1558年6月 明暗分かれる
永禄元年(1558年)六月 尾張国鳴海城
「殿、いよいよ明日ですな。」
高秀高と織田信長が面会したその日の夜中、丹下に配置されている織田軍本陣の中で、信長が床几に腰かけていて、その信長に丹羽長秀が話しかけていた。すると信長は軍配を片手にしながらも不敵な笑みを浮かべた。
「あぁ。明日がやつの命日になる。あの男も愚かなものよ。」
信長はそう言うと床几を発ち、本陣の中から鳴海城を見つめるとこう言った。
「わざわざ未来から呼び寄せてやったにもかかわらず、俺の味方になるのを拒み、己の力と自信を頼って無謀な戦いをするなど、これほど愚かなことがあるか?」
「如何にも…」
長秀が信長の言葉を聞いてこう返すと、信長は本陣の外へと出て行こうとした。それを見た長秀が信長に尋ねた。
「どちらに?」
「所用だ。すぐ戻る。」
そう言うと信長は本陣を出ていき、近くの茂みの中へと入っていった。そこからしばらく歩いたところで厠代わりに用を足し始めた。
(…あの男どもを失うのは惜しいが、敵になるのなら生かしておく訳にはいかん。)
信長は用を足しながらこう思っていた。信長にとって、本来自分の味方になるように呼び寄せた者たちを失うのは惜しかったが、大名として敵に回った場合の事を考えれば、粛清もやむなしと考えていたのである。
(ともかく、これで義元が亡くなった今川も当分は動けまいな。今のうちに国内を纏めなおさねばな。)
用を足し終えた時、信長は既に先の先を見据えていた。今川義元が亡くなった今では、尾張国内を纏めなおし、次の一手のための準備を整えておこうと思っていたのだ。その先見性こそ、この織田信長という人間の強みでもあった。
(そしてわしは美濃を抑え、やがては京へと——)
しかしその瞬間、信長の背中に一つの重たい刃物が刺された。
信長がその不意に刺された攻撃を受け、すぐにその刺された方向を振り返ると、その場で信長に脇差を刺していた者の名前を信長が呼んだ。
「お、お前は…蔵人?」
そう、この信長に背中から短刀を突き刺したのは、今は柴田勝家の家中に仕えていた元織田信勝の小姓の津々木蔵人であった。
「…この時を待っていた。信勝様の仇、ここで取る!」
「愚か者!」
そう言うと信長は蔵人を突き飛ばし、咄嗟に太刀を抜いて蔵人を一刀のもとに斬り捨てた。
「くっ…信勝様…」
蔵人は信勝の名を呼んだ後、地面にそのまま力が抜けるように倒れ込んで息絶えた。しかし、蔵人を斬り捨てた信長も、やがて出血が多くなり、その場に座り込んでしまった。
「…ふっ、一番愚かなのは、この俺だったか…」
信長は声を振り絞り、微かな声で皮肉を言うと、その場にごろんと寝転んでしまった。そして虚ろな顔をし、だんだんと視界が定まらなくなってきた中で、信長は仰向けになった。
「姉上…織田家を…奇妙丸を…」
信長はそう言いながら天に向かって手を伸ばしたが、やがて力が抜けて地面にその手を落とした。その時にはすでに、信長の息は絶えていたのだった。
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翌朝、昨日の曇り空が嘘のように、地平線から昇ってきた太陽が鳴海城の城内を明るく照らし始めていた。鳴海城の居間の中では、秀高が、昨夜から正室の玲と静姫の三人と共に、一つの布団の中で寝ていた。
「…秀高、ちょっと良いかな?」
ふと、その静寂を破る様に、襖の向こうから小さな声で秀高に呼びかけてきた。それにいち早く気が付いた秀高は目が覚め、二人を起こさないように布団から出ると、襖の方へと近づいた。
「その声…信頼か?」
「うん。こんな朝早くに悪いけど、伊助が火急の要件を伝えに来たよ。」
秀高は信頼の言葉を聞くと、襖を開けて信頼と、信頼の近くにいた伊助の姿を見た。そこで頭を下げていた伊助は、頭を上げてその用件を述べた。
「申し上げます。昨夜来から、織田軍の陣中に慌ただしい動きが見受けられます。」
「慌ただしい動き?」
秀高が伊助に聞き返すと、伊助はそれに応えて言葉を続けた。
「はっ、我が配下の報告によれば、織田軍陣中にて不穏なうわさが流れているとか。曰く、「総大将・織田信長の姿が、どこにも見当たらない」と。」
「何?信長の姿が?」
すると、小さな声で会話をしていた様子に気が付き、布団の中の静姫が目を覚まし、姿勢を起こして秀高の方を見た。しかし、伊助はその様子を意に介さず、そのまま話を続けた。
「はっ。更に別の者からの報告によれば、昨夜来から織田軍本陣に織田家重臣がそろい、極秘裏に会談をしておるとか。」
「…どういうことだ?信長が姿を消すなんて…」
秀高が伊助の報告を受けて思案していると、静姫が起きたのに気が付いた玲も目を覚まし、静姫と共に秀高のもとに近づいてきた。
「秀高くん、何があったの?」
「あぁ…実はな——」
と、秀高は起きてきた二人に対し、今までの報告の内容を全て伝えた。
「…信長さんが消えたって、それ本当なの?」
「分からない。俺の予測では、これは俺たちを誘き寄せる罠じゃないかと思うんだが…」
玲の言葉に秀高がこう返すと、その傍で考え込んでいた静姫が秀高たちに向かって意見を述べた。
「いえ、だったら本陣に織田家重臣全てが揃う訳がないわ。もしそれが計略だとしても、各地の部将たちが職務を放って本陣に集まるなんてやりすぎよ。」
「僕もそう思う。恐らく本当に、信長の身に何か起こったのかも…」
静姫の意見に信頼が賛同するように述べると、考え込んでいた秀高は顔を上げて伊助に指示を出した。
「よし、伊助、引き続き情報の収集を頼む。信長の身に何かがあったのなら、逐一連絡をよこしてくれ。」
「ははっ!では!」
伊助はそう言うと、その場から去って情報収集に向かって行った。その伊助の背中を見ていた秀高は、織田家の陣中で一体何が起きたのか?と思っていた。
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「…これはいったいどういうことか!」
その、渦中の織田軍本陣内では、丹羽長秀を中心に、柴田勝家、森可成ら軍勢の部将から、前田利家、佐々成政、河尻秀隆ら信長の親衛隊である母衣衆が、円を描くように集まっていた。
「なぜ…なぜ殿がこのような姿になっておるのだ!」
その中で長秀が、この円の中心に置かれているものを見てそう言った。この円の中心にあるもの、それはまさしく、昨夜まで生きていた、織田信長の亡骸その物であった。信長の亡骸は背中から一突きにされた箇所から血に染められており、信長の死に顔はどこか悔しそうな表情をしていた。
「面目ない。まさか、蔵人がそのような事をするとは…」
「勝家殿、これは知らなかったでは済まされませんぞ!!」
と、下手人が勝家配下の蔵人であることを既に知っていた、母衣衆の一人の蜂屋頼隆が、謝罪した勝家に向かって、凄い剣幕で睨みながら言い放った。
「そうじゃ!勝家殿は蔵人の過去を知っていて家来にしておきながら、蔵人の本心を知らなかった訳がござらん!」
「左様!ここはそれなりのけじめを示してもらわねば、勝家殿のご信頼に関わりますぞ!」
「止めよ!」
頼隆の言葉に続いて、成政と秀隆が勝家をなじる様に避難した時、その避難の言葉を長秀が止めさせた。
「今は一丸となって難局に当たらねばならぬ時、家中で揉め事を起こしてどうする!」
「しかし!」
長秀の言葉に成政が食らいつくと、そこに母衣衆の金森可近が本陣の中に駆け込んできた。
「長秀殿!一大事じゃ!信長様の事が噂で広まり始め、不安に思った将兵が離散を始めておるぞ!」
「何!兵たちが逃げているだと!」
長秀は可近の報告を受けると、今まで優位な立ち位置にあった自身たちが、一転して危機的状況に置かれていることを察した。そして、その空気を見ていた可成が、長秀に語りかけた。
「…如何するのだ?」
「ここでの上位は家老である某でござる。よって皆、ここはこの某の指示に従ってもらう。」
長秀はそう言うと、母衣衆の利家たちに向かってこう言った。
「利家!成政!そなたらは兵たちの動揺を抑え、城方に悟られぬよう、すぐに撤退の支度を整えよ!」
「ははっ!!」
「すぐにでも伝えに回りましょう!」
そう言うと、利家と成政は一同に礼をした後、そのまま本陣から去っていった。
「秀隆と可近は敵の追撃を防ぐべく、構築した逆茂木や馬防柵、櫓に火をつけ、敵の進軍を遅らせよ!」
「しかし、それでは敵に、我らに凶事があったことを知られてしまいます!」
すると、長秀は意見してきた可近に向かってこう言った。
「黙れ!成政らにはああ言ったが、あの高秀高のこと、いずれ凶事を嗅ぎ付けて追撃に出てくるのは必定!そのために少しでも時間を稼ぐ必要がある!急げ!」
「は、ははっ!」
長秀の言葉を受けた可近は、秀隆と共にその場を去っていった。そして長秀は、勝家に向かってこう言った。
「…勝家殿、私は勝家殿を信じておる。故に撤退の際の殿、勝家殿に託したい。」
「ははっ。その任、承った。」
勝家がその命令に承諾すると、長秀は可成に向かってこう言った。
「可成殿はこの事を信隆様に報告してもらいたい。わしと頼隆は殿の亡骸を連れ、先にこの戦場を離脱する!行くぞ!」
「ははっ!」
長秀は頼隆にそう言うと、足軽たちに信長の亡骸を棺に収めさせ、そのままいち早く本陣を後にしていった。その様子を、陣内で見ていた可成は、勝家にこう言った。
「…信長様が亡くなってこれでは、織田家も終わりじゃな。」
「可成殿…!」
勝家が可成の言葉に驚いていると、可成はふっと笑ってこう言った。
「まぁ、今は撤退が最優先じゃ。勝家殿、殿の役目、見事果たされよ?」
可成はそう言うと、勝家の肩を叩いてその場を去っていった。そしてその場に一人残された勝家は、鳴海城の方角を見つめ、自身の決断を迫られていたのだった。