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「池乃下球場のマウンドで投げさせてください。理由は訊かないで下さい。僕はその場所限定で剛速球が投げられるのです。本当です。だけどどうかその理由は訊かないで下さい。絶対に!」
「なんや、ドームで雨降らせてもしゃーないさかい、今度はドームで剛速球かい」
「そうです!」
「ま、おまはんは不思議な奴やさかい、そういうこともあるかも知れへんな。また何かの魔力でも授ったんか? だいたい『水魔人』のときも、考えられへんような雨、降らしとったさかいな…」
実は「池乃下球場」とは池袋駅地下に建設された、例のドーム球場だ。
それにしても変な名前だ。だいたい田舎くさい。
最初は「池袋アースドーム」とか「アングラアーバンスペース」とかいう、とてもしゃれた名前になる筈だった。
ところが命名の会議に出席した「命名委員会」の委員連中が次から次へと無責任な「命名案」を出したがものだから、会議は紛糾したのだった。
例えば比較的若い委員から「池袋のイケてるドームが良い。だから『池イケドーム』だ」とか、一方それに対しやや上の世代の委員からは、「今の若い連中は、何でも『イケてる』などと馬鹿なことをぬかしおるが、わしらの青春時代は『イカす』だった。したがって名称は『池袋イカすドーム天国…』、いやいや、天国はどうでも良い。それに地下にあるわけであるからにして、あ~、天国では語弊がある。ともあれ、略称は『池すドーム』だ!」とか。
ともかくそういう訳で、ともかく会議は混乱を極めたのだ。
さらには、それまで豪快に居眠りをこいていたある委員が、舟をこいだ瞬間に目が覚め、そしてその刹那、「イケス」という言葉だけが耳に入ったようで、
「いげずどがゆうであんだ、だいだいいげずは魚さ飼う所だんべ。地下ドームに水っこさ貯べでいっだいどうすんだべさ? まさが野球選手が潜水服さ着で、野球の試合さするだべか? だいいぢ、おぎゃぐさんはどうやっで試合さ見るんだべさ?」などと、頓珍漢な質問を始めてしまったのだ。
さらにこれに対して、「いけすの上にグラスボートば浮かべてさいね。試合ば見るちゅうとはどがんね? ついでにそこば釣り堀にしてからさい、野球ば見ながら釣りも出来るごとするぎんたがばい良かさい。こがんかとば、『野球観戦と釣りのコラボレーション』ち言うとたい。新しかアミューズメントとして、大々的に売り出すぎんた、がばい良かさい」
とにかくもう訳がわからなくなったのだ。揚句には、
「池イケドームも池すドームも、ましてや釣り堀やら、全然あきまへんわ。もうちょっと迫力のある名前考えまひょ。そやなぁ、地下にはマグマがあるんやさかい『溶岩ドーム』ちゅうのはどないでっしゃろ? これなら相手チームもびびりまっせ」などと、不謹慎極まりないことを言い出す委員まで出て来たのだ。
それを聞いて激怒したのは、常日頃火山灰で苦しんでいる地域出身の委員だった。
「へが降っせぇまこちぬさんもんじゃ、バカなこつ言うなぁ!」
とうとう取っ組み合いの喧嘩が始まった。
それでその他の委員全員で喧嘩の仲裁をし、何とか収まったもののあとはもうてんやわんやになり、命名の会議どころではなくなってしまったのだ。
とにかくそれからも会議は紛糾に紛糾を重ね、会議は深夜に及び、とうとう朝になった。
そして全員睡眠不足の錯乱状態の中、開発主体の鉄道会社経営者は思い切り癇癪を起こし、
「ええい皆のもの。そのようにごちゃごちゃごちゃごちゃ申すなら、あ~、この際わしの一存で決めさせてもらう!」
そう言って会議中に出された、夜食のたこ焼きの残りに突き刺さっていた爪楊枝をスパッっと引き抜くと、それを刃のように天井に振りかざした。
会議場のテーブルには、業務用のキューピーマヨネーズの雫がぱっとぞ散ったりける。
しかして経営者は、
「よいか! わしの言うことをきかぬ無法者どもは、あ~、この爪楊枝が成敗してくれるわい!」
そう言うと会議室の一同は深々と頭を下げ、「よろしゅうございます」と言ったとか言わなかったとか。
それで経営者は、「池袋駅の地下に作った野球場じゃ。名前は『池乃下球場』で十分じゃ!」
こうしてこんな名前になった。
めっちゃださい名前。
やばい。
これって、大都会の地下に建設された、ハイテク球場なんだけど…
「そうでしょう。凄い雨だったでしょう? ぼくには不思議な魔力があるんです。ははは…」
で、ここからは先程の会話の続き。
ちなみに話し相手は彼が「水魔神」だった頃の監督代行だ。(後に監督)実はその後、「水魔人」を失ったチームは万年最下位に逆戻り。成績不振を理由に監督は解雇され、現在はこちらの球団でピッチングコーチをしていた。
「だから今度は池乃下球場のマウンド限定の150キロ連発です!」
「ほかの場所ならどないや」
「んー、せいぜい130かな」
「なんじゃいな」
「でも池乃下球場が本拠地だから、半分はここでやる訳でしょう?」
「半分以上やな。北海道に移転したハムスターズも、何試合か池乃下で主催したがっとるし、神宮ビフィズスもやりたがっとる。なんせ便利な所やさかいな。せやからそやなぁ、年間八十から九十試合は池乃下でやるんとちゃうか」
「だったらいいじゃありませんか。僕は中継ぎで六十試合は投げますよ」
「わかったわかった。ほたらブルペンで投げてみいや」
「いや、ブルペンでは駄目です。マウンドでです!」
「わかったわかった。ほたらマウンドで投げてみい!」
彼はこの時までに池乃下球場の詳しい資料を取り寄せ、池袋駅の線路と球場のマウンドとの位置関係なども入念に調べていた。どうやらマウンドは四番線の真下にあるようだった。
そこは埼京線の赤羽方面だ。彼は胸をなでおろしたのだった。というのは五番から八番線は山手線だ。それだと引っ切り無しに電車が入線してくる。電車が通る時に彼のパンタグラフと妙な相互作用を起こさないかが心配だったのだ。
実際にどうなるかはさておいて、電車の本数は少ないに越したことはない。
さて、彼は魔界のパンタグラフを背負って数か月。パンタグラフからの電力供給は、感覚でわかるようになっていた。
電力供給を受けた瞬間、彼には何とも言えない力が漲るような感覚が起こるのだ。
このパンタグラフは目に見えない。だけど確かに存在するらしい。そしてパンタグラフだから伸縮自在。ちなみに彼がいろんな場所で試してみると高圧線が100メートルくらい上空にあっても届くようだった。
ただ、ドーム球場の屋根や駅の高架があるとどうなるかはやってみないとわからない。だから彼はその点が少し不安だった。
さて、早速彼とコーチは完成したばかりの池乃下球場へと向かった。球場の入口は百貨店前付近にあった。そこから入り、関係者用のエレベーターで80メートルほど下る。少し耳がつんとくる。エレベーターを降りるとロッカールーム。そこからベンチを抜けるとグラウンドだ。
こんな地下にこんな巨大な空間。ちょっとびっくり。
さて、ベンチ前の人工芝で彼はコーチとキャッチボール。しばらく投げてすぐに肩は出来た。すぐに出来るのは彼の取り得だった。でも、ばっとしない球。コーチは少し不安そう。
「マウンドでは剛速球やな?」
「もちろん!」
「もちろん」と言いはしたがもちろん彼は少し不安だった。
こんなに地下深く潜ったら、魔界のパンタグラフは?
それから彼は多少の不安を抱えマウンドに向かったが、そこに立つと胸をなでおろした。
どうやらパンタグラフは架線まで届いていたようだ。それに、屋根や高架の影響も問題ないようだった。
彼の体にはいつものように力が漲ってきたのだ。さすがは魔界のパンタグラフ!
「覚悟して下さいよ。半端な球じゃないですからね」
「おお、わかったわかった」
そう言ってコーチはポンポンとミットを鳴らした。そして彼は一呼吸をすると、投球動作に入った。大きく振りかぶり、足を上げ、それから大きく踏み出して…、ヤバイ!
突然彼は投球動作を止め、そのままずっこけてしまった。彼の手からボールがぽとりと落ち、ころころとマウンドの傾斜を転がり、一塁ベース方向へと向かった。
実は彼が大きく踏み出したそのとき、パンタグラフが架線から離れるのがわかったのだ。
投手は投球動作で足を踏み出す時、一度体が大きく沈み込むものだ。そして沈み込んだその瞬間、ようやく届いていたパンタグラフが架線から離れてしまったようだった。
どうしてそれがわかったかというと、架線から彼に伝わる、あの「力が漲る感覚」が消えてしまったからだ。
出し抜けに力が抜けたものだから、彼はいきなりずっこけてしまったという訳だ。
だがその時、それどころではない大問題が発生していた。
その瞬間、真上の池袋駅四番線の架線から、原因不明の火花が飛ぶのを駅員が目撃していたのだ。そしてそれを重視した駅員は直ちに電車を止め、架線の電気も止めるよう要請し、そして原因究明の調査が始まったのだ。
だからその瞬間以後、彼は漲る力を感じなくなってしまった。
彼がどんな姿勢を取っても。
どんなに背伸びをしても…
「ごめんなさい。今日はダメみたい」
すっかり気落ちした彼は羽田で土産を買う気力も無く、その日の最終便で実家へ帰った。
ところで魔界のパンタグラフは目に見えないし、歩くにも走るにも、もちろん日常生活にも何の支障もない物だった。しかし彼が飛行機に乗った時だけは例外だった。
彼は後ろから背中を強く引っ張られるような感覚があり、とても不快だったのだ。
その理由はどうやらパンタグラフが相当な空気抵抗になることらしかった。しかも飛行機は飛びはしたものの速度が出ず、行き帰りも三十分程遅れてしまった。
実家に帰った彼はソファーに座り頭を抱えた。彼の傍らには、程々のサイズのハイビジョンテレビがあった。借金を返済出来た彼の実家も、そこそこの生活が出来ていたのだ。
そしてその時、たまたま彼の父がテレビをつけた。するとBSニュースをやっていた。
本日昼頃、池袋駅四番線で架線から原因不明の火花が飛び、その後、調査のため電車が運休し、埼京線のダイヤが大混乱したというニュースだった。
乗客らの怒りの声もインタビューで伝えられていた。
その次のニュースでは、今日彼が乗ったドレミファ航空のボーイング737型機に上空での飛行速度が低下するというトラブルが起き、上下合わせて二便に約三十分の遅れが生じたと伝えていた。原因はエンジン出力の低下と考えられ、同航空会社では翌日から同型機の運行を全面的に取りやめ、原因の調査を開始するということで、空のダイヤの混乱は避けられないということだった。
これまた乗客らの怒りの声もインタビューで伝えられていた。
かくして彼は同時に二つの「申し訳ない思い」に捕り付かれることとなった。
電車のダイヤ大混乱。
空のダイヤも大混乱。
(あああぁぁぁぁぁ、世間様に甚大な迷惑を掛けてしまった…)
しかもその上には「電車で剛速球挫折」という現実が覆いかぶさっていたのだ。
彼は気落ちした上に、胸が張り裂けそうだった。
「そんなに自分を責めるもんじゃない。お前は悪気があってそうした訳でもなかろう」
「お父さん、何で今日のことを?」
「なんも知らんよ。じゃが、お前の顔を一目見ればわかる」
「そうだよね」
「わしは寝る」
「おやすみ」




