1559年5月 忍びの里
永禄二年(1559年)五月 尾張国内
「伊助!どうだ村の方は!」
斎藤義龍と織田信隆が美濃国内での暗闘を始めた同じころ、尾張の国主である高秀高の姿はある一つの建設中の村にあった。
この村はかつて、秀高にとっては二度も合戦を繰り広げた事のある因縁の地・稲生原に新たに建築されている村であり、その村落の長を務めているのが、他でもない秀高の忍び・伊助であった。
「おぉ殿!殿のお陰で村落の建設も進んでおりまする!これも全て殿のお陰にございます。」
「そう言うな。今までお前の忠勤に応えてやる事はできなかったが、こうしてその働きに報いることが出来たんだ。そう畏まらないでくれ。」
秀高は頭を下げる伊助に優しく語り掛けつつ、伊助の肩を優しく叩いて称賛した。
秀高は尾張侵攻の論功行賞を終えた後、忍びの伊助に今までの働きの褒美として、新たな村の長をするように命じた。表面上では、伊助は秀高より新たな領地を貰い受け、領主としての地位を得たことになるが、秀高のこの差配は、その裏にもう一つ大事な使命を秘めていたのである…
「秀高!ほとんどの建物や田畑の整備は終わったよ。あとはこの周りに木々を植林するだけだね。」
と、この村の建設奉行を務めている小高信頼が現れ、秀高の作業の進み具合を進言した。
「そうか。これだけ立派な物が出来れば、将来的には良い里になるだろうな。」
「はっ。まさにその通りにございます。」
秀高の言葉に応じるように、傍で片膝を付いていた伊助もこう述べた。その村の雰囲気は平凡的な村々の風景とは異なり、小高い丘陵地帯の麓に設けられた村であったため、どこか殺風景な印象を持ち合わせていた。
「殿、甲賀よりお客人が参られました。」
と、そこに秀高に付き従ってきていた家臣の塙直政が、秀高に客人が来た旨を報告した。
「おぉ、来たか。よし、早速にでも会おう。」
秀高はそう言うと伊助、それに信頼を連れて出来上がった村の中の一個の建物の中に入っていった。するとその建物の中に、一人の人物が立って秀高の到着を待っていた。
「お初にお目にかかります。高秀高と申します。」
「これはどうも。甲賀の住人・望月出雲守と申す。」
望月出雲守…甲賀の住人にて「甲賀五十三家」の筆頭格を務める由緒正しい人物である。主に忍び衆を用いた情報収集や工作を得意としており、近江守護の六角義賢に仕えていた。
「望月殿、この度は我らの招聘に応えてくださり、本当にありがとうございます。」
「いえ、秀高殿の下には伊助をはじめ、滝川一益など多くの甲賀者を登用してくださっており申す。その感謝のお返しがしたかっただけでござる。」
秀高が出雲守の手を取って握手し、両名は互いに握手しながら言葉を交わした。その後、秀高と出雲守は建物の中の居間に上がり、そこに座ると秀高は開口一番にこう切り出した。
「…早速ながら、今日出雲守殿をお招きしたのは他でもありません。この村を忍びの里にしたく思っております。」
秀高がこの稲生原の地に村落を建設したもう一つの理由…それこそがこの村を隠れ蓑とした忍びの里の建設だった。伊助たち忍び衆の働きは凄まじいものがあったが、今後の事を考えた秀高は、忍びの里を設けてより効率的に、より広範囲に工作の手を伸ばしたいと考えていた。
そこで伊助にこの村の長と同時に、忍びの里の元締めを命じてこの地に新たな忍びの拠点を構築しようとしていたのである。
「そこで出雲守殿、どうか忍びの里の掟なりなんなりをご教授いただけないかと思って招聘いたしました。」
「…我が忍びの里の掟は門外不出にて、おいそれとお教え出来かねますが…」
出雲守は秀高の申し出を聞いた上で、断りを入れるようにこう言った後、後ろに控える伊助の姿を見てこう言った。
「他ならぬ伊助を庇護してくれたこと、そして甲賀者を信用してくださった秀高殿のお求めに応じ、いくつかの教えをお教えしましょう。」
「ありがとうございます!ぜひお教えください!」
秀高が出雲守に頭を下げ、感謝の意を伝えると、出雲守は秀高が頭を上げた後に一つ目の教えを教えた。
「まず…忍びの里を設けるならば、この地に余所者の侵入を防ぎ、里の者以外の侵入を固く禁ずることです。」
「…なるほど、里の出入りを厳しくするという事ですか。」
秀高が出雲守の教えを聞いた上でこう言うと、出雲守はその秀高の意見に対して頷いた。
「如何にも。つまるところこの地を守護不介入の特権地とし、秀高殿と数名の家臣以外の出入りを厳しく取り締まる事です。そうすれば、この里の秘密が他所に漏れることはないでしょう。」
「分かりました。代官や家臣一同にこの旨を徹底的に教え込み、領民たちにもこの里への出入りを禁止する禁制を発行させます。」
秀高が出雲守の教えをくみ取ってこう述べると、出雲守はその意見に頷き、次の事を教えた。
「次に…忍びの者に女子を登用なさると良いでしょう。」
「女子…ですか?」
その秀高の疑問に、出雲守は即座に首を縦に振って頷いた。
「如何にも。見たところ秀高殿の配下の忍びは男ばかりのご様子。これでは情報収集の段階で敵に見破られることが多くなりましょう。そこで女子も紛れ込ませれば、くノ一として立派に働くことでしょう。」
「なるほど…くノ一ですか。」
秀高は出雲守の意見を聞いて得心した。確かに男の忍びだけでは敵の者に見破られ、工作が失敗する危険性があった。そこにくノ一を投入すれば、より良い働きを示してくれるだろうと思ったのだ。
「くノ一の詳しい扮装方法や心構えなどは、後で伊助にしかと教え込みますので、ご安心なさいませ。」
「はい。何卒よろしくお願いします。」
出雲守の意見に秀高が感謝して述べた後、出雲守は最後となる三つ目の教えを教えた。
「最後に三つ目にございますが、この忍びに命じられた事は、絶対に他の者へ漏らしてはなりません。」
「情報もですか?」
出雲守の教えを聞いて驚いた秀高の言葉に対して、出雲守は静かに頷いた。
「如何にも。諜報や工作に従事する為、秘匿性を高めておかねばなりません。あくまでも忍びに命じた事にございますので、命じる前に家臣一同と協議して決めるのは問題ありません。」
「…分かりました。家臣たちにも口外を禁じるように言い渡しておきます。」
その三つの教えを全て承諾した秀高の姿を見て、出雲守は感心して秀高にこう言った。
「この三つの教えを反論することもなく、全て吸収して承諾為された。秀高殿ならば、この忍びたちをよりよく扱えることにございましょう。」
「…出雲守殿、ご教授、ありがとうございました。必ずやその教えを大事にし、忍びたちの力をよりよく使って参ります。」
秀高は出雲守にそう言うと、再び出雲守の手を取って固い握手を交わし、招聘に応じて教授してくれた出雲守に感謝の念を伝えた。それに応じて出雲守も握手をし返し、秀高の更なる働きを願ったのだった。
こうして甲賀へ帰る出雲守を見送った数日後、忍びの里でもある稲生村は完成し、伊助は表は村落の長、裏は忍びの元締めとしてこの村に住まうようになった。同時に秀高から名字を与えられ、稲生の地名でもある「稲生」を名字として「稲生伊助」と名乗るようになったのである。
「へぇ…もうすぐ忍びの里が出来るのね。」
その日の夜、那古野城の本丸館内の居間、辺りが真っ暗になって蝋燭の光が居間を灯す中で、用意された夜食を摂る秀高に向かって静姫がこう言った。
「あぁ。今後伊助はそこに住み、稲生伊助として働いてもらうようになる。」
「稲生伊助…。」
と、秀高の隣で幼い熊千代にお粥を食べさせている玲が、秀高が口にした伊助の新しい名前を復唱するように発した。
「あぁ。それと同時に名も与えた。望月殿の「望」の字と、俺の「高」の字を与えて、「高望」という名を与えた。今後、対外的に名乗る際は「稲生高望」と名乗る。まぁ俺は、今まで通り伊助って呼ぶけどな。」
秀高が二人と、玲の隣でゆっくりと箸を進めている徳玲丸に分かる様にこう言うと、汁物を飲み終えてお椀をお膳の上に置いた静姫が秀高にこう言った。
「そう…伊助も士分になったのね。」
「ま、形の上でだけどな。…玲、熊千代を預かる。お前も食べてくれ。」
と、秀高は玲から熊千代を預かり、腕の中に抱え込むと、玲からお粥を預かって食べさせ、今度は玲がお膳の上の夜食を取り始めた。
「…あら、律義に食べてるじゃない。」
「そうか?赤子の内はみんなこんなものさ。」
秀高の腕の中で出されたお粥を抵抗することもなく食べる熊千代の姿を見て、静姫が秀高の隣に近づいて熊千代の姿を見惚れるように見つめていた。
「秀高くん、そう言えば今日、美濃から使者が来たんでしょ?」
と、隣で夜食を取っていた玲が、口の中の物を飲み込んだ後にふと思い出し、秀高に美濃からの使者の一件を尋ねた。
「あぁ。何でも友好関係構築を祝い、互いに一回顔を見合わせて話し合いたいと言っているんだ。」
「そうなんだ…義龍さん、何を話したいんだろう?」
と、玲が秀高に尋ねるように聞くと、秀高はそれを聞いて考えた後、熊千代に向いていた顔を玲の方に振り向いてこう言った。
「そうだな…美濃には信隆が逃げ込んでいるという。そこで俺たちとの強固なつながりを示すと同時に、信隆対策を協議したいんじゃないか?」
「そうね。あとは通商関係の詳しい話し合いかしらね。両国との行き交いの詳しい取り決めなんかを話すと思うわ。」
秀高の言葉に続いて、静姫が顔を上げて玲の方を振り向き、意見を言うと、玲はその考えを聞いて納得し、秀高に向かってこう言った。
「そうか…信隆さん、美濃にいるんだね。」
「あぁ。それこそ、伊助の報告じゃ、美濃の動乱を画策しているという。ここで相互の協力関係を確かめれば、きっと信隆の動きを封じ込める一手になるだろう。」
秀高の言葉を聞いた玲は納得すると、手に持っていた汁物をすすり、そのお椀をお膳に置くと秀高にこう言った。
「まだまだ尾張は荒れたままだし…このまま戦が起こらないと良いね。」
「あぁ。それを願うばかりだけどな…」
秀高が玲にそう言うと、熊千代がいきなりぐずり始めた。それを見て慌てた秀高は再び熊千代にお粥を与え、その様子を見ていた玲と静姫、そして徳玲丸も噴き出すように笑い始め、その場を再び和やかな雰囲気が覆ったのだった。




