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短編

照れ隠しにブチ切れた令嬢の婚約解消に至るまで

作者: 猫宮蒼



 アリスティーナ・グレイダリクに婚約者が決められたのは、まだ幼い頃の話であった。

 別に王家の血筋だとか、それに連なる血であるというわけではない。

 ただただ、親同士の仲がよろしくてもし将来生まれた子が男女であったなら結婚させましょう、なんていうお花畑甚だしい話の末に、その戯言が実現されてしまった結果だ。


 婚約が決められてしまったのはアリスが八歳になった時。

 家格はお互い同じ伯爵家であるが故その婚約に何か問題があるでもない。

 まぁ、伯爵家と言っても広大な領地や資産があるでもなくどちらかといえばちょっと歴史があるだけのほとんど名ばかり貴族と言われてしまえばそれまでの話だ。

 正直婚約させるにしても早すぎやしないかしら? と幼くもそれなりに賢しいアリスは思ったが、多少知恵が回るといってもアリスはまだ子供で、この婚約に不満があると言ったとしてもアリスの両親が聞き入れてくれるとは思っていなかった。

 何せお互いの家の両親、とても仲が良い。

 自分がイヤだと言ったところで、言いくるめられるのは目に見えていた。


 お互いの仲がそこまでよろしくなければ、まぁ当分は様子見でと言われたかもしれない。それ以前にそもそもそんな話が出なかっただろう。

 けれども既に仲の良さが誰の目から見てもわかりやすい程だ。

 アリスはまだそこまで交流していないのだから、一緒にいればきっとあの人たちの良さがわかるはずよ。そんな風に言われるのが明らかだった。


 だがしかし、アリスはいややっぱ無理、と早々に決め打った。


 何せ婚約者として紹介されたお相手は、控えめに申し上げてクソガキであったからだ。


「お前がオレの将来の妻になるのかよ。えーっ、オレもっと美人な人がいい。どうしてこんなブスと」

 最後までその言葉は続かなかった。

 クソガキ――カルロ・ヴォーデインの口を母親がさっと塞いだからだ。それ以上はいけない、そう訴えるかのように。


「ごめんなさいねアリス、うちの子ちょっとどころじゃなく照れ屋さんで。今のは恥ずかしくてつい言ってしまった照れ隠しみたいなものだから、今回だけは許してね。よ~く言い聞かせておくから」


 目が笑っていない笑顔で言われてしまえば、幼いアリスにはもうどうしようもなかった。自分の母と同年代の女が目の笑っていない笑みを浮かべているというそれだけで、既に恐ろしい。恐らく今の時点でアリスはカルロの母、アナスターシャに口で勝てる事はないだろう。最悪こちらもちょっとした我儘を言っていると思わされてアリスの母であるオヴェリアに何故か自分まで叱られるかもしれないのだ。

 結局子供というのは親の玩具だ。良くも悪くも。


 だからこそアリスは気にしていませんよと言わんばかりににこりと微笑んだ。

 内心? とても気にしている。


 だって家族からは可愛い可愛いと言われて育ってきたのだ。カルロの両親からも可愛いと言われていたし、将来うちの息子のお嫁さんになるのがこんなにも素敵な子で良かった、とまで言われていたのだ。

 ついでに家族以外の人間からも愛らしいと評判なのである。


 だが、そこに唯一人の容姿にケチをつけてくれたのがカルロである。


 アリスはとても可愛らしい見た目の少女であったが、カルロの容姿はどうなのか、と問われれば、可もなく不可もなく……要するに普通であった。

 だからこそ人の容姿にケチつける前に自分の事を鏡でよく見たらいかが? という嫌味でも返してやろうかとアリスは思ったのだ。大人げない? 問題ありませんお子様なので。

 だが、同じところまで堕ちてやる義理はないなと直前で思い直したのだ。


 一応婚約させようと思っている相手の事はそれなりに前から聞いていた。

 直接顔を合わせるのが婚約が決まってお互いに直接会う事になったこの日であった、という部分に関してはあまり幼い頃から会わせてしまっては、婚約者というより家族、それも兄妹のような間柄になってしまうかもしれない……という可能性を両家の両親が危惧したからだ。


 両家の仲はとても良好なので、お互いがお互いを家族みたいに思っているし同時に親友とも思っている。

 その距離感の中で、二人の子供が将来夫婦になるのだ、と自覚できればいいが、もし兄と妹、もしくは姉と弟のようにしかお互いを見れないとなればアリスもカルロも結婚なんてしたくないと言い出すかもしれない。


 王命での政略結婚だとかであれば無理だと言えるけれど、しかしこの二人の婚約はそういった決して気軽に解消できない契約ではない。あくまでもお互い丁度いいから、という両親のノリで決められたものだ。

 親が決めたのだと言い切って強引に結婚に臨ませた場合、家庭仲は最悪になるだろう。それは両家の両親も望んではいないのだ。


 なのであまりにも幼いうちから二人を会わせる事はしなかった。

 婚約に関してももう少し先の話で良いのではないか、と思っていたのだが目ぼしい相手に婚約の打診をしてくる他家の貴族がそろそろ行動に出そうな気配を察知したため、此度の婚約と相成ったのである。


 他から婚約など来ませんでした、という体を装って隠し通せばいいが、もしどこかからかつて婚約の打診をしたのですが、なんて直接本人とそんな会話をするような展開になってみろ。間違いなく両親のところに問い質しにくる。

 そしてそちらの相手の方がいいなんて言われたら、やはり困るのだ。


 ある意味でお花畑思考の両親たちではあるが、自分たちがこれだけ相手と上手くやっていけているのだから、子供たちもきっとお互いをよく知れば仲良くなれる。何故だかそう信じていた。


 とはいえ、アリスからすればカルロの事はクソガキという認識である。


 一時的にちょっと母親に連れられて退出したが、戻ってきた時には一応謝罪の言葉はもらった。

 なのでアリスはしぶしぶとその謝罪を受け取ったのである。ここはわたしが大人になって差し上げるべきね、そんな風に考えて。


 けれども。


 その後はでは婚約者としてお互い仲を深めていきましょうね、と言わんばかりに顔を合わせる機会が増えたのだけれども。


 まぁ出るわ出るわ暴言が。


 ブスなんて新しい挨拶の言葉かと思えるくらいに言われていたし、お前みたいなブスと結婚する男なんて他にいるわけないだろという貶しはむしろ耳にタコができる程言われた。


 最初の頃は相手のボキャブラリーが少なかったから精々その程度で済んでいたが、二人が大きくなるにつれねちねちやるバリエーションが増えた。


 まずは髪型。

 幼かった頃はともかく、成長するにつれてアリスだってお洒落に興味を持ち始めて自分付きのメイドにあれこれ頼んで色んな髪型を楽しんでいた。

 そして毎回貶される。

 変な髪型、で済めばいいが、ブスが余計ブスだとか、わざわざへんてこな頭にするなんて趣味おかしいだとか、そんなに色気づいて周囲にアピールしたいのかよだとか。


 カルロ以外からは素敵な髪型ねと褒められている。もしや周囲がアリスに気を使っているのではないか、とあまりにも罵られるから一度くらいは疑ったのだ。

 けれども、自分に気を使う必要のない相手も可愛いと言ってくれたのでカルロの趣味がどうかしているとアリスは判断した。


 ドレスだってそう。

 色鮮やかなドレスを着てデビュタント――はまだ早かったけれど、それでも他の家とも交流はあるので親に連れられアリスは参加していた。

 けれどもそこで顔を合わせたカルロにはやはりそのドレス似合ってねーぞと言われたのだ。


 自分で鏡を見てとても気に入ったドレスだった。

 仲良くなった他の令嬢からも素敵ねと言われていた。

 なんだったら、自分を見てちょっと顔を紅潮させる令息もいたのだ。

 なので、似合っていないはずがない。


 その後カルロから――というかヴォーデイン家から――婚約者への贈り物という名目で贈られたドレスは、なんというかとても地味なものであった。

 念の為母親経由でアナスターシャにどういう意図でこのようなドレスに決まったのかを問うてもらった。


「ドレスはカルロが自分で選ぶって言っていたから、私たちは関与していないのよ。商人と一緒に来てもらったデザイナーとカルロが話し合って作ったものだから、大丈夫だと思ったんだけど……もしかして、何か変だったかしら?」


 アナスターシャから返ってきた言葉に、アリスは何も言えなかった。

 文句はある。あんな地味なドレス、一体どこに着ていけというのか、と。

 葬式か? だがしかし喪服でもない色合いなので葬式に着ていけばそれはそれで悪目立ちしそうだ。

 かといってどこそこの家で催される茶会だとか夜会に親と一緒に参加する時に着ていけるはずもない。

 そういった場でのドレスは色が濃かろうが薄かろうが大抵は華やかなものと相場が決まっている。


 商人を家に呼び寄せてドレスを作らせるためのデザイナーまで連れてきておきながら、何故こんな地味を極めしどこに着ていけばいいのかもわからないようなドレスを作り上げてしまったのか。というか商人はさておきデザイナーは何故これにオッケーしてしまったのか。あと、とても言いにくいのだがサイズもちょっと微妙であった。婚約者だからとて自分の身体のサイズを教えた覚えはない。教えたら教えたであのクソガキ様はそれを利用してこちらに聞くだけ時間の無駄な暴言をのたまうのだろう。わかっている。だからこそ自分の身体のサイズに関して正確な数値を知らせず、どのみちこれからの成長も見越して少しだけ大きめサイズで伝えていた。

 そしてアリスの予想通り交流のための茶会の時にその事をクソガキ――じゃなかった、カルロはネタにしてきたのだ。あぁやっぱりなと思うけれど、それだけだった。怒るでも悲しむでもない。ただただ予想通りだなと確認できただけだった。あまりに思った通りすぎたので、もっと捻りをいれればいいのに、面白みのない人、とまで思う始末。


 大体少し大きめサイズを伝えられていて、だというのにお前がそんなサイズなわけないじゃん、なんて言うのならせめてドレスを作らせる際そのサイズの通りに作らずそちらが思うピッタリサイズで作ればいいのに、と思ったけれどそれを言うのも面倒すぎてアリスはそうですかとだけ相槌を打つだけだった。


 大体、普段から幼稚な暴言を吐く相手に何故ドレスの手配を全て任せてしまったのかあの家の両親は。自分の息子がそんな事をするはずがないとでも思っていたのだろうか。二人きりの時ならともかく、他に人がいる場でもあの暴言は鳴りを潜めてはいないのに。


 おかげでアリスの周囲では、婚約者から冷遇されている可哀そうな令嬢、という認識を持たれつつある。

 一度や二度の照れ隠しでつい出てしまった言葉、だと言うにはもう今更すぎたのだ。


 だというのにお花畑な両親も、カルロの両親もカルロの事をもっときつく締めあげればいいのにそれすらしない。いずれ分かり合えるとでも本当に思っているのだろうか。アリスがカルロに好意を抱いた事など一度もないのに?

 政略ならば我慢もできた。

 けれどこれは政略ですらないのだ。この婚約が潰れたとしてお互いの家に何か大きな打撃を受ける事もなければ、どちらかの家が潰れるような事にもならない。もしかしたら、アリスとカルロの両親の仲がちょっとだけぎくしゃくするかもしれないが、親は親、子は子である。その程度でぎくしゃくするようならもっと早くにカルロをどうにかするべきだったのだ。


 初めて会ったその日から、会うたび嫌な言葉を投げかけられて早数年。

 成長したアリスは大層美しい美少女になっていた。元々愛らしかったその姿は成長する事で愛らしさの他に美しさも磨かれ、誰が見ても非の打ちどころのない美人だと言えるだろう。

 対するカルロもそれなりに成長した。昔は外見もあまりぱっとしなかったけれど、それでも成長する事で多少はそういった部分も払拭されるようになった。

 十人中十人が振り返る美少年というわけではないが、十人中半分くらいはあの人素敵ね、と言うかもしれない。


 もっともそれはアリス以外には人当たりが良いから、というのもあるだろうけれど。


 カルロはアリスにもっと貞淑に振舞えなどと言っていた。どの口が、と思う。

 そもそも奔放に行動した覚えはない。令嬢としては常識の範囲内、誰からも責められる謂れなどないのだ。もし問題があるならそれこそアリスの両親がアリスを叱責しただろう。

 装いが派手だとか、カルロの趣味に合わせたらそれこそ未亡人のような装いになりかねない。結婚すらしていない未婚の、まだ若い令嬢がそんな服装をしていたら無駄にひそひそされるというのに。


 もし、アリスの性格がもっと大人しく控えめで内気なものであったなら、カルロの言い分を聞いて彼の顔色を窺って彼に言われるがまま地味な装いをして周囲からひそひそされていただろう。

 けれどもアリスは親が決めた婚約者だからとて、彼の言い分に耳を傾けるつもりはとっくにこれっぽっちもなかったのである。

 そのせいで余計にきーきーうるさい部分も増えたけれど、それが何だというのか。


 好きな相手に嫌われるのは嫌だから好かれるように努力をする。

 嫌いな相手に嫌われようと別に構わない。


 アリスはそういう考えでカルロの事などどうでもよいとすら思っている。

 何故嫌いなカルロの機嫌をとるために自分が笑いものにならなければならないのか。

 今更カルロに嫌われていようとも、正直これっぽっちもなんとも思わない。

 婚約をどうにか無かった事にしたいな、と思っているアリスはもし婚約破棄も解消もできなかったとして、結婚するような事になったら初夜を待たずに逃げ出そうとすら考えていた。

 あれと子を作って産むとか無理。嫌。拒絶反応しかない。

 それを我儘と思われるかどうかは、もうどうでもよかった。


 嫌いな相手に何を言われたところでどうとも思わなくなっていたけれど、それでもアリスだって精神的に疲弊はするのだ。

 友人でもある令嬢たちがそれなりにアリスの味方をしてくれているからこそ、まだ平静を装えたとも言う。


 そうして月日は流れ、いよいよ逃げる準備をしなければいけないかも……と思ったあたりで。

 とりあえず最後の最後、アリスは両親に訴える事にした。

 今までだって何度もアリスはカルロとの婚約は嫌だと伝えてきた。

 けれどもアリスの両親はカルロの態度をアリスに対する愛情表現だと言って、深刻に受け止めてはくれなかった。それはカルロの両親だってそうだ。

 すまない、アレはただの照れ隠しだ。

 そうよ、カルロはアリスちゃんの事がとても大好きなのよ。

 そうやって何度だって有耶無耶にされてきた。

 あまりに酷い時は息子にはよく言い聞かせておく、なんて言っていたけれど言い聞かせた結果がコレであるならもはや何の期待もできない。



「お父様、お母様、婚約を無かったことにしていただきたいのです」

「アリス、またその話? もう何度も言っているけど」

「我慢の限界です! それに! あの家の特殊な性癖に巻き込まれるのはうんざりなのです!!」

 淑女の仮面などかなぐりすててアリスは叫んだ。


 今まではカルロの自分を貶めるような物言いに対して嫌だと伝えてきたけれど、それでも伝わらないのであれば仕方がない。アリスは切り口を変える事にした。いや、実際のところそこまで変わっていないのだけれど。


「性癖……何を言っているんだ」

「お父様、いい加減目を逸らすのはやめてください。散々見てきたではありませんか」

「ちょっと待ってアリス、一体どういう事」

「お母様だってそう。知ってるくせに! いつだって見てきて知ってるくせに!

 それとも何!? 二人もそういう性癖だとおっしゃるの!? だからそれが当たり前だとでも言うの!?」


 我慢の限界だと先程述べた通り、本当にそうなのだという事を知らせるようにアリスはヒステリックに見えるように喚いた。この場には両親だけではなく、使用人が控えている。万一何かあったとして、使用人が周囲にそれとなく話を広めてくれないかという期待もあった。勿論この家に仕えている使用人が外でベラベラと家の事を話すとは思っていないが、もし、もしこれでダメだった場合。アリスは出奔を考えているのでそうなれば。アリスが家を出た理由がそれとなく広まればいい。そう思っていた。

 実際アリスは我慢の限界を迎えていた。

 両家の仲が良いのは別にいい。

 アリスだって親の交友関係に口を出す気なんてない。けれども、そこにアリスまでも無理矢理巻き込むのは勘弁してほしかった。

 相手がアリスと仲良くできそうな相手であればそんな風に思う事もなかった。けれどもカルロは。

 会えばいつだってアリスの事を扱き下ろしてくる。

 今はもうすっかりそんな気持ちはないが、それでも最初の頃はそれなりに落ち込みもしたし自分はもしかして本当にカルロの言う通り醜いのかもしれないと思い悩んだりもした。

 そうやってアリスから自信というものを根こそぎ奪おうとしていたカルロの事を好きになれなど、土台無理な話なのだ。

 アリスには幸い他にも友人がいてそちらがアリスの味方をしてくれていたからこそ今でもこうして立っていられるけれど、もしそうでなかったら。

 今頃アリスはきっともっと卑屈な人間になっていて、常に相手の顔色を窺いおどおどした雰囲気を漂わせる貴族の娘としてはあり得ないような人間になっていたに違いない。


 カルロの女性の好みがそういう人で、アリスにそうなってほしいからこそそうしている、と考えれば理解はできる。けれど、カルロの思い通りの人間になってやるつもりはアリスにはなかったのだ。


「大体、初めて会った日からずっとカルロ様は仰ってきました。私の事をブスだと。醜いと。それだけではございません、お父様が誕生日に贈ってくださったドレスを着た私を見てカルロ様はそんな派手なドレスで誰に媚びを売るつもりだだとか、お母様が贈って下さった首飾りを見て趣味が悪いだとか、着飾った所で元が変わる事などないだとか、それはもう様々な事を仰って下さいました」


「なんだと」

「なんですって!?」


 会うたびカルロがアリスに対して子供のような悪口を言っているのは勿論二人も知っていた。

 けれどもカルロは、そういう時必ずちょっとだけそっぽを向くようにして耳を真っ赤に染めていたので。

 両親は恥ずかしがって照れ隠しであんなことを言っているのだな、と思っていたのだ。

 けれどもそこで二人がアリスに贈ったものまで貶されていると知れば、まぁ不快に思う気持ちはあるだろう。


「どうせ何着たって似合わないとか化粧をするような年齢になれば色気づいて男をたぶらかそうとしているだとか」


 つらつらと述べられているそれは、確かに両親目線ではカルロの照れ隠しであったはずだ。

 実際二人はカルロの言葉の副音声を理解していた。


 アリスは可愛いのだから、周囲に愛想振りまいてしまうと自分以外の人もアリスの事を好きになってしまう。だから、あまり可愛い姿を周囲に振りまかないでほしい。


 そういう意味で両親たちは受け取っていたのだ。

 実際彼らが一緒にいた時にカルロが口に出した言葉は今しがたアリスが言ったような、プレゼントを贈った相手を貶すようなものではなかったので。


 いつも目立たないようにしろだとかでしゃばるなだとか言っているのは、そうやってアリスが素晴らしく優れている事が周囲に知られれば脚光を浴びてしまって、余計な虫が近づくから。


 お洒落だってそれでなくとも何もしなくたって素敵で可愛くて美しいアリスなのだから、これ以上周囲にその美しさを知らしめないでほしい。


 そういった、本当に照れ隠しの意味だとアリスの両親もカルロの両親も受け取っていたのだ。

 だって言葉は確かに聞きようによっては酷いかもしれないけれど、それでもカルロのアリスを見る目はまさしく恋をしているソレだったのだから。

 いつもカルロは顔が真っ赤になっていないか気にしているけれど、とっくに耳まで真っ赤に染まっているのだ。それに気付いていないカルロの事を両親たちは微笑ましく見守っていたのである。

 だから今までアリスが婚約を無かったことにしてほしいと訴えていても、いずれカルロの気持ちはアリスにだって伝わると思っていた。


 アリスの両親は、カルロの両親をかけがえのない友だと認めている。

 そんな素敵な夫婦から生まれたカルロ。彼だって勿論あの両親の子なのだから、そしてあの二人に育てられてきたのだから、心根が悪いというわけではないのだ。

 ただ、アリスもカルロもまだお互い子供で、二人ともとても素敵な子だけれどお互いにそれに気付けていないだけ。


 困った事にアリスの両親はそう信じ切っていたのである。

 アリスからすればいい迷惑だ。


 ちなみにアリスはまだカルロの良さを気付いていないだけ、なんて両親は思っているが、そもそも良い部分なんてありましたか? というくらいアリスの中でのカルロの評価は地の底である。

 いずれ彼の良さに気付く日がくる、とか言われてもまず好感度が最底辺通り越して地の底なのだ。ゼロではない。マイナスだ。

 それでちょっといい部分を見つけたとして、それでアリスがカルロの事を――それこそ今までの不快な態度も何もかもひっくるめて許せるようになるまでの好意を抱けるようになるか、となるとまず無理なのだ。

 マイナスからゼロになるかもしれない日はくるかもしれないが、プラスになる事は決してない。


「いいですかお父様お母様、そもそもあのヴォーデイン家でカルロ様は今まで散々私に対しての暴言を吐いてきました。そのたびアナスターシャ様がよく言い聞かせておくと言っておりましたわね!?」


「え、えぇそうね」


 娘の剣幕に圧されるようにしながらも、オヴェリアが頷く。


「ですがそれが矯正された事などありましたか!? あったらこんな事になっていませんよね!?

 つまり、あちらで言い聞かせておく、というのがただの虚言か、もしそうじゃなければカルロ様はそれを改めるつもりがない、という事なのです。でなければ学習能力のない愚か者ですわ!!」


 本来ならばあまり大きな声を出すものではないよ、と窘めるべきなのかもしれないが、娘の剣幕は凄まじく、また途中でそんな事を言って話の腰を折るような真似をすればアリスは何かとんでもない事をしでかすのではないか……? と思えてしまったからこそ、両親はまずアリスの言い分を聞く事にした。


 今まではカルロの照れ隠しだと言っていたけれど、しかし自分たちの知らぬ場所でアリスに贈った品を貶されていたのであればこちらとて黙ってはいられない。

 遠回しに自分たちも悪く言われている、と思えたからこそ話を聞いているだけでそうじゃなければまたなぁなぁにするつもりだった、という部分に悲しい事に両親は気付いていなかったけれどアリスはとっくに気付いていたしそれ故に両親には軽く失望もしてしまっているのだ。

 それもあって、最終手段出奔、という貴族令嬢にあるまじきとんでも結論が出ているのだが。


「それにね、お父様もお母様もカルロ様のアレを彼なりの愛情表現だ、なんて仰いますけれども。

 つまりそれって、相手の女性を言葉で嬲り痛めつけ辱める事に昂ぶりを感じるという性癖の持ち主であるとわかっているという事でしょう?

 三つ子の魂百まで、と言われておりますが、そもそも婚約を結んで初めて会った時から彼の言動って変わっていないんですよ。

 そしてその矛先が婚約者である私に全て向けられているんです。何故って他のご令嬢にカルロ様がそのような態度をとった事など一度もないからです。

 彼の妻になるのなら、常に言葉で精神的な辱めを受け続けなければならない、という事ですよねそれって」


 というかまだ二次性徴が来る前からそういう事に劣情抱くとか、正直おぞましいにも程があります。


 ぽそっと呟けばオヴェリアは言葉にならないとばかりに口をぱくぱくと開閉させた。


「しかもカルロ様のご両親はそれらを当然の事として受け入れてますよね。だって矯正されてませんもの。修復不可能であるならそれはそれで、この婚約は王命で結ばれたものでもなければ政略的な意味もないのだし、そのような特殊性癖を持つ息子を伴侶にするこちら側にもっと然るべき配慮があって当然ではありませんの?

 それすらなくこちらに受け入れろと? あの特殊なヘキを?

 むしろあれを特殊なご趣味だと思われていないという事は、ヴォーデイン家の性癖はあれが標準という事ですの?

 まぁそりゃ、そういう付き合いまではいたしませんから? お父様とお母様がそのような特殊な性癖の持ち主の方と交流を深めるのは? 私の口から特に何を申し上げる事はない、としか申せませんけれども??」


「アリス!? 流石にアナスターシャたちにそんな特殊な趣味はないわよ!?」


「特殊だとわかっているのですね!? けどならどうしてそのような嗜好の持ち主の家に嫁がせようとするのです、私はいたって普通の性癖の持ち主だというのに!?

 はっ……まさか、お父様とお母様も今までずっとカルロ様の肩を持ち続けてきましたけれど、つまりお二人も……!? それで、私が真っ当な性的嗜好である事を矯正させるためにあえてカルロ様との結婚を嫌がる私を無視して無理矢理に……!? い、いやっ、一体何を考えてらっしゃるの……!? 

 私は言葉でなじられたところで快感を得られるはずもないし、ましてや興奮なんてしないのに……ッ」


「アリス、アリス、待ちなさい。落ち着いて」

「いやっ! 触らないで汚らわしい!!」


 ヒートアップしていくアリスを少し落ち着け、とばかりに父が止めようとして手を伸ばしたが、それにアリスはびくりと肩を震わせ咄嗟に距離を取った。凄まじい反射速度のバックステップである。


 本当に汚らわしいと心底思っているような表情でもって実の娘から拒絶された父は、先程までのまったくカルロは素直になれないしアリスもアリスでもっとカルロの事を広い心で受け止めておけばいいのになぁ、なんて思っていたお花畑思考から一転し、この世の終わりでも見たような表情へと変わる。


 可愛い可愛い娘だ。

 目に入れたって痛くないと言えるくらいには、アリスの事を可愛がっていた。

 だがしかし、それがアリスにはこれっぽっちも通じていなかった。というか、カルロという性格最低なクソガキ様と結婚しろとなった時点でアリスは思春期に入る前から父の事はうっすらと嫌い始めていた。これで婚約を早々に無かったことにしてくれていれば、まだマシだったかもしれない。

 もしくは婚約させるにしても、カルロのように常々人の気持ちを踏みにじるような暴言を口にしないマトモな相手であったなら。

 そうすればアリスがこんな風になる事もなかったのだ。


「まさか、まさかとは思いますけど、お父様とお母様がヴォーデイン家の人と仲が良いのって……もしかして……えっと、あの、念の為確認しますけれど、私本当にお二人の子ですか?

 実はお父様とアナスターシャ様の子だとか、あちらの旦那様とお母様との子だとか……カルロ様ももしかして……」


「なんて恐ろしい事を想像するのアリス!? そんなわけないでしょう!? 貴方は私たちの子です!!」

「でも性癖がおかしい人ですし……そういう常識的に考えて有り得ないような事で快感を得る事もあるかなって……」

「違う、違いますからねアリス。そんなわけないです。ちょっ、どうしてじりじりと後ろに下がっていくのアリス!?」


「いえ、その、なんていうか……せめて身の安全を確保できる距離がほしくて……」


 そう言ってじりじりと野生動物と遭遇した時のような速度で後ろにゆっくりと下がっていくアリスに、オヴェリアは「あっ、もうだめだ」と思った。


 本当に、本当にアリスに対してブスだとか言っているカルロの言葉は照れ隠しであり好意の裏返しであるのだ。アナスターシャもうちの息子が素直になれなくてアリスちゃんにはいつも迷惑をかけているわね……と嘆いていた事だってある。

 けれども思春期を過ぎて、もうちょっと大人になればいい加減落ち着くだろうとも思っていたのだ。だからこそ彼らはあらあらうふふ、とばかりに見守っていたのだが。


 まぁ、とはいえ。

 そんなものアリスは当然知ったこっちゃないし、見守るというよりむしろ高みの見物で自分が困っているのを見ているだけだろうとしか思えなくなっているくらいには心が荒んでいる。

 それでもかろうじて体裁を保っているのは、ひとえにお友達のご令嬢たちが味方であったからだ。

 困った事があったら家へいらっしゃいな、と声をかけてくれた友人たちの優しさがあったからだ。流石に友人に迷惑をかけたいわけじゃないので、出奔する時に頼るつもりはないけれど、しかし顛末を記した手紙くらいは出すつもりでいる。


 ある日突然姿を消したアリスが自分の意志で出ていくのだという事と、あとはまだ婚約が決まっていない令嬢がうっかりカルロとの縁談を結ぶ可能性を考えてである。何も知らないままあんな男とくっつくような事になれば地獄を見るかもしれない。

 今のところアリス以外に暴言を吐く事はないが、しかしもし自分の代わりに妻になった相手にその矛先が向かわないとは限らないのだ。

 それならいっそ彼に罵られると心がどうしてもときめくの……! といった特殊な趣味をお持ちのご令嬢でもない限り、彼との結婚はやめておいた方がいい。自宅という逃げ場のないところでチクチクやられたら間違いなく心が荒むどころか病む。


 なおアリスの覚悟はとっくに決まっているので、仮に出奔して逃げ出したもののそれでも連れ戻されてカルロと結婚する事になるのであれば、最終手段としてカルロの事を殺すところまで考えている。

 彼に私の尊厳を踏みにじられるくらいなら、彼という障害を取り払いましょう。そのための汚名ならば被るのも仕方のない事。


 アリスはそこまで考えていた。

 どう考えても手遅れである。


 カルロが素直になれないのを見て微笑ましさを感じている場合ではなかったのだ。気を付けるべきはむしろアリスの方であったのに。

 困った事にグレイダリク家もヴォーデイン家もその事に気付けなかった。


 結果としてアリスの両親たちまでもが特殊な性癖を持ち合わせていると娘に疑われているし、なんだったらまさか夜の生活でお父様はお母様を雌豚だとか罵ってらっしゃるの……? などとドン引きした目で質問されるし、もしかしてジョシュアにもそういった教育を施そうとしてらっしゃいます……? ととても疑わし気に問いかけられて両親は死んだ目をするしかなかった。

 ちなみにジョシュアはアリスの弟である。姉がカルロにブスだとかいろいろ言われているのを目撃して以来、心優しい弟は姉の事を案じているし、カルロの事は嫌っている。

 アリスから見てとてもマトモな感性の持ち主なのでアリスは弟の事は家族として愛している。


「それに……もう友人の令嬢たちの噂をおさえておくのも限界なのです。裏ではとっくにあの家の人たちは特殊なヘキをお持ちになっていていつそれに巻き込まれるかわかったものではない……とそれぞれの家が遠巻きになされていますし、その家とお付き合いをしている我が家もまたいずれ付き合いを減らされる事でしょう。えぇ、特に私がカルロ様と婚約を解消せず結婚などしようものなら確実に」


「そんなっ!?」

「なんだと……いや、言われてみれば最近……」


 父は思い当たる事があったらしい。

 そう、アリスの友人である令嬢たちの家はそれなりに力のある家だ。

 アリスの境遇に心を痛め、なんとかしましょうか? と有難くも声をかけてくれたけれど、しかし友人に何もかもを任せるわけにはいかなかった。自分で足掻いて、それでもどうしようもなければ。

 その時は少しだけ力をお貸しくださいませ、とは言った。


 この婚約が王命であり、また家同士の繋がりをより強くして例えば領地の経営だとか、商会の発展だとか、そういったわかりやすい何かがあるのであったなら。

 アリスだって人としてとてもクソガキメンタルから成長しない婚約者の事を愛する事はなくとも諦めて結婚していたのだ。


 けれども別にそうではない。

 王命でもないので解消しようと破棄したところで周囲が痛手を負うような事はない――勿論両家には何らかの痛手を負う事はあるかもしれない――が、同時に旨味も特にないのだ。

 両家がより深く結びつく事で領地が発展しより国が栄えるだとか、両家が経営している商会がより大きくなって収益が増えるだとか……そもそも両家はそういった家というわけでもないので領地もないし別に商会を立ち上げて経営しているわけでもない。

 王都で暮らす貴族たちと違ってここは少しばかり都会から離れているのもあって、暮らしは案外のんびりしていた。

 あまり詳しく語れるものではないが、アリスの家では周辺区域の情報を纏めて上に報告する――警邏に近しい仕事をしているし、カルロの家は王都でも一番名の売れている商会が立ち上げている店の支店がこの街にあるのでそこで経理の仕事などをしていたはずだ。


 両家は貴族とはいっても別にそこまで大きな家でもない。完全に平民に混じって生活しているわけでもないが、一切平民と関わらない生活をしているという程でもない。同じ職場にいる他の貴族たちよりはちょっとだけ身分が上なので、それらを取りまとめる立場がある、といったところだろうか。


 まぁともあれ。

 貴族の中でも中の中とか中の下とか、両家の立ち位置はそのあたりで、それ故に別にアリスとカルロの婚約に関して常に周囲が注目しているというわけでもないのだ。

 これが王太子と公爵家の令嬢であったなら話は変わっていたかもしれないけれど。


「将来的には友人たちの方が身分が上になるかもしれない方々ばかり。そんな方々がひっそりと噂をして広めそうになっていたのを止めていたのは、流石に両家にとってもそのような噂が広まればタダでは済まないからです。けれどそれだってずっと留めておけるものではありませんわ。

 私嫌です、カルロ様と結婚してアリスは人から虐げられることに喜びを覚える女だなんて社交界で噂されるのは。そうなったらカルロ様以外の人から一体どのような誹謗中傷をされる事か……いえ、言葉だけで済めば良いのですが、最悪身体的に消えない傷を負うかもしれないのですよ。

 私嫌です。

 お父様とお母様がヴォーデイン家の人たちと仲良くするのは特に被害がないからかもしれませんけれど、その結果全てが私に集約するんですよ? たとえばそうなる事で我が家が没落の危機から救われるだとか、そういう意味があるのなら私も貴族の娘として生まれた以上、家のためにと全てを飲み込んだでしょう。

 けれども……ございますか? そうする理由。ありませんよね?

 このままでは我がグレイダリク家の名は地に落ちてしまいますわ」


「待ってアリス、噂って……」

「今は広まらないように友人たちにも頼み込んでおりますけれど、カルロ様と私が結婚した時点で爆発的に広まるでしょうね。そうなれば私の事だけではなく必然的にお父様やお母様も噂の渦中に身を置く事に」

「ひっ」


 貴族たちの間で噂というのは時に洒落にならない威力を持つ。

 真偽の程がわからぬうちのゴシップのような内容であればまだ、訂正の機会もある。

 けれども一度真実だと思われて広まってしまえばそういった噂は中々消せるものではないのだ。真実を広めるにしても、その場合真実だと思われていた噂以上の印象や衝撃がなければ中々知れ渡らずずっと古い情報が真実だと思われて長々と語り継がれていくのだ。

 広まった噂が可愛らしいものであればまだしも、アリスの言うような特殊性癖だとかの際どい言葉が入っているものならば、それこそあっという間に国中に広まったっておかしくはない。

 そうなった場合、いくらそれが嘘だと訂正して回ったとして完全にその噂が消えるまでに果たしてどれくらいかかる事か……


 その間周囲からは好奇の目を向けられるのは想像に容易く、オヴェリアもまたそれを想像したのだろう。


 貴族ではあってもそこまで力を持っているか、と言われればそうでもない。

 だというのにそんな醜聞が広まれば、マトモな貴族は関わりを断とうとするだろうし、もしその状況で近づく家があるのならそれは面白半分でこちらを揶揄い玩具のように遊んでやろうという性質の悪い連中だと思って間違いない。


 そんな噂が広まれば、間違いなくグレイダリク家は終わる。


 しかも既にその噂がほんのりと広まりつつある状況。

 父は最近仕事の付き合いだとしても以前に比べてちょっと人が遠ざかっている気がするな、とは思っていた。ただ自分が何かを仕出かした覚えもなかったし、もし仕出かしているなら上から何らかの確認がされているだろうと思って、そこまで気にしていなかった。

 あからさまに避けられているとかではなかったので、たまたまそういうタイミングが悪い事もあるだろう。それくらいに考えていたのだ。


 だがアリスの言うような噂が広まれば、変態を見るような目を向けられるのはほぼ確実だろうし、最悪職場の風紀を乱すなんて言われて上からやんわりと職を辞するように告げられるかもしれない。

 仮に仕事を辞めたとして次がそう簡単に見つかるだろうか。――否。醜聞が広まった挙句しかもそれが真実だと思われているのであれば、どこもかしこもそんな相手を受け入れる事はしないだろう。

 そうなれば路頭に迷う事だって有り得る。


 そんな噂、真実でもなんでもありません、と言いきって平然としていても立場が揺らがないくらいの身分と立場があればまだしも、そんな事はないので。

 もしその噂が一気に広まれば間違いなくグレイダリク家だけではなくヴォーデイン家も終わる。


 今までアリスの訴えを「男なんてそんなものだから広い心で許してやってくれ」なんて言っていたけれど。

 知らぬ間に事はとんでもなく大きくなっていた。

 仮にアリスがカルロの事を許して受け入れたとして、あの家やっぱり……なんて噂をされるのであれば。


 ほぼ破滅は間違いなかった。


「……こ、婚約の撤回を求めてこよう……」


 勿論両家の両親が特殊性癖の持ち主でない事も、カルロだってそうじゃないという事も確かなのだが、しかし荒唐無稽でありもしない妄想のような噂だと一蹴できる状況ではない。実際にそれなりの人数が、カルロがアリスをブスだなんだと悪しざまに言っているのを目撃している。

 あの噂事実無根だよ、と言ったとしても完全に信用されないのだ。


 それ故にアリスの父は早々に行動に移るしかなかったのである。



 ――勿論、ヴォーデイン家が突然婚約の撤回を求められてもすぐに受け入れる事はできなかった。

 だってカルロはアリスの事を想っている。憎まれ口を叩いたりしてはいるけれど、それらは全て愛情の裏返しなのだ。


 だが重々しい口調でアリスの父から語られている密かに広まりつつある噂の事を聞けば、アナスターシャは危うく意識を飛ばしそうになったし、その夫もすぐに現実を理解できず「え? 何言って……え?」と一向に何を言われているのかわからないというように何度も聞き返してきた。


「婚約を破棄、だとカルロが本当にそういった趣味の持ち主だと思われてしまう。だからこその撤回だ。お互い性格が合わなかった。もしくは他に家のための婚約者を探す事にした、そういった理由があれば最悪の展開にはならないだろう」

「そんな……カルロは本当にアリスの事を……」


 アナスターシャの言葉は最後まで続かなかった。


 本当に好きだろうと愛していようと、それをアリスは受け入れていなかった。お互いがそれでいい、と思っているなら周囲もそういうものと見たかもしれない。けれどもアリスは嫌がっていたし、それ故に嫌がる女性に酷い言葉を投げかけている婚約者というのはさぞ嫌な男にしか見えなかっただろう。


 婚約を解消した場合、アリスは恐らく早い段階で次の婚約者を探そうと思えば見つかるかもしれないが、カルロの場合はアリスよりも婚約者が見つからない可能性は大いにある――のだが、現時点でその事実に気付いている者はこの場にはいなかった。


 ただただ素直になれないカルロが原因とはいえ、とんでもねぇ誤解が生じて家が潰れる寸前まで追い込まれているという事実をまずはなんとかせねばと意識はそちらに向いていたのだ。


 婚約を解消したならば、この場にはいないが間違いなくカルロはどうしてと婚約を解消した事実をすぐに認めようとはしないだろう。

 説明するにしても、どうしたものかなと頭を悩ませる。


 言葉を濁したところで、いずれ真実を知る事があるかもしれない。

 というか、アリス以外に好きな人ができたとして、また素直になれないクソガキメンタルが顔を出したら密かに広まっていた噂は噂ではなく真実であった、などと言われるだろう。

 やはり……正直に話すべきか。


 カルロの父は酷い頭痛を覚えて思わず頭を抱えてしまった。


 アナスターシャもまた同様だった。

 照れ隠しで、恥ずかしくて好きと素直に言えない息子の様子は母親だから可愛く見えていたのであって、母でもなんでもないアリスからすれば確かに不快極まりなかっただろう。

 言っておくわね、なんて言いながらアナスターシャはカルロの気持ちもわかっていたために、言い方がそこまで強くならなかったというのも否定できなかった。


 子供特有のもので、大人になれば変わるだろうと、そんな風に呑気に構えてしまった。


 もし婚約者が同じ家格の相手ではなく上の立場であったならそんな悠長な事を言わず即その精神を叩き直していただろうに……仮に家格が同等であったとしても、相手の家が仲の良いグレイダリク家ではなく別の家であったなら。それも勿論カルロを矯正すべく厳しくいっただろう。


 結局のところ。


 仲の良さでなぁなぁにしていたツケが回ってきただけの話である。



 ――さて、その後。


 婚約解消がなされた事でアリスは友人たちにとても晴れやかに報告をした。

 おめでとうござます。

 良かったですね。

 本来であれば婚約の話が消えた、というのは決してめでたい話ではないのだが、相手によっては祝福もされよう。アリスの友人でもある令嬢たちは身分的にアリスと同じだろうとも、家の力という点ではちょっとだけ上だったりしていた。

 だからこそ、少しだけ助力を頼んだとはいえそれだってちょっとだけヴォーデイン家とグレイダリク家に関わりのある人間にそっと頼んでちょっと距離を置いてもらうのを頼んだに過ぎない。

 頼まれていた人間も身分の低い貴族や平民が主で、一生関わるなと言われたわけでもなく一時的にちょっとだけ申し訳なさそうに距離を置いてほしい、という頼みだったためそれくらいなら……と引き受けただけだ。

 実際アリスが両親に言ったような噂は実のところまだ広まってすらいない。

 まぁ、それでもカルロと結婚する流れになっていたなら遠慮なく広めてもらうつもりではいた。


 もしそうなっていたら二つの家は社会的に死ぬし、カルロと結婚したアリスは間違いなくカルロを殺害していたので最悪の更に先を行く展開になっていたのは間違いない。


 両親の決めた結婚相手がアレだったのもあって、アリスは次の婚約者は自分もよく考えて決めたいと言った。アリスはカルロの照れ隠しだとか愛情表現だとかの暴言を受けてもへこたれずに自分を貫き通していたので、婚約者からの横暴に耐えてなおも凛としている令嬢、と一部で実は噂になっていた。その結果、婚約が解消されたという話を耳にした他家の令息からの誘いがちらほらと出るようになり、その中でちょっと気になった令息が特に仲の良い友人の従兄である事が判明し、友人経由で彼の情報を聞いてお付き合いを決めた。


 とりあえずカルロと違って照れ隠しだとかで初対面の時からブスだのなんだの言わなかったし、そもそも普通の、人として常識の範囲内での対応だったし、息をするようにこちらを貶したりもしてこなかったし、一緒にいて胸ときめくしで彼となら結婚してやっていける、と思ったので両親の許可をもぎ取って婚約もした。

 ちなみにこの時の自分が感じた思いは間違いではなかったようで、アリスはこの後息子を二人、娘を一人産む事になる。


 夫に選んだ人は決して口数が多い人ではなかったけれど。

 それでも肝心な時に言葉を惜しむタイプでもなかったのでアリスはそんな彼からの愛を受けて幸せに、穏やかに時を重ねていったのであった。




 ちなみに。

 初対面時に初恋からの素直になれずついついずっとクソガキメンタルのままアリスにブスだとか、お洒落をすれば色気づいて男に媚びを売ってるだとかまぁ色々言っていたカルロはと言うと。


 婚約解消された時点でまず納得できなかったし、しかし親から聞かされた理由を聞いて自分のせいであるという事に衝撃を受けたし、更にアリス本人からもとんでもなく嫌われているという事を知って酷く落ち込んだしでそれはもうメンタルはどん底だしその状態をしばらく引きずった。


 思い出すのはアリスの事ばかり。

 あまりに可愛い婚約者だった少女は、あのままでは他の誰かにとられるのではないかと思っていた。

 だから、あまり可愛らしい姿で人前に出てほしくなかったというのもある。

 アリスと比べるとカルロの容姿はパッとしないという自覚があった。

 それでも成長するにともない、努力もしていた事もあってある程度マシになってきたとは思うのだがしかしアリスは更に美しくなっていて、だから余計に不安だったのもあった。


 もっと目立たないでいてほしい。少なくとも自分と結婚して妻となるまでは。

 そんな素敵な装いで人前に出ないでほしい。間違いなく注目を浴びるから。

 自分が素敵な人なのだと自信を持ってしまわれたらカルロよりもっと素敵な人を見つけてそちらとくっついてしまうかもしれない。


 そういった不安もあったのだ。

 アリスから聞いて暴言にしか聞こえなかった言葉の裏には、確かにそういった想いがあった。

 アリス本人には一切伝わっていなかったようだが。


 何せ婚約が解消された直後、実の母から聞かされたのだ。

 貴方のその言葉が照れ隠しだって私たちはわかっていたけど、アリスだけは違っていて今までずっと婚約を解消してほしいと訴えていたという事を。


 そういう言い方はなおさないといずれアリスに嫌われてしまうわよ、とアリスの事を貶すたびに母からは窘められていた。いたけれど、とっくに嫌われているとは思っていなかったのだ。

 自分の好きは伝わっていると信じて疑っていなかった。恋は盲目というが、完全に駄目な方向に盲目であった。


 送るのは後悔に塗れた日々である。

 あの時きちんと好きだと言っていたら。

 あの時ああしていたら。こうしていたら。

 今更すぎるあれこれを思い返しては、泣き暮らす。

 正直あまりにも女々しすぎる、と両親は思ったけれどしかし初恋の相手と結婚できるはずがその事実が無かったことになってしまったのだ。しかも原因は自分で。


 これがもっと別の何かが原因であればカルロはそれを恨んで怒りの矛先をそちらへ向けただろう。

 けれども悪いのはどう考えても自分なのだ。

 しかもおかしな噂が密かに流れて危うく両家の名誉だとかを失墜させる事になったかもしれなかった。


 悔やんでも悔やみきれない。


 更にそこに流れてきた噂は、アリスが婚約したというもので。


 あぁやっぱりあんな素敵な女性だもの、そりゃすぐ次の相手が見つかるよな……と納得したと同時に、まだそこまで経過していないのにもう次の相手が……! という怒りとも憎しみともつかぬ感情も湧きあがった。


 一体どこのどいつだ……!!

 なんてまだ見ぬアリスの新たな相手に憎悪を募らせ調べてみれば、あまり目立つタイプの人物でない事だけは確かで。


 一体そんなやつのどこがいいんだ、なんてまだ自分に勝ち目があると思い込みたくて、とある家が主催したパーティーに参加した時にカルロはその男に声をかけようと思っていたのだ。

 もし大したことのない人物であれば、アリスから身を引けと言うつもりで。

 既にカルロにそんな権利がない事はすっかり棚に上げて。


 だがしかし、結局カルロはその思い付きを実行できなかった。

 事前に察知した両親に止められたとかではない。

 相手の男と一緒にいるアリスが――とても幸せそうに笑うから。


 自分の前でそんな風に笑った事など一度もないのに。


 あまりにも幸せそうに笑っていて、そうして婚約者を見ていたから。


 自分には決してそんな風に目を向けた事などなかったのに。


 周囲もすっかりお祝いムードで、まるでそこだけ別の世界みたいに幸せの気配に満ちていて。


 そんな所に自分が足を踏み入れるのは、とても勇気がいったのだ。


 あの空気を自分が壊してしまったら。

 道端に転がる石ころを見るような目を向けられたら。


 アリスに嫌悪に満ちた目で見られるのも、とっくに興味を失った目を向けられるのも、カルロにはどちらも耐えられなかった。

 だが、あの婚約者の男に向けるような目が向けられる事はないとわかってしまっている。


 本当だったら、そこは自分の場所だったはずなのに。


 けれどももうそうではないのだと、改めて現実を突きつけられて。


 カルロにできる事は何もなかった。ただすごすごと彼らの視界に入りたくなくてそっと場を後にしたのである。



 ここでカルロが前向きになって新たな恋をしよう! と思える程度にさっぱりと切り替えていれば、もう少し地獄が続いたかもしれない。何せ一部ではカルロのアリスに対する態度の酷さは知られていたし、もし彼と結婚したとしてやはりアリスのようにブスだとか罵られるかもしれないし、そうでなくとも何かとアリスと比べられるかもしれないし、比べられなかったとしても彼の苛立ち、八つ当たりを当たり前のものとして受けさせられるような状況に追い込まれるかもしれない。


 そんな事はない、と言われても一度そういった酷い部分を見た事がある者は中々信用できるものではないし、もしここでカルロが前向きになっていたならそういった事もあって婚約者になるような令嬢が中々できず、余計荒れたかもしれない。

 だがしかしカルロは婚約者とあまりにも幸せそうにしているアリスに延々失恋を引きずっていたので、悪い噂が密かに伝わり続けるという事はなかった。

 何せアリスに酷い態度をとっているのを見た者は確かにいるが、そのアリスはとっくに新たな婚約者と結婚をし子にも恵まれ聞こえてくる噂はいつ聞いても幸せに満ちている。


 カルロはその後失恋を引きずって他の令嬢に目を向ける事もなかったために、そしてアリス以外に暴言を吐く事はなかったがために、年単位で独り身であった事も反省しているのだろうと思われていた。

 もしまたやらかせば当時の事も引っ張り出されてあれこれと噂が広まったかもしれないが、少なくともそういった事がなかったので周囲も一応反省してるようだから……とわざわざ昔の話を吹聴する事もなかった。

 カルロがどうしても引きずり落としたい政敵である、とかであれば悪い噂はじゃんじゃん流されていたかもしれないが、そこまで権力という意味での力を持たない貴族としては平凡な存在であったからこそ周囲も一々手を出すような事はしなかった、と言ってしまえばそれまでか。


 ともあれ、周囲はカルロにそこまで優しくもないが異常に厳しいとかでもなかったのである。


 それゆえに数年後、カルロもまた前を向いて結婚相手を見つける事となった。

 相手は夫に先立たれた未亡人。とはいえそこまで年がいっているわけでもなく、彼もまた数年後に跡取りを得る事になる。

 アリスに抱いていた程の強い感情を妻にもった事はないけれど、それでも穏やかな愛は確かに存在していた。




 なおグレイダリク家とヴォーデイン家はこの一件でちょっとだけぎくしゃくして今まで程仲良く交流、とはいかなくなったけれど。


 それでも世間一般からすれば仲は良好な方であった、と述べておく。

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― 新着の感想 ―
[一言] まあ仮に暴言が無かったとしても、それが性格の一面でしかないとしても、クソガキメンタルの男と結婚とか嫌だよね、に尽きる。
[良い点] ツンデレと言っても相手にデレが伝わらなければただの暴言なんだけど、事情を知らない第三者から見たらただの「特殊なヘキ」 というのを素晴らしい作品で読めました …アリスさんには悪いですがとても…
[一言] 両親も相手の一家も滅べば良かったのに
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