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ヒストリカル・ロマンス

永遠の輝きと愛とお金の話

作者: 仁司方


偉大な数学者の逸話を調べてみると、だいたい絶妙に空気読めてない人たちだなあってなりますよね(偏見)。


「僕をこの家の財産で養ってください!」


 開口一番、ホンネとタテマエが完全倒立している科白を発した24番目の求婚者に、宝石商ジョゼフ・ジョールディンは額に手をやって天井を仰いだ。


「きれいごとばかり()かす輩に娘はやらん!」といって、これまでの23人を追い返してきたのは事実だが、ここまでなにも取り繕う気のない下衆(ゲス)の極み男子は呼んでない。


「商売の話であれば、私もざっくばらん、ぶっちゃけトークは望むところだがね。しかしだ、結婚の申し込みをするにあたって、いますこし選ぶ言葉がないか、貴殿は考えるに至らなかったのかな?」

「ご尊宅のソフィ嬢とは、以前デュザリ伯爵主宰のサロンで一度同席させていただいたことがあるだけでして、あいにくと直接お言葉を交わす機会もなく、お顔も、お目にかかればわかると思うのですが、街なかですれ違っても気がつくか、といわれると自信がない程度です」


 う、うん……正直で結構、もう帰っていいぞ、とジョゼフが告げるいとまを挟ませることなく、下衆の極み求婚者は言葉をつづける。


「ですので、ジョールディン卿が娘御のご結婚相手を探しておいでだと小耳に挟みまして、こうして釣書を送らせていただいた上で、御尊父と直接お話する席をお許しいただけたわけですが、僕としては、(いつわ)りのソフィ嬢への愛や、賛辞を並べ立てるのは誠意のないことだと判断いたしまして、このように有り体な申しようをたてまつる次第です」

「うむ……大変率直で、わかりやすかった。貴殿はスピーチの才能があると思う、ローアン卿。では、お帰りはあ――」


 ジョゼフが玄関方面へつながるドアを示したところで、その反対側のドアが開いた。


「おもしろそうじゃないですか。商家の娘の結婚というのは、要するに新規の投資。ローアンさまが資金を必要としている理由を、ひととおりうかがってからでも、断るのは遅くないのではありませんか、お父さま」


 問題の当事者の登場に、


「……ソフィ」


 とジョゼフは眉間にシワを寄せ、


「これはソフィ嬢。ご機嫌うるわしゅう」


 ローアンのほうは着座ながら優雅な所作で一礼する。


 ジョールディン家の娘ソフィは、くせのない黒髪を背中の半ばまで伸ばし、濃紺の眼をしていた。金髪碧眼の貴族らしい容貌をした求婚者ローアンほど人の目を引く容色ではなかったが、ぱっちりとした大きな瞳が知的に光っている。

 絹ではなく、流行りの南海渡来綿織物(キャラコ)仕立てのドレスをまとっているところが、富裕な上流市民の子女らしい。


 戸口から応接卓のほうへ歩を進めながら、ソフィが口を開く。


「デュザリ伯のサロンでローアンさまが発表なさった、解不在の数式のお話、大変興味深く拝聴いたしました。原稿の写しを一部いただいて読んでいるところなのですが、いまだによくわからないんです」

「よろしければ、詳しくご説明しますよ」

「それはまた、いずれ。いまは、ローアンさまがお考えの、わたしと結婚した場合、わが商会の資産をどう活用なさるおつもりなのかについて、お聞かせください」


 そういって、ソフィは父ジョゼフのとなりに座った。メイドがお嬢さまのぶんのコーヒーをおいていき、そういえば飲み物があったな、とジョゼフは一度カップを手に間を取った。


 ジョゼフにとって、ソフィはかわいいが困った娘でもある。


 ソフィが4歳のとき、書斎で商会の帳面つけをしていたジョゼフは、部屋に入り込んできた娘を放任していたのだが、父のひざの上によじ登ってきたソフィは、帳面をしばし眺めてひと言、


「パパ、ここ計算間違ってる」


 と指さしたのだ。


 おどろいたジョゼフは帳面を見直したが、2度見てもわからず、3度目でようやく、たしかに不正確であろうが、厳密な答えを出すのはかなり面倒なことに気がついた。

 そもそも、仕入れた原石から宝石を削り出すさいに、歩留まりが見込みと異なる結果になるのは、宝石商にとってよくあることで、これまでも、細密に最後の100分率1000分率までは計算せず、1割2割で最終売価や利益を算出していた部分だったのだ。


 ジョゼフが黙り込んでいるあいだに、ソフィはささっとつたない数字で帳簿にあらたな値を書き込んでしまい、後日数学の素養がある知り合いに検算を頼んだところ、


「すべて合っています。ジョールディンどのの娘さんは天才ですな」


 そう感嘆された。


 以後ジョゼフは、娘が興味を持ったことに干渉せず、好きにさせてきた。ソフィのつける帳簿は、ジョールディン商会が競合よりも高い利率を上げ、価格競争で優位に立ち、出資者へ適正で明瞭な配当を支払うことでさらなる投資を呼び込む、重要な経営資源になっている。

 だが、年ごろになったソフィが出かけるさきは学芸趣味の貴族や豪商のサロンばかりで、夜会や舞踏会には見向きもしない。18歳になるというのに、刺繍もダンスもできないままだ。


 ジョゼフの妻アンナは、ソフィを産んだのち、待望の男の子を身籠っていたのだが、不幸な事故で母子ともに他界してしまった。商会を継ぐ資質はソフィにありと見込んだジョゼフは、再婚せずに通してきたものの、頼りになる婿どのを見つけてやりたいとは思っているのである。


 ……ソフィのことはろくに知らないが商会の財産はほしい、と堂々のたまう求婚者へ、ジョゼフはあらためて目を向けた。


「ローアン公爵家の継承者である貴殿が、平民の娘を望むというのは、財産以外の理由がないだろうということは私にもわかる。わがジョールディン商会は、ここバルディウム王国では、まあ一番の宝石商だろう。とはいえ、次期公爵位を捨て去るほどとは思えないのだが」


 ジョゼフが書類選考は通したのは、アラン・エヴァリスト・ド・ローアンが、釣書を送ってきた求婚者の中では位階が一頭高かったからではあった。

 公爵家の継承者を釣書だけで落としたとなったら、もしソフィの結婚が今回の募集で決まらなかった場合、つぎからだれも名乗り出てくれなくなりそうだったので。


 ローアン公爵家はバルディウム王家の縁者ではなく、もともとは隣国メロヴィグの王家傍流であった。2世紀ほどむかし、宗派対立が先鋭化していた時期に、嫡流とは異なる主義を奉じていたローアン公家は王位請求権を完全に剥奪され、小叛乱ののちバルディウム王国へ転じたのである。

 領地のバルディウムへの編入はなし、ローアン家の王位請求権を旗印にバルディウムがメロヴィグへ干渉することもなし、その代わり叛乱の罪は不問とする、と話がつき、したがって、位階ほどの権勢や財力はない。それでも、当時は国主として()ったばかりであったバルディウム王家よりも格だけなら上、というのがローアン公家であり、それはいまも変わっていない。


 故地を追われた公爵家の跡取りは、最初にジョゼフを唖然とさせたときと同じ口調で滔々と語る。


「これからは学問の時代です。知の探求がもたらす結果が、神の不在の証明になるのか、神の創造の秘蹟の証明になるのか、それはまだわかりませんが、宇宙のありようそのものを究明する道に、遅れを取ることは許されません。僕も、国家と、なにより世界全体の進歩に貢献したいのです」

「……うむ、すばらしい。ローアン卿はすでに、学芸振興を目的とするサロンで、その研究成果を発表なさっているのであろう? わがバルディウムや、メロヴィグのみならず、近年は諸国があいついで王立アカデミーを設立している。貴殿ならいずれのアカデミーも喜んで迎え入れるはず。公爵家の次期当主として、自らサロンを主宰される道もある。なぜわがジョールディン商会なのだ?」

「ダイヤモンドが必要なんです」


 アラン・ローアンの話が、天下国家・時代の趨勢から、一気に自分の関知する範囲に飛び込んできて、ジョゼフは目をしばたたかせることになった。


「ローアン卿のご専門は数学だったね? ダイヤモンドにどのような関係があるのかな」

「日常の勘定に使う以上の高度な数学は、実体のない虚構をもてあそぶだけの、無意味なこじつけごっこと思われがちですが、多くの現実世界の事象を説明できます」


 そういってアランが応接卓の上に広げたのは、幾何学模様と何行かの数列が記してあるメモだった。


 宝石商であるジョゼフと娘のソフィには、幾何学模様が宝石のカッティング図面であることがすぐわかる。


「僕の計算結果によれば、この、58面のカットをほどこすことで、ダイヤモンドが自ら光を発しているかのような輝きを得ることができるはずなんですが……実証には、透明度が高くて無疵のダイヤモンドと、腕の良い職人が必要でして」

「これは……ローアンさまが発表なさった〈解なし〉の方程式が使われていますね」


 一般化された数式ではよくわかっていなかったソフィだが、具体例を見せられるや、すぐにアランの仕事の意味を察した。


 ソフィに気がついてもらえて、アランは楽しげにうなずく。


「そのとおりです。解がない方程式というのは、表記できる数字にならないだけであって、存在しないわけではないのです。うまく使えば、ひとつの計算結果から、対称や、回転させた式を導くことができる」

「すばらしい……ダイヤモンドへあらゆる角度から入ってくる光の経路をすべて計算していては、何十年かかるかわからない。でも、これさえ見れば、ダイヤモンドをもっとも効率的に輝かせるのはこの形だと理解できます」


 帳面つけ以上の算術はさっぱりのジョゼフには、数学オタクふたりが意気投合している理由はわからなかった。

 だが、宝石商としての長年の経験と勘で、アラン・ローアンの提示したカッティングがデザインとして正しいことは直感できる。


「これは……芸術だ。どうだろうローアン卿、ソフィと結婚するかどうかはまた別の話として、この図面をわが商会が特許として買い取るというのは」

「いえ、ほしいのは一時的なお金ではありません。このさきもずっと数学の研究をつづけるための、経済的、社会的、両面からの保証を探しています。実家を継いでしまえば、趣味のためにずっと部屋に閉じこもっているわけにはいかなくなってしまうので。正式に弟に譲りたいと、ずっと話しているのですが、なかなか父が許してくれないのです」


 ローアン家には前述の事情があるため、所有する土地も公爵家としての世襲領ではない。大貴族として連想されがちな悠々自適の毎日というのは、ローアン公爵からすれば夢のまた夢なのだろう。

 さりとて、アランが公爵家から脱籍してアカデミーの会員や大学の教授になる、というのは、現ローアン公にとってうなずき難い条件なのか。


「学者はだめだけれど宝石商の入婿になるのはかまわない……そんなこと、あるでしょうか?」


 小首をかしげたのはソフィだ。商人はさほど社会的に高い地位を認められていない。それはバルディウムに限らず、王侯貴族が治める国ではどこでも変わらなかった。博士教授で許されないなら、なおさらではなかろうか。


 それには、ご懸念無用、という意味でアランはゆっくりと首を左右に振る。


「父は実業への偏見はあまりないんです。バルディウムへやってきて以降は、代々自分の腕で稼ぎをひねり出してきた家ですから。数字の羅列がただのお遊戯ではなく、現実の世界に通じるものを生み出すのだと見せることさえできれば、父もかならず認めます」


 アランにとって、このダイヤモンドのカット図面は、ジョールディン家への売り込みである以上に、自分の将来を賭けた父への挑戦状というわけなのか。


 最初の印象よりずっと考えのしっかりしている若者だったし、娘との相性も悪くなさそうだな、と思いながらも、ジョゼフはアランへうかがうような視線を投げかける。


「……ところで、この計算図面、ほかにはだれにも見せていないだろうね?」

「はい。まずは国一番の宝石商であるジョールディン卿に見ていただこうと」

「わかった。娘との婚約を認める。理想のダイヤモンドができたら、ローアン公爵への正式な結婚願いは、私のほうから申し上げよう。この図面はもとより、光の屈折や反射に関する計算をほかには決して漏らさんでくれ、いいね」

「ありがとうございますジョールディン卿。……ソフィ嬢、一度同じサロンに出席したことがあるというだけの、ろくろく知らぬ相手との婚約に、異存はおありでないしょうか?」


 これまでの飄々と自信ありげな態度からは一変、やや遠慮がちに問うたアランに対し、ソフィは満面の笑みで首を左右に振った。


「まさか! 美しい理論をつむぐことのできるかたは、心まで美しいって、わたしはずっと信じていたんです。ローアンさまの数式は、理論としてのみならず形としても美しいものを生み出そうとしている。お早くダイヤモンドを完成させてくださいね、おまちしています」


    +++++


 ジョゼフは、理想のダイヤ製作にあたって、工房で一番の職人マルセン・ゴードンをアランと引き合わせた。


 会長から「極秘の仕事だ」「完成まで、これまでの賃金の5割増しで専従とする」「自分とソフィ、これから紹介する設計者以外とは仕事内容について決して話してはならん」と、幾重にも言い含められ、いささか緊張の面持ちでやってきたゴードンは、アランの図面を見せられて文字どおり目を丸くした。


「こいつぁ……すげえな、あんた天才か?」


 ゴードンもまた、長年培った職人の勘で、数列の意味は理解できずとも、アランのカット案が限りなく理想的であることをひと目で見抜いていた。


 アランは、学究の徒らしい慎重な口調で、人生の大半を宝石とすごしてきた生き字引へ助言を求める。


「計算は正しいはず。しかし理論と現物は、往々にして異なるところがある。あなたはここで一番経験の長い職人だとうかがった。なにか気になる点があったら聞かせてほしい」

「うん、そうだな。図面だと、上から見たとき直径が一番大きくなる部分のサイド、ガードルっていうんだが、線で描かれてるせいなのかどうか、ここに事実上幅がない。厚みゼロになってるな。実際には、ガードル厚をゼロにするのは不可能だ」


 ゴードンはすぐさま図面の現実離れしているところを指摘して、机上で計算を重ねてきたアランの見落としを教えてくれた。


「そうなのか……。ダイヤモンドは硬いから、完全に研ぎ出せるかと」

「ダイヤは硬いが割れるからな。方解石とかと同じだよ。割れもしないんじゃ、そもそも原石から光ってる部分を取り出すこともできねえしな。……ま、ガードルをどのくらい取るかは、カットする現物によって自ずと決まるもんだ。ガードル厚のぶんだけクラウンやパビリオン……クラウンってのはダイヤの上側の台形部分、パビリオンってのはダイヤの下側の三角形部分な、そっちをちょびっとだけ余計に削ればいい」

「なるほど。再計算の手間は最低限ですみそうだ、ありがとう」


 図面にメモ書きを追加しながらアランが礼を述べると、ゴードンは子供のように目を輝かせた。


「なあに、楽しい仕事をもらったのはこっちのほうよ。いやあ、このカットにすれば、そうとう小粒の石でも良い仕上がりになるだろうが、デカい石だったらたまらんことになるだろうなあ。50……いや100カラットある上物でやってみたいねえ」

「理想ダイヤ1号は、アランくんの才覚を示すために、わが商会の宣伝も兼ねて、王室へ献上しようと思っている。100カラットあるかはわからんが、つぎの船で入ってきた一番大きな原石を使うつもりだ」


 ジョゼフがそういうと、ゴードンは揉み手をしながら口もとを緩ませた。


「おおお、いいね、会長、昂ぶってきた。ところで、大物相手に一発ぶっつけ本番は、さすがに怖いんだが……」

「そうだな、理想カットの検証のために、これで一度試してくれ。ただし、万が一にも流出のおそれをなくすために、確認したらすぐに粉砕する」


 うなずいて、ジョゼフは準備していたらしい、小指のさきほどの大きさの原石を作業台においた。削り出せば、2カラット程度のダイヤにはなるだろう。


「……え、確認したら即コナゴナ? もったいね」

「王宮で公開するまでは、絶対にだれにも知られてはならん。どうせ研磨には大量のダイヤの粉末が必要になる、まるきりの無駄ではないさ」


 大きな商機につながると見れば、初期投資は惜しまない。それがジョゼフの経営哲学であった。


 ……ゴードンによる試験カットは成功し、アランの示したとおりに、ダイヤモンドへこれまでになかった輝きを宿らせることができると実証された。

 確認するなりジョゼフが金槌で砕いてしまい、真に史上初となる理想カットダイヤモンドは幻の存在となったが。


 ジョゼフが考えるに、史上有数の大きさで、美しさでは史上至高となる王室献納の一品こそが、理想カットダイヤモンドの第1号であるべきなのだ。


 ゴードンが仕事へ専念できるよう、同時に秘密を漏らさないための特別工房を準備しているあいだに、ジョールディン商会の荷を積んだ船が入港し、ダイヤモンドの原石と金細工のための地金が運び込まれてきた。

 ダイヤモンドは有史以降、長らくプラーナ亜大陸だけを唯一の産地としてきたが、近年、新大陸であらたな鉱床が発見されたのである。


 西太洋を渡ってもたらされた、ほぼ正8面体の巨大な原石が、理想ダイヤ1号に加工されると決まった。

 原石のカラット数は199。ローアン理論による大胆なカットを経ても、およそ100カラットとなる大粒のダイヤモンドが削り出される計算になる。


    +++++


 ダイヤモンドは地上最硬の物質。

 瞬間的な衝撃を受ければ砕け、結晶の形成面に対して平行に割れるが、それ以外の力は原則受けつけない。


 ダイヤモンドのカットと研磨には長い時間がかかることを知っているジョゼフは急かさなかったが、ゴードンは取り憑かれたように専用工房に入り浸っていた。


 自分の手が史上最高の作品を生み出そうとしている――その実感は、30年来宝石をカットし、磨きつづけてきた職人にとって、なににも代えがたい悦楽であった。


 ゴードンが見つめているのは、多額の報酬でもなく、得られるであろう国一番……いや、世界一の職人としての名声ですらなく、ただ、完成された美へと近づいていく目の前の石だけだった。


 ……とはいえ、いかにゴードンが職人として技術の粋を尽くそうとも、特大の上に58もの切子面(ファセット)を持つ理想ダイヤ1号の加工は、従来のやりかたであれば何年も、おそらくは5年以上かかったことだろう。


 ゴードンの仕事を強力にサポートしたのは、ソフィとアランであった。


 最新の工業分野の特許や実践を調べたふたりは、メロヴィグの国営兵廠が最初に導入し、近年バルディウムも採用した、大砲の砲身をくり貫くための、水車動力式フライス盤に着目した。

 アランが図面を引き、ゴードンに意見を求め、ソフィに頼まれたジョゼフが、陸軍大臣と交渉して技術転用の許可をもらった。王室には内々に、これまででもっとも美しいダイヤモンドを献上する、と伝えてあったため、話をスムーズに進めることができたのである。


「回収見込みのある投資だが、ずいぶんと高い出費になった。……目立つから、わが商会がなにか新奇なものを手がけていると気づかれてしまうしな」


 肩をすくめたジョゼフへ、


「もとは軍需用の技術です、よそにはそうそう持ち出し許可が出ませんよ」


 とアランは楽観的に応じ、


「なにより、5年も10年も待ちたくありません。早く史上最高のダイヤモンドを見てみたいですし、20歳までには式を挙げたいです」


 ソフィはそういってすこしむくれた。


 いわれてみて、このふたりはまだ正式に結婚していなかったのだと、アランをすっかり義息(むすこ)として考えていることに気づいたジョゼフは、内心で苦笑したものであった。


 そして、原石が届いてから1年8ヶ月後――


    +++++


 その日、ソフィは、ついに理想ダイヤモンド1号ができあがったらしいと使用人から聞きつけ、ゴードンの特別工房へと急いだ。


 もちろん、商会の従業員や、ジョールディン家の使用人たちは詳しいことを知らない。ただ、会長ジョゼフが職人頭ゴードンになにか新作の宝石を手がけさせていて、その完成がお嬢さまの結婚にも関係しているようだ、と薄々察しているだけだ。


 ジョゼフが上機嫌で、ラム酒のボトルを持ってゴードンの工房へ向かった、と聞いたので、きっと仕上がったのだろうとソフィは予測したのである。

 安いが強いラム酒は、ゴードンの好物なのだった。この2年近く、ゴードンは一滴も酒を飲まず、ろくろく家にも帰らないでダイヤモンドを磨きつづけている。


 ひたすら働けと強制しているわけではないジョゼフとソフィは、ゴードン家へ何度もお詫びの訪問をしているのだが、ゴードンの妻も子供たちも「本人がのめり込んじゃってるんだからどうしようもないよね」と、とくに意に介していなかった。


 ソフィが特別工房の鍵を開け(秘密を知っている4人以外、鍵を持っていない)、中に入ってみると、父とゴードンの姿はなかった。

 休憩用のテーブルに、空いたラム酒のボトルがおいてある。祝いの酒が足りなくて、取りに出ているのだろうか。


 工房の奥へと入ってみると、作業台のスウェードの上に、光り輝く宝玉がおかれているのがソフィの目に留まった。いや、それが発する閃きが、ソフィをいざなったのだ。


 強力な灯りはまだ発明されていないので、工房は天然光を充分に取り込む構造で、陽の出ている限り作業台が明るく照らされるようになっている。


 親指と人差指で輪をつくれば、その中にちょうど収まるほどの大きさの、完全に無色透明、疵や内包物の一切ないダイヤモンドが、淡い虹彩と、それ以上の純粋な光輝を発していた。


 アランが理論的に考案し、ゴードンの匠の技が実現した、58の切子面(ファセット)は、完璧に磨き上げられ、計算どおりに光を取り込み、はね返し、屈折させ、放出して、これまで人間が見たことのなかった煌めきをたたえていた。


「すごい……」


 アランの図面を見た時点で、かつてない美しさのダイヤが削り出されるとはわかっていたが、実物の輝きは、ソフィの想像力の範囲を超えるものだった。


 ……しばし時の存在を忘れていたソフィは、出入り口の鍵が開けられる音でわれに返った。鍵を持っているあと3人のうちのだれかだ。


 工房へ入ってきたのは、アランだった。


「ソフィ嬢、もうこっちへきていたのか。理想カットダイヤが完成したから、ご自宅へあなたを呼びに向かったのだが、不在で」


 どうやら、入れ違いになっていたらしい。アランは、ジョゼフの行動をまた聞きしただけで、ソフィが完成を察するとは思っていなかったのだろう。


 燦然と光る珠玉の前で、ソフィは祝いの言葉を述べた。


「アランさま、おめでとうございます。これは半分あなたの功績、ローアン公爵も、きっとアランさまの研究をお認めになる」

「ありがとう。でも、僕の果たした役目なんて、些細なものさ。せいぜい1割だろう。7割はゴードン卿の、あとは、あなたと、あなたのお父上の力だ」

「ゴードンは最高の仕事をしてくれましたし、父も最高の原石を使わせてくれましたけど、わたしはなにもしてません」


 といったソフィに対し、アランはゆっくりとかぶりを振った。


「あなたが、あのときデュザリ伯の数学サロンに出席していなかったら、僕は数学をダイヤモンドに応用できないかとか、考えもしなかったよ。若いお嬢さんが数学会合のサロンに出席するなんてめずらしいから、調べさせてもらったんだ」

「……そうだったんですか」


 父ジョゼフが入婿を募集しはじめる前から、アランが自分に目を留めていたと聞いて、ソフィはすこしおどろいた。

 ただ、よく考えてみればたしかにそうだ。理想カットの図面と数式は、一朝一夕で書き上がるものではない。時間をかけて準備していたところに、ジョゼフが娘婿探しを開始したのか。


 アランが、理想カットダイヤが輝くゴードンの作業台のわき、あとから運び入れたような、据付の造りではないもうひとつの作業台へ歩み寄って、上においてあった小箱を手に取った。


 ここはゴードン専用の秘密の工房で、助手もいないのになぜ作業台がふたつあるのか……? 理想ダイヤに見とれて目に入っていなかったが、いまさらソフィがけげんに思っていると、アランが緊張した面持ちで視線を合わせてきた。


「……ソフィ嬢」

「なんでしょう、アランさま」

「これを……受け取ってもらえないか」


 そういってアランが開いた小箱の中には、親指の爪ほどの大きさのダイヤモンドが光っていた。理想カットがほどこされ、淡い虹色と純白の輝きに包まれている。


 これは、親の原石から理想カットダイヤを削り出すために、最初の劈開(へきかい)で発生したあまりの石を、メインストーンと同じように研磨して作られたもの――アランの手にしているダイヤは、いってみれば理想ダイヤの妹なのだと、宝石商の娘であるソフィにはわかった。


「アランさま……」

「ゴードン卿に教わりながら作ったんだ。磨いたのが僕だから、あまりきれいな仕上がりではないけど」

「いいえ、とても……すてきに輝いています」

「あなたほどじゃない、ソフィ。国一番の宝になる、こっちの大きなダイヤだって、あなたにはかなわない」


 ゴードンの理想カットダイヤを一瞥しながらそういうアランに、ソフィはくすりと笑った。さすがにそれはないと、ソフィ自身わかっている。

 惚れた欲目だ。そう思ってもらえることが、うれしかった。


「国一番の宝になるのは、あなたの頭脳ですよ、アランさま」

「ソフィ、僕と……結婚していただけますか?」

「もちろん! わたしでよければ、よろこんで!」

「あなた以外ありえないよ。頭の中に数字ばかり詰まっている男のことを、おもしろいといってくれたのは、ソフィだけさ」


 小箱から理想カットダイヤ2号を取り出し、アランはソフィへ捧げた。裸玉のままの1号とは異なり、2号はすでに首飾りとして作られている。

 金の鎖にダイヤをあつらえる仕上げは、熟練職人であるゴードンがやってくれた。1号より小粒とはいえ、指輪にするには大きすぎるので、ネックレスがよかろうと提案したのはジョゼフであった。


 ダイヤの首飾りをかけられたソフィが、うるんだ瞳でアランを見つめる。


「アランさま……うれしい」

「ソフィ、愛している、愛しつづけるよ、永遠に」


 カット師ゴードンとともに、作業台の陰に隠れていたジョゼフは、ふたりそろって理屈っぽいこったなあ、とやきもきしていたが、ようやく声が収まって、柔らかいものを吸い合う甘い音に変わったので、ゴードンをつついて、こっそりと作業場から抜け出した。


    ・・・・・


「ラ・プリム」と命名された理想カットダイヤモンド1号は、バルディウム王室に献納され、王宮で披露式が執り行われた。


 大きさこそ、各国の王侯、元勲が所有しているダイヤモンドの数々と比べて抜きん出ているわけではないが、そのまばゆい輝きはこれまでのダイヤモンドと一線を画していると、観る目のある人にとっては一見で明らかなものであった。


 とくに詳しくない人の目にも、とにかくきれい、ということだけはよく伝わった。


 ジョールディン商会の名声は一段と高まり、マルセン・ゴードンには騎士(シュヴァリエ)の称号が贈られた。

 アラン・ローアンはアラン・ジョールディンとなって以降も、終生公爵としての各種特権が認められると、王から特許状が与えられた。


 もちろん、ローアン公爵は長男の希望を認め、むしろジョゼフとソフィに頭を下げて、息子にあらたな道を与えてくれたことを感謝したという。


 その後――


 アランはジョールディン商会の運営に直接関与することはあまりなく、多くの数学的業績を打ち立てた。機械装置の図面も手がけ、いくつかは特許を取得してジョールディン商会のあらたな収入源となった。

 アランの存命中は理論のみで空想的だと思われていた数点の設計図は、蒸気機関、内燃機関の発展によって実用化可能であることがのちになって判明し、その先見性であらためて人々をおどろかせることとなる。


 ジョゼフは後継者を確保して安心し、穏やかな余生をすごした。もっとも、盟友ゴードンの引退までは宝石商としての仕事も第一線でつづけたが。

 老後は西太洋の保養地メディラ島で、ときおり娘夫婦と孫たちを歓待しながら、のんびりとすごしたという。


 ゴードンは理想カットダイヤを作った職人として名声を博し、各国王家をはじめとする顧客の群れから、常に注文予約を抱える多忙な身となった。

 職人の命である眼が衰えるまでさらに30年仕事をつづけ、ゴードンの作品は現在も各地の博物館、美術館に多く残っている。


 ゴードンの子供たちのうち、4人は父の弟子としてすぐれた職人になった。中でも次女のエメラルダは際立った才能を持ち、宝飾デザイナー兼職人として、ソフィのもとでジョールディン商会の次代を支えた。

 アランの設計した外部動力式の切断・研磨装置のおかげで、足漕ぎペダルを踏みつづけて宝石を加工する必要がなくなり、体力勝負から解放された宝飾職人の世界は、男だけのものではなくなったのである。


 ソフィは商会の実務を父ジョゼフやゴードン、のちにはエメラルダたちに任せ、もっぱら財務管理をしながらアランの研究をサポートし、子供たちを育て上げた。

 ソフィの設立した私設アカデミーは、バルディウムとその周辺国に林立した公私さまざまなアカデミーの中でもっとも早く、立ち上げ当初から女性数学者、科学者を迎え入れ、女子教育の確立に先鞭をつけることとなる。


 ……アランとゴードンが作り上げた理想カットダイヤモンド1号「ラ・プリム」は、コンピュータ解析とレーザー切断による新技法が生み出されるまで、300年近くのあいだ「世界でもっとも美しいダイヤモンド」の称号を守りつづけた。


 もちろん、「世界一」でこそなくなったが「ラ・プリム」の美しさが失われたわけではない。


 愛と信念、理想を込めて作られた至宝は、いまもバルディウム首都ユージュセルの王宮博物館に収蔵されている。



    おしまい



地球の歴史では、ラウンドブリリアントカットが編み出されたのは20世紀になってからです。

ですが、前身となる多面カッティングは17世紀のうちに実現されており、加工技術自体は早くから存在しています。

ラウンドブリリアントカットの開発者トルコフスキさんはダイヤモンドカット匠であると同時に数学者だったそうで、数学の英才と熟練職人が出会っていれば、2世紀の先行は可能だったんじゃないかな、と思います。

プレブリリアントカットであるオールドヨーロピアンカットは18世紀に生み出されていますが、正直私の目にはブリリアントカットと同じに見えますし(雑なやつ)。

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― 新着の感想 ―
[一言] 自身の身を立てるため、まだ見ぬものへ挑む発想が経験に裏打ちされた職人の技と知識と出会い、関わる者全ての熱が合わさって炉の中で精錬されていくような静かに輝き白化していくような熱量に圧倒されまし…
[良い点] 数学がからっきしで、理系頭脳に憧れる私にとって、羨ましく素敵なお話でした。 数学なんか何でやらなきゃいけないんだ、無ければいいのに、と涙した学生時代。でも頭では数学のおかげで便利な生活や…
[良い点] 凄い素敵なお話ですね。ダイヤモンドと恋愛と。そして数学。何もかも凄い。面白かったです。
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