイヤの乱れも、自分に悪気があってやった訳ではないからと自分に言い聞かせ、豪快に開き直り、気持ちを切り替えることにし、早速、近所の商店街へと高下駄を買いに出かけた。
ところが高下駄は一本歯と相場が決まっているらしかった。しかも天狗が履く物なそうな。
天狗は良いとして、一本歯は困った。
でもしょうがない。
ところで何のための高下駄かというと、彼は少しでも背を高くしたかったのだ。
そうすれば魔界のパンタグラフが架線から外れないのではと、彼は前後の見境もなく、やたらと前向き、かつ楽観的に考えていたのだ。
それから彼は買ったばかりの一本歯の高下駄を履き、勇んでそれをカランコロンと鳴らしながら河川敷のグラウンドへと向かった。
だけど河川敷の土手を降りる途中、下駄が盛大に滑り、又裂きになって豪快にこけた。
彼は嫌な予感がした。
でもそれから気を取り直した彼は、そのグラウンドの「とりあえずマウンドです」という程度の標高8cmほどのマウンドに立ち、投球動作を試してみた。
しかし案の定、足を上げると軸足がわなわなと揺れた。
一本歯の高下駄が軸足だから。
でもそれを我慢して足を踏み出したが、接地したとたん今度はその右足の足首がカクンと曲がり、同時に下駄の鼻緒も切れ、そのままずるりんと滑り又裂きになって豪快にこけてしまった。
だいたい高下駄なんか履いて投げられる訳がない。
投げられるのはげげげの鬼太郎くらいだ。
嘘だと思えばあなた、やってみるがいい。
で、彼はこのアイディアをあっさりと豪快に没にした。
それから彼はグラウンドのベンチの長椅子に座り、あの日癇癪を起して120m離れた道頓堀に投げ込んだ携帯の後釜の、つまり買ったばかりの携帯で電話を掛けた。相手は昨日、池乃下球場に一緒に行った例のコーチだ。
マウンドを少し高くしてもらえる可能性はないかと相談したのだ。しかし、
「そやかてマウンドの高さは野球規則で25・4センチと決っとるんやさかいそりゃあかんわ」と言われ、これも没。
次にJR東日本の野球チームで投げている知り合いの投手に電話をした。
「あのさあ、JR東日本の、池袋駅の、四番線の、ええと、ホームの東側から五十メートルくらいの所のさあ…」
「一体何の話だい?」
「とにかくそのへんは、池乃下球場のマウンドの真上なんだけどね」
「はぁ、それで?」
「そのへんのええと、四番線の架線を二十センチくらい垂れ下げてもらえる訳、いかないよね」
「何のために?」
「だから、ええと…」
「そんなことしたら電車が走れる訳ねえだろうが!」
「ああ…、そうだよね。へへへ。ごめん。もういいよ」
「じゃあな。俺、練習があるから。プツン!」
これも没。
とにかく魔界のパンタグラフはぎりぎりで架線に届かない。
彼は困りはてた。
と、突然、グラウンドに竜巻が起こった。
彼はあわててベンチの下に身を隠した。そして竜巻が納まると人影が見え始め、聞き覚えのある声がした。
「わっはっは。パンタグラフが少しばかり短かったようじゃのう。惜しかったな。おやおぬし、何を隠れておる?」
「ありゃりゃ電天様。お久しぶり」
「飛行機にはもう乗らん方が良いな。パンタグラフの空気抵抗のせいで、速度が出んようじゃ。それだけならまだいいが、下手すると着陸進入時に失速して、急速に降下したあげくに墜落じゃ。わっはっは」
「そんな物騒な。でも、よくそんなこと知っていましたね」
「わしは何でも知っておる」
「ああそうでしたね。わかりました。飛行機にはもう二度と乗りません」
「それがよい。それに多分新幹線もじゃ。300キロも出すじゃろう」
「はぁ」
「しかしじゃ。何と言っても最大の問題はじゃな、池乃下球場のマウンドから埼京線の架線までが101メートルと60センチあるということじゃな。まったく惜しいところじゃったのう」
「はぁ?」
「その『はぁ』は気が抜けると、前から何度も申しておる!」
「はぁ、すみません」
「何も謝ることはない」
「でも、よくそんなことご知っていましたね」
「わしは何でも知っておる。それでじゃ。このパンタグラフはMP100というモデルでのう。到達距離は最大でぴったり100メートルなのじゃ。じゃからお前さんがマウンドで普通に立っておればかろうじて届きはするが、投球動作に入れば一時的に外れてしまうのじゃ」
「そうなんです。投球動作中、一度重心が下がった時に外れるみたいなんです。それで、MP100って?」
「魔界のパンタグラフ100メートルモデルじゃ」
「それって、魔界のパンタグラフだからMP?」
「あたりまえじゃ」
「へぇー」
「だいたいそれ以外にどんな名称が考えられる?」
「そりゃまあ…そうですよね。で、それじゃMP120とかに付け替えてもらえるのですか?」
「それがのう。MP100が現時点では最大のモデルなのじゃ」
「へぇ~、そうなんですか」
「じゃから、こればっかりはどうにもならんのじゃ」
「どうにもならん?」
「じゃがあきらめるのはまだ早いぞ。必ずしも方法が全くないという訳ではないのじゃ」
「なんか回りくどい言い方ですね」
「そんなに人のしゃべり方にケチをつけるでない」
「はぁ、すみません」
「何も謝ることはない。それにわしは『人』ではなかった」
「そうでしたそうでした。確か魔界の…」
「そうじゃ」
「で、必ずしも方法が全くないという訳ではない、とは?」
「いや、やはりやめておいた方がよいのやも知れぬ」
「どうしてですか?」
「高くつくからのう」
「高くつく? おいくらぐらい?」
「いや、お金で解決できる問題ではない」
「お金じゃない。じゃ、何で?」
「それがじゃなぁ、実は…魂なのじゃ」
「魂?」
「もしかして、魂を売らないといけないのですか?」
「はっきり言ってそうじゃ。そうすれば特別ルートで特注品のMP120スペシャルという物を作ってもらえるらしいのじゃ」
「それって何か、ヤバくないですか?」
「仕方ないじゃろう。無理に頼んで作ってもらうのじゃから」
「ところで、どんな所で作るのですか?」
「MP製作所という所じゃ」
「MP製作所?」
「魔界のパンタグラフじゃからMP製作所に決まっておる。ほかにどんな名称が考えられる?」
「そうですか。それはまあそうだよな。ははは。どうも失礼しました。ところで、ええとその、魂を売ると、どうなるんです?」
「おっといかん。コンサートの時間じゃ。今日はウーロン茶女子大じゃ」
「忙しそうですね」
「あたりまえじゃ。『九福神』というグループでのう。売れておるのじゃ」
「九福神? でも七福神と電天様なら八福神でしょう?」
「ごちゃごちゃ申すな」
「はぁ…」
「じゃあな」
「はいがんばって。いやいや、ちょっと待って。ねえ電天様、ええと、僕の魂を一体どうするのですか?」
「それでは君の成功を祈る」
「『なお、わしはただちに消滅する』のですか?」
「そうじゃ」
どろん!
「ちょっと待って! ねえ、電天様。僕の魂を…」




