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プロ野球でなかなか活躍できない投手がある日、「福の神」と出会う
彼は小走りにブルペンへと向かい、大急ぎで肩慣らしを始めた。その日の先発のベテラン投手が、試合開始直後わずか五球を投げたところで、突然肩を傷めてしまったからだ。
チームは連敗中で、それを止める大事な試合だった。
その試合を託されたベテラン投手の突然のリタイアで、チームは危機に瀕していた。
そんな状況の中、彼はそのベテラン投手をリリーフすることとなったのだ。
彼は高卒でプロ野球に入った。
それからこつこつと努力を重ね、ちょこちょこと一軍に上がるという「実績」を残してはいた。
もちろんそのときの彼はプロ野球の一軍にいた訳だから、それ相応の実力はあった。とはいえ「控え投手」以上の存在ではなかった。
左投手の彼はプロとしてはやや小柄で、スピードもコントロールも変化球も、どれといって抜きん出たものが無かったからだ。
だから彼は敗戦処理とか、今回のような緊急登板とか、要するに「便利屋」として重宝がられていたのだった。そして彼が便利屋として重宝がられた、その理由は「肩がすぐに出来る」という取り得があったからに他ならない。
さて、肩が出来た彼はブルベンを出て、もう一度小走りに今度はマウンドへと向かった。
そこでは肩を傷め、腕をだらりと下げた件のベテラン投手が、申し訳なさそうな顔をして、彼を待っていた。
そしてやって来た彼に声を掛けた。
「おまはん、ほんま、えらいすまんなあ…」
「いいですよいいですよ。こういう時はお互い様ですよ♪」
彼とそのベテラン投手は以前から気心が知れていた。気が合ったのだ。
その理由はよく分からない。
だけど世の中には気が合う人間と合わない人間がいる。
とにかく、彼とそのベテラン投手は気が合った。
その理由などこの際どうでも良い。
ともあれ、彼は快くその代役を務めることとなったのだ。
それから彼はマウンドでの投球練習を開始。程なく試合が始まった。
しかし「肩がすぐに出来る」くらいの取り得で通用する程現実は甘くない。
しかも彼は心の準備も出来ていない緊急登板だった。
だから彼はその試合で本来の投球が出来たとは言い難かった。
すなわち不幸にしてというか案の定というか、豪快に炎上してしまったのだ。
仕上げは二回表に打たれた特大の満塁ホームランだった。
早々に引っ込められた彼は頭からタオルを被り、うつむいてベンチに座っていた。
そんな彼には、実はもう一つの取り得があった。取り得というよりは特技だ。
それは地獄耳だった。
そんな彼の地獄耳には、チームメートやコーチらの容赦のないひそひそ話が入り込んで来た。
「あーあ、今夜は二回でノックアウトかいな」
「昨夜の奴は三回までもったのにな」
彼は自分の地獄耳を塞いでしまいたかった。
だけど、神様から授かったものだからしょうがない。
そしてそのひそひそ話は、次から次へと容赦なく彼の耳へと流れ込んだ。
「満塁であの球は無いだろう」
「一応先発みたいなもんだからさあ、きっちり五回は投げてもらわんと」
「そうそう。中継ぎの連中がかなわんがな」
「一体、何連敗すりゃいいんだ?」
そんなひそひそ話は次々と無神経に、グサグサと彼の心に突き刺さり、いつしか、彼の頭の中は「試合を壊して申し訳ない」という思いで埋め尽くされていった。
試合が終わり、どうやら彼のせいでぼろ敗けだった。
その後、緊急ミーティングが開かれ、彼は監督から「いくら緊急登板とはいえ、あそこまで打たれては、もう使いようがない。いいか、この次がラストチャンスと思え!」と、豪快にプレッシャーを掛けられ、最悪な気分になった。
それから彼は「申し訳ない思い」と「最悪な気分」を従え、ロッカーへと向かった。
するとそこには怖い顔をしたピッチングコーチが仁王立ちしていた。
「何回言ったら分かるんだ。あんなフォームで投げたら、打たれるのはあたりまえだ!」
「はぁ」
「『はぁ』じゃない! いいか、今からお前のそのいいかげんなフォームをたたき直す。右肩の開かない、理想のフォームにするんだ!」
「理想のフォームに…ですかぁ?」
「あたりまえだ。そもそもお前の球威と変化球じゃとても一軍では通用しない。俺にもピッチングコーチとしての責任がある。ちょっと来い!」
そういう訳で、コーチに秒で身柄を拘束された彼は、速攻でブルペンへと連行され、延々と指導を受けることとなった。
なにぶん、そのコーチは怪力だったし。
そしてそのコーチは身振り手振りを交え、唾を飛ばしながら、彼に熱弁をふるった。まあ、唾を飛ばしてもコロナが無い時代だったから、それはあまり問題はなかった。
で、その指導も佳境に入り、コーチはとうとう「いいか、眼を皿のようにして、よ~く見ておけ!」と言って、とうとう実際に投げて見せることとなったのだが、その際近くで道具の後片付けをしていたブルペン捕手が「あ、ちょっとごめん」と、怪力コーチに言われ、気の毒なことに巻き添えとなり、「時間外」の捕球をやらされる羽目になった。
試合終了後時間も過ぎていたため、球場の大部分の照明は消され、ブルペンは薄暗かった。
しかもコーチはその怪力で、現役時代は左の剛腕投手と言われただけのことはあり、だからかなりの重い速球を投げ込んだ。
そもそもそんなにいい球を放るのなら、現役で投げればいいものをと言いたいところだが、ともかく薄暗い中での捕球にブルペン捕手も少々迷惑そうだった。
もちろん彼もコーチの指導の下、何十球も投げさせられた。
そして肩の開きがどうだテイクバックがどうだステップの位置がどうだと、彼はフォームについて事細かに、ねちねちと指導されたのだ。
いずれにしてもコーチの指導はその後も延々と続き、彼はコーチから「肩の開かない理想のピッチングフォーム」とやらを教わったのである。
彼は律儀にそのフォームを目に焼き付け、体に刻み込んだ。
そして三人が解散したのは夜中の一二時近かった。
コーチの指導からようやく解放された彼は急いで着替えを済ますと駅までダッシュし、ぎりぎりで終電に間に合った。
電車で通うのは彼のポリシーだった。彼はプロ野球選手とはいえ質素な生活を心がけていたのだ。高級車を買ったり豪華なマンションに住むのは、一流選手になってからと決めていたのである。
だから彼は電車に揺られ、家路に就いた。
怪力コーチに捕まり特訓を受けたばっかりに、ばっちり終電に乗るはめになったのだが、そのおかげで電車は空いていた。だから彼は座ることが出来た。
それは彼にとって、その日初めての「良き事」だった。
そんな彼の頭の中には「申し訳ない思い」が三つあった。
早々に試合を壊したこと。
監督やピッチングコーチに迷惑を掛けたこと。
そしてブルペン捕手に「時間外」の捕球をさせたこと。
その三つの思いのそのまた上に、つい先程ピッチングコーチから教わった「肩の開かない、理想のピッチングフォーム」が覆いかぶさっていた。
彼の頭の中は、がらがらの電車とは正反対だった。
そして「申し訳ない思い」はともかく、彼はその「理想のピッチングフォーム」を何とか頭の中に留めておこうと必死だった。
だけど覚えていようとすればするほど、電車がガタンゴトンと揺れるたび、せっかく教えてもらったそのフォームが、ぽろぽろとこぼれ落ちるような気がしていた。
「そげなピッチングフォームなぞ、忘れてしもうて構わんわい。わっはっは」
突然彼の地獄耳に、しゃがれた声が入り込んだ。