祈り
それは、夜も深い深夜のことだった。
アンバーがとんとんと強めにヴィクトリアの体を叩く。まどろみの中で目を開けると、目の前にアンバーの顔があった。
「どうしたの、アンバー……」
「エリオットがあぶないみたい」
「えっ!?」
ぼんやりとしていた頭が一気に覚醒し、体を起こす。
「どういうこと、アンバー」
「エリオットけがした。でもアンバーの石つけてたから、しななかった」
心臓がどくどくと嫌な音を立てる。
エリオットが苦しんでいる姿を想像し、呼吸が浅くなる。
「ご無事、なの……?」
「まだ、しんでないよ」
アンバーの答えに余計に不安がかきたてられる。もう眠れる気もせず、ヴィクトリアはベッドから立ち上がった。
胸の奥のざわめきはおさまることがない。とりあえず簡単に着替えを済ませ、窓を見た。
「ヴィクトリア、エリオットのところ行きたい?」
「え?」
アンバーがじっとヴィクトリアを見ている。そういえば前もクリステルの部屋にも移動したし、アンバーの力でエリオットのところまで行けるのかもしれない。ヴィクトリアは迷うことなく答えた。
「行きたいわ」
「わかった。遠くてちょっとたいへんだけど、だいじょうぶ」
アンバーはヴィクトリアの胸までぴょんと飛び乗った。ヴィクトリアの腕の中でにゃーと鳴くと、前と同様にまばゆい光に包まれていく。周囲の光が収まり、目を開けると、そこはもう自分の部屋ではなかった。
ここはテントの中のようだ。中を見回すと、エリオットが眠っている。その隣に、リュカが座りながら眠っていた。
ヴィクトリアはそのままエリオットの傍に移動する。すると物音に気付いたリュカが勢いよく立ち上がった。
「誰だ!」
まっすぐナイフを突きつけ、しかしすぐに相手がヴィクトリアだと認識したリュカは仰天して「えっ!」と声を出した。
「ヴィ、ヴィクトリア嬢!? 本物!? なぜここに……っ」
「ごめんなさい、リュカ。今は何も聞かないでいてくれる?」
混乱しているリュカに、ヴィクトリアは人差し指でしぃっ、と声を出さないように示した。他に人がきたら厄介な事態になりそうだ。
知らぬ間にアンバーはエリオットの枕元へ移動していた。ヴィクトリアはそっとエリオットへ近づいた。
エリオットは高熱にうなされ、額には脂汗が滲んでいる。酷い顔色だ。彼の体にかけられた布団をゆっくりとはがす。痛々しいエリオットの姿がヴィクトリアの目に飛び込んだ。
「……っ」
思わず息をのむ。彼の怪我は酷いものだった。全体に包帯が巻かれ、左腕は変色している。骨が折れているのかもしれない。腹部は出血が酷いらしく、巻かれた包帯に赤い血が滲んでいる。
素人でも分かる。エリオットはかなり危険な状態だ。
「エリオット様……なぜこんな……一体何が……」
「精霊術師殿を狙った南国の工作員と戦闘になりまして」
リュカがふう、とため息をつきながら語り始めた。
クリステルが結界を張り終えた後、帰途につこうとしたところで、陣営に潜り込んでいた工作員が彼女を連れ去ろうとしたらしい。事態に気付いたシリルたちが応戦し、激しい戦闘となったという。
国境を挟んだ南方の隣国は、わが国よりも魔獣被害が深刻だと聞く。クリステルを攫い、結界を張ろうとたくらんだのかもしれない。
「精霊術師殿は何とか無事に守り通したようです。しかし戦力がそちらに集中しているその隙に乗じて、殿下にも襲撃が」
リュカとエリオットも魔法で応戦したものの、不意打ちの襲撃にエリオットの護衛は乱れ、苦戦した。
「あってはならないことですが……殿下は私を庇って、このような……」
沈痛な面持ちでリュカが言った。エリオットの怪我はリュカに放たれた魔法を代わりにエリオットが受けたことで負ったのだという。
結局その後、襲撃者たちはリュカ達の猛追を受け、数人は逃したものの、大方捕らえられたらしい。前回と同じ轍を踏まないよう、彼らには自害されないよう対策済みだという。
「奴らがエリオット様を狙った理由は分かりません……しかし必ず吐かせます」
よく見ると、リュカの顔色は酷く青白い。守るべき主に庇われ、主が酷い怪我を負ったのだ。彼の心情は察するに余りある。
「リュカ、エリオット様の状態は」
「何とか耐えていらっしゃいます。帯同した医師にも診てもらっていますが、良い状態とは言えないと……」
彼の言葉を聞きながら、ヴィクトリアは恐怖に包まれた。
もしエリオットの命が尽きるようなことがあれば、どうすればいいのだろう。一体どうやって生きていけるというのだろう。
知らずに手が震えてくる。足元が底なし沼になったように、立っていられないような感覚がヴィクトリアを襲う。
(エリオット様、エリオット様、エリオット様……嫌ですわ。いかないでください。必ず戻ってきてください。わたくしは、あなた様がいないと……)
泣き叫びたくなるような激情を抑え、ヴィクトリアはエリオットの手をとった。すると、エリオットの枕元からにゃーお、と声がする。
「アンバー……」
何か言いたげな黄金の瞳が、ヴィクトリアを映している。
エリオットの耳元に付いていた菫色の魔石は、砕け散っていた。きっと守りの力が発動したからだろう。アンバーが持つ守りの力が。
不思議な猫。言葉を話し、ヴィクトリアを助けてくれる。そして、その正体はきっと……。
ヴィクトリアは両手を組み、瞳を閉じて、祈りを捧げる体勢をとった。
(わたくしの大切な方を助ける力をどうか授けてください。お願いいたします。エリオット様がいらっしゃらないのなら、わたくしはとても生きていけません)
ヴィクトリアは一心に祈りを捧げる。
ヴィクトリアにとって、エリオットは唯一無二の存在だった。初めて会ったその日から今に至るまで、いつだってヴィクトリアに誠実で、好意的に接してくれた。態度で、言葉で、その気持ちを示してくれた。
(このお方を愛しているのです。ですから……)
知らずに目尻から涙が溢れる。
すると突然、そこにいた猫が消え、周囲は光に包まれた。
「えっ……」
一体何が起きたのか分からず、ヴィクトリアは周囲を見回す。そこは先ほどまでいたテントではなく、何もない不思議な空間だった。困惑したヴィクトリアは、立ち上がる。
『ヴィクトリア』
アンバーの声が聞こえたので、声の方向を見ると、そこには信じがたいほど美しい白い髪の女性と、幼い頃から繰り返し見た精霊の絵画そのものの姿の羽虫が飛んでいた。
(精霊様だわ……)
ヴィクトリアの胸は感動に震える。
精霊がヴィクトリアの元に飛んできた。これはアンバーだ、とヴィクトリアはすぐに理解する。
「あなたは、アンバー?」
『ヴィクトリア。やっとこの姿であえた』
弾むような精霊の声は確かにアンバーだ。
『こっちにきて。あれは女神様だよ』
アンバーの言葉に、ヴィクトリアは驚愕する。アンバーは急かすように女神の元へとヴィクトリアを案内した。
(女神様ですって……!?)
アンバーに促されるまま足を進めるが、近付くたびに押し寄せる神々しい空気に、ある地点から進めなくなり、自然とヴィクトリアは跪いた。
女神は精霊を統べる存在と言われている。歴史上何度も人の前に現れ加護を授けた精霊とは違い、神話の中の存在だ。ヴィクトリアも今の今まで本当に存在するとは思わなかった。
女性の声がヴィクトリアの脳裏に響く。
『人の子よ。お前はこの国の第二王子を助けたいと心から祈った』
「はい」
『お前は美しい。この我が子がお前を大層気に入っているらしい』
我が子というのは、もしかしてアンバーのことだろうか。アンバーは女神様の子だったのだろうか。ヴィクトリアは震えるような心地になる。
『我が子の加護を受ければ、お前は第二王子を救えるだろう。お前は加護を欲するか』
「はい。あの方を救えるのなら」
ヴィクトリアの迷いない返答に、女神は満足そうに頷いた。
『名を告げ、それを呼ぶことで人と精霊との契約が成立する。人の子よ。そなたの名を告げよ』
「はい。わたくしはヴィクトリア・ベルトランでございます」
ヴィクトリアが名を告げると、アンバーがヴィクトリアの眼前に飛び、止まった。
『わたしの名は、スピカ。なまえをよんで』
アンバーの本当の名前はスピカというらしい。美しい名だ。
スピカの加護を貰えれば、エリオットを救える。ヴィクトリアの心に迷いは微塵もなかった。
「スピカ!」
その名を口にしたと同時に、ヴィクトリアは何かに体を貫かれた。




