クリステルという少女
エリオットは自室でリュカが書いた報告書を読み込んでいた。クリステルの調査報告である。
クリステル・ローランは王都で生まれた平民だ。縁者に貴族がいるとか、貴族と交流があるという訳でもない。
精霊の加護を受けたのは彼女が一三歳のとき。しかし、クリステルも、その家族も、精霊の加護を受けたという事実がどれほど大変なことか正しく理解していなかったため、彼女は数年放置されていた。
もしクリステルの近しいところに貴族やそれに準ずる者がいたならば、彼女はもっと早く男爵家へ迎え入れられていただろう。
(そうであれば、あんなに無作法なまま学園に入るようなことはなかっただろうに)
今日はつい抑えきれずにクリステルにきつい言い方をしてしまった。クリステルのせいで、またヴィクトリアの悪評がとどろくことは明白だったからだ。
腹立たしいことに、ヴィクトリアの評判は良くない。意図的にヴィクトリアを貶めている者がいることは明白だが、まだ特定できていない。特に同世代には彼女に好意的でない者が多すぎるのだ。
ヴィクトリアが悪評通りの人物ではないと気付いている者も多いだろうが、既にヴィクトリアは陰口を言ってもいい相手だという空気が醸成されている。上位者への不満は、いつだってくすぶりやすいものだ。彼らの嫉妬や不満が、はけ口としてヴィクトリアへ向いているのだ。
王子とはいえ愛妾の子であるエリオットができることは多くない。エリオットは、積極的に自分とヴィクトリアの関係が良好であることをアピールし、彼女はいたずらに貶めるような対象ではないと周囲に分からせているところだった。
(でも、何もかも台無しだ)
クリステルが公衆の面前で泣いたことで、エリオットの努力は灰燼に帰した。現場を見た生徒たちは、面白おかしくヴィクトリアが非道な女性であると語り合うだろう。
クリステルは整った容姿である上に、精霊の加護がある。精霊信仰が篤いこの国で、たとえ本人がいかに無作法であっても、彼女に危害を加える者など普通はいない。
悪役令嬢ヴィクトリア・ベルトランはそんな彼女を虐め、泣かせたと。
クリステルが感情を抑え、令嬢として振る舞う教育を彼女が受けていたなら、きっとこんなことは起きなかった。
(六人兄弟の三番目。変わりものの夢見がちな少女。……彼女が変わり者なのは幼少期からか)
リュカはクリステルの成育歴を重点的に調査したらしい。特別おかしな点は見受けられない。彼女の背景にヴィクトリアを傷つける勢力がいるという心配はないようだ。
(芋が好き……鳥を飼っている……)
あまり重要とは思えない情報が続く。読み進めていく中、目に入った文章があった。
(既に結界を張っているのか)
彼女は加護を受けてから、いくつか王都近郊に結界を張ったという。魔物がいる場所を精霊に聞き、彼女の兄と薬草採集をする傍らに結界を張っていたらしい。
(確かにここ数年、王都近辺の魔物の発生件数は落ち着いていた)
クリステルは国に依頼される前から、自主的に活動をしていたということだ。
おかしな女だという感想しかなかったが、やはり精霊から加護を受けるだけの人間性を持っているようだと、エリオットは自分の中のクリステルに対する評価を改めた。
しかも、ヴィクトリアから彼女が“渡り人”であるかもしれないと報告を受けていた。もしクリステルが渡り人であれば、その記憶の中には多くの知識が眠っているはずだ。
(仕方ない。話してみるか)
エリオットが扉を開けると、クリステルが紅茶を飲んでいた。エリオットが手配した教師がその作法を見ている。
エリオットを認めたクリステルは立ち上がり、ぎこちなく淑女の礼をした。エリオットは少し感心する。
「本当に授業を受けたんだね」
「へっ……もしかして冗談だったのですか!」
クリステルが素っ頓狂な声を出したので、教師がたしなめた。クリステルは慌てて表情を整える。
「ははっ。いや、そうじゃないよ。現にこうして場を整えているじゃないか。でも君は無視して帰るかと思っていた」
「殿下がおっしゃったことですから、受けるしか選択肢がないのかと思って……」
愕然とした様子のクリステルを横目に、エリオットが教師に目配せすると、彼女は微笑んだ。
「中々指導のしがいのあるご令嬢ですわ。でもまだまだです」
「らしいよ。また王宮に来た時にでも彼女の授業を受けるといい」
彼女はカリエ夫人といって、オーレリアやヴィクトリアも指導したマナー教師だ。きっと今日はカリエ夫人からかなり厳しくやられたのだろう。クリステルは返答せず、ただひくひくと顔が引き攣らせている。エリオットの提案を断りたいという思惑が見え見えだ。
「君はヴィクトリアと友人なのだろう? ならば、ちゃんと淑女教育を受けてくれ」
「ヴィ、ヴィクトリア様と、友人……!」
「違うのか?」
エリオットは眉をしかめる。明らかにヴィクトリアは彼女に好感を持っている。精霊に憧れを持っていることもあるだろうが、それ以上にクリステルを気に入っているようだ。エリオットとしては、ヴィクトリアが彼女と親しくしたいのなら止めることはない。ただ、それがヴィクトリアの不利益となるのならば話は別だ。
「その、私ごときがヴィクトリア様の友人なんて、恐れ多いといいますか。も、もちろん、光栄ですし、ヴィクトリア様とたくさんお話もしたいですし、近くでご尊顔を凝視したいという気持ちはありますが」
急に早口で話すクリステルを見ながら、やっぱり彼女は変な女だとエリオットは思った。
「ヴィクトリアは君を気に入っているようだ。でも君は元平民である上に精霊の加護を受けたという特殊な要素がある。今のまま君が傍にいたらどのような形でヴィクトリアを批判する材料にされるか分からない。この前みたいに」
「それで、私にこのような機会を。ヴィクトリア様のために」
「ローラン男爵も君に教育を受けさせただろうけどね。ヴィクトリアが虚仮にされる可能性はできるだけ取り除きたい」
「愛……!」
クリステルは感嘆の声を上げた。なぜか拝んでいる。なぜそういう行動を取るのか全く理解できない。彼女を見ていると珍獣を見ているような気分になる。
「言っておくが、これは私の独断じゃない。一応、兄上にも君にマナーを学ばせることは話を通してあるから」
これからも貴族として生きていく彼女にとって、マナーは今後の武器となる。ルシアンに報告したところ、兄は二つ返事で快諾した。
「殿下の兄上って、その、ル……ルシアン……王太子殿下ですか」
「あぁ。私の兄はルシアン様だけだからな」
そんな質問をされたこと自体初めてだ。この国の王子が二人兄弟であることは貴族の間では常識だが、平民には知られていないのかもしれない。
そのようなことを考えていると、クリステルがなぜか赤面していることに気付く。
ルシアンの話になってこんな反応をする令嬢を、エリオットはこれまで沢山見てきた。
「ローラン嬢。知らないかもしれないが、兄上には婚約者がいる」
「はぁ!? あっ、い……いや、そうじゃなくて」
クリステルは赤い顔を更に赤くさせて、ひっくり返ったような声を出した。
「ローラン男爵令嬢!」
カリエ夫人が鋭くたしなめると、クリステルは慌てて表情を整える。
「申し訳ございません、殿下」
「いいよ。まぁ、君はもうちょっと表情を作る練習をした方がいいね」
エリオットはそう言いながら、彼女がどこでルシアンを見たのだろうと疑問を持っていた。先ほどの反応を見る限り、クリステルはルシアンに好意を持っているらしい。見たこともない“王太子”という存在に憧れを持っているだけかもしれないが。
「私、知っています。王太子殿下に婚約者がいらっしゃること。オーレリア、様ですよね」
「あぁ。オーレリア・アセルマン公爵令嬢だ。彼女と面識が?」
「……いえ。私が一方的に知っているだけです」
クリステルは言い捨てるように言った。
オーレリアに対してそのような反応をする令嬢は初めて見る。しかもそれがクリステルであることに、エリオットは意外に思ったのだった。




