王太子ルシアン
王宮の私室で、エリオットは昼間クリステル・ローランが学園で落とした紙を見ていた。ヴィクトリアには本人に返したと答えたが、実は返せていなかったのだ。思わず持ち帰ってしまったが、これは機を見て本人に返すべきだろう。
「しかし、これは……」
「何ですかその絵。あっ、ヴィクトリア嬢!?」
エリオットの後ろから素っ頓狂な声がする。乳兄弟のリュカだ。エリオットはガタっと椅子を大きく鳴らして立ち上がると、紙を隠した。
「リュカ、勝手に部屋に入るなよ」
「ちゃんとノックしましたよ。何度も。でも返事がなかったですから。殿下、それ何ですか。いよいよ愛が募ってそんなもの書かせたのですか?」
「俺は書かせてない。人が落としたものを拾ったんだ」
「この絵を、殿下以外の者が持っていたと? とても信じがたいですが、本当ならそいつ絶対にヤバい奴ですね」
「それは否定できない。しかし、良く書けている……」
エリオットは椅子に座り直すと、もう一度紙を広げる。そこには、黒髪に菫色の瞳の少女——明らかにヴィクトリアと思われる女性の絵が描かれていた。いつもの無表情なヴィクトリアではなく、エリオットだけが知っているだろう彼女の少しはにかんだ表情が柔らかなタッチで描かれていた。もっと素晴らしいのはその隣にぼんやりとエリオットと思わしき男の絵も描かれていることだ。
「殿下が添え物扱いってのも凄いですね。普通逆でしょう。持ち主はヴィクトリア嬢に懸想した画家ですか?」
「いや、これを落としたのは令嬢だ」
「はぁ、ご令嬢が。いよいよ意味が分からんですねぇ」
リュカが首をひねる。確かにクリステルがヴィクトリアの絵を持っていること自体不可解だ。しかもこのような精巧な絵である。彼女は一体どうやってこれを手に入れたというのか。
「リュカ、ローラン男爵令嬢について調べてくれるか」
クリステルには精霊の加護がある。すでに王宮で大まかな身上調査をおこなっていた。しかし、今日の不審な言動といい、少し引っかかる部分がある。リュカは目を丸くした。
「あれ、珍しい。殿下がヴィクトリア嬢以外の令嬢にご興味をお持ちで?」
「やめてくれ。それは絶対にない。私はこの絵の出どころに興味があるんだ」
エリオットが顔をしかめてそう言うと、リュカは頷いた。
「承知しました、殿下。というか、ローラン男爵令嬢って例の精霊術師ですね。まぁ、いまはただの男爵令嬢。そう労せずとも情報は集められるでしょう」
リュカは乳兄弟であると同時に、エリオットの一番信頼のおける側近でもある。そして彼は暗部としての訓練も受けていた。こうして貴族の情報を取ってくるようにエリオットが命じることもよくあることだ。
「それで、何かあったか」
「あ、そうそう。王太子殿下がお呼びです」
「リュカ! お前、それは真っ先に言え!」
変な男爵令嬢の話など、王太子ルシアンの用事とは比べるまでもない。すぐにエリオットは立ち上がると、自室を出てルシアンの元へ歩き出した。
ルシアンがいるのは王太子の執務室だ。エリオットが執務室に入ると、ルシアンは文官に囲まれて仕事をしていた。ルシアンとエリオットは年が四つ離れている。少しはエリオットが公務を負担しているとはいえ、彼は王太子として多くの事業に関わっている。
エリオットが明らかに執務に追われている兄に声をかけるべきか迷っていると、ルシアンがエリオットの存在に気が付いた。
「エリオット、来てくれたのか」
「はい。しかし、改めた方がよろしいでしょうか」
「いや、私がお前を呼んだのだ、構わない。皆、悪いが私は少し抜ける」
ルシアンが周囲に告げ、二人は王太子の執務室を出た。
ルシアンとエリオットは王宮の庭園を歩き、外のガゼボに座った。
ルシアンは昔からこうして度々エリオットに声を掛けては共に時間を過ごしてくれる。王子とはいえ愛妾の子であるエリオットは王宮内で非常に微妙な立場にあった。王子二人は対立関係にあっても、いささかもおかしくない状況だったのである。
しかしルシアンは堂々とエリオットを気に掛け、またエリオットも王座への野心を欠片も見せず、不穏な企みを持つ貴族からつけ入る隙を見せなかった。国王もルシアンが立太子する前から彼が次世代の王であるということを内外へ明確に示していたこともあり、エリオットを担ぎ上げようとするような不穏な動きは殆ど起こらなかった。
エリオットはこっそりと前に座る兄を見る。王家特有の見事な赤髪とダークブルーの瞳。精悍な顔立ちに、自信に溢れた立ち振る舞い。公務の傍ら騎士団と共に訓練を行うルシアンは、その高身長も伴い、男でも見惚れるような堂々たる体躯を持っていた。エリオットはそんな兄に憧れを持たずにいられない。
(兄上が戴冠される日が楽しみだ。その様はきっと神話のような神々しさだろう)
エリオットは自分が王家の色を持たず金髪碧眼であることも、鍛錬しても思うように付かない脆弱な筋肉も、自分にまつわる何もかもを忌々しく思っていた。エリオットが持つ身体的特徴は母のソニアのものばかりだ。母としてソニアを慕ってはいる。しかし完璧な兄と父を見ていると、自分が王家の半端者であると突き付けられるような気になった。
母ソニアは領地を持たない宮廷貴族の娘で、その可憐な容姿が国王の目にとまり愛妾となった人だ。祖父の爵位は子爵であり、高級文官として王宮に出仕しているものの、母が国王の寵愛のみを頼りに生きていかざるを得ない状況を変えることはできなかった。
「エリオット、学園はどうだ」
物思いにふけるエリオットにルシアンが問いかけた。エリオットは微笑む。
「貴重な時間を過ごしております」
「そうか。エリオットはまさに童話に出てくる王子の姿そのもの。さぞ多くの令嬢がお前に熱い視線を送っているのでは?」
「まさか。兄上でしたらともかく、私など。そもそも私に婚約者がいることは皆知っています」
「はは。つくづくお前は自分を知らんな」
ルシアンはよくエリオットをこのように褒めそやす。昔は素直に受け止められなかったが、どうやらルシアンが本気で言っているらしいということに気が付いてからは、どこか面映ゆい気分になるようになった。ルシアンはこと弟に関わる事柄に評価が甘くなるようだ。
「そういえば、例の精霊術師の令嬢とは関わりがあるのか?」
「いえ、学年も違いますから。この前初めて見かけたところです」
「大層美しい令嬢らしいが」
ルシアンはなぜか、からかうような視線でエリオットを見た。
「あぁ、まぁ……そうだったかもしれないですね」
ルシアンがどういった返答を求めているのか分からず、エリオットは曖昧に言葉を返した。
クリステルのことは確かに整った容姿だと思ったが、それ以上の感想はない。そもそも生垣に身を隠してこっそりと人の会話を聞くようなおかしな女を、美しいとは思わない。
「……しかし、彼女に関しては、少し気になってはいます」
彼女は、はっきり言って変な女だった。なぜかヴィクトリアの絵を持っていたのも気になるところだ。とはいえ、国にとっては精霊の加護を受けた重要人物。
しかしエリオットにとって何よりも大切なのはヴィクトリアであり、ルシアンである。ヴィクトリアはクリステルを全く警戒していないようだったが、もし彼女に不審な点があれば、ヴィクトリアからは遠ざけようと考えていた。
「そうか」
ルシアンは嬉しそうに目を細めた。
「エリオット。俺の助けが必要なときは遠慮なく言うんだぞ」
ルシアンの言葉に、エリオットは首をかしげる。今のところ、ルシアンに助力を願うような事態は起こっていない。
しかし、兄の思いやりは嬉しい。
「有難うございます、兄上」
エリオットがそう言うと、ルシアンは口端を上げて頷いた。