EP3 論文なんか一瞬で終わらせてやる -NotebookLMによる論文解析-
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およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
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これはヴィクトール・フランクルの[夜と霧]という書籍からの引用だ。
精神科の医師であり、ユダヤ人でもあるフランクルがナチスの強制収容所に囚われ、そこで体験した地獄のような日々が記されている。そして死を目前にした人々がどの様に絶望していくか、どの様に人間性を保とうとしたかが克明に記されている。
学園に提出する論文を書くためにログインしたななせのPCにはいくつものテキストがメモされており、彼が[夜と霧]から今を生き抜くためのヒントを得ようとしている事がわかった。16歳の彼が一体何に苦しんでいたのかはわからない。ただ今の俺は彼の代役として、彼がやろうとしていたことなるべく引き継いでやりたかった。
ーーなぜ被害者の存在意義を守れなかったのかーー
ーー集団による排他行動を防ぐ方法はないかーー
彼は論文の参考書籍を決めかねていたが、メモを総合すると彼の興味は主に[人間]にあることがわかってきた。彼は個人の犠牲に憤りを感じて、より良い教育や集団形成のあり方に希望を見出そうと考えていたようだ。
片瀬をいじめから守ったというななせの行動もこういった彼の哲学からきたものだったのかもしれない。
いじめとは集団の利益のために個人を犠牲にすることだ。原因は単なる暴力性ではなく、異質なものを排除することで集団の均質性と結束力を高めて生存確率を高める目的がある。
現代社会においてそれは問題視されているが、原始から人類が過ごしてきた膨大な集団生活の歴史の中では必要なシステムだった。それは言わば集団にとっての[正義]の執行であり、だからこそいじめは快楽を伴う。
しかしななせの若い感性はそれをよしとしなかった。
俺は、会社の利益のためにただ時間をすり潰してきた自分の人生を思った。
青臭い理想論と笑い飛ばすのは簡単な事だが、今はその理想に付き合ってみよう。
俺は参考書籍をリチャード・ドーキンスの[利己的な遺伝子]に決めた。
科学的な視点から集団行動や個体の協力というシステムを読み解き、犠牲者を救済する方法について提案できれば、ななせの思いに少しは近づくことが出来るかも知れない。
NotebookLMというのは、Googleが提供しているAIツールだ。名前にある「Notebook」の通り、自分がアップロードしたドキュメントや情報をベースに、特化したアシスタントのように動いてくれる。
例えば、論文を書くときに本を読むのがしんどいなら、PDFや電子書籍のデータをこいつに読ませる。すると、必要な箇所だけ抜き出して要約したり、データを整理してくれる。
使い方のコツとしては、データを突っ込めば何でもわかるわけじゃなくて質問が重要になる。知りたい部分にピンポイントで質問を投げかければ、与えたデータを参照して精度の高い回答をくれる。逆にデータにない内容に対しては、このデータの範囲では答えられないと返してくれる。
専門家に直接話をできるみたいな感じだな。今回みたいに『利己的な遺伝子』みたいな専門的な内容を扱うには心強い味方だ。
・NotebookLMの起動
ログイン>新規作成を選択
データをアップロードするを選択
データソースとなるテキストやPDFをドラッグアンドドロップする
注意点として、当然ながら元となるデータは保有していないといけない。
書籍をPDFデータとして販売しているネット書店で購入する事ができる。もしくは自分が持っている紙の書籍をPDFデータに変換してくれるサービスなんかもある。データを売ったりしたらまずいが、個人で使用する分には合法だ。
Kindleなどのアプリを介して読むタイプの電子書籍は利用できない。あれはサブスクみたいなもんだからな。そういう事情もあって俺は購入した書籍はなるべくPDFで保有している。
[利己的な遺伝子]のPDFをNotebooLMにアップする。
テキストボックスに質問を入れれば、PDF書籍の内容に即した回答を行ってくれる。ChatGPTに専門的な質問をして回答にガッカリした人は多いと思う。ChatGPTの回答はあくまで一般的な学習データに基づいているからな。専門的な内容を扱うには、こういった使い方が必要になる。
人間集団における排他的行動=いじめに対するドーキンスの解釈について俺は質問した。
そして集団の利益のための個人の犠牲を避ける方法について、続けざまに聞いていく。
重要な質問と回答についてはメモとして保存していく事ができる。このメモを重ねる事で自分だけのノートが完成するという訳だ。
集団による排他行動を防ぐ方法はないか?
教育システムの改善によって個人の犠牲を避ける方法はないか?
排他的行動が避けられないなら、セーフティネットによって改善を行うことはできないか?
仮説に基づいて俺はNotebookLMに質問してメモし、改善策を提案する。
溜まったメモと仮説はChatGPTに渡して要約してもらう。これが論文の基礎になる。気が付けば俺は朝が来るまで夢中になって議論を尽くしていた。
思ったより時間が掛かってしまったが、丸一日かけて論文の基礎部分までなんとか構築することができた。
・画一的な教育システムの限界を指摘し、個別の人格への理解を促す
・異質なものを排除する事による長期的な集団利益の逸失
・集団のために個人が排除される事が避けられない場合のセーフティネット構築
・複数の合議制AIによる判断リソースの効率化
いくつかの具体的な提案を含んだ論文を制作することができた。そして複数の合議制AIによる判断システムの構築は俺の専門分野でもある。
俺は社会の隙間で押し潰されながらなんとか生きてきた。大人の残酷な判断を何度も見てきたし、時にはそれによって排除されてきた。
俺たちの身体は遺伝子レベルで集団行動に適応している。だがそこに馴染めない人間が、ただ黙って排除されていいはずがない。
異なる個性を持った複数のAI合議制による判断を取る事により、短期利益や集団の維持だけではなく、人間的な意思や少数の意見を汲み取る事ができるのではないか。それが俺の仮説だった。
しかし、さすがに疲れたな。
PCを閉じると一気に眠気が押し寄せてきた。
ともかく、論文はあらかた片付いた。スケジュールの余裕を使って事件に関する情報を集めることもできるだろう。
それから英語の苦手な宮原の勉強も手伝ってやらないとな。いくつかの設定と高度な音声モードを使えばすぐに基礎的な英会話力は身に付けさせてやれるだろう。
心地よい疲れに身を任せて俺は眠った。
翌週、警視庁の捜査員が二度、俺の病室を訪ねてきた。