1558年6月 風雲児来たる
永禄元年(1558年)六月 尾張国鳴海城付近
永禄元年六月十四日夜半。鳴海城の北、天白川の川沿いに永楽通宝の旗と織田木瓜の旗が無数に翻っていた。何を隠そう、これこそ織田信長が率いる軍勢、その数一万であった。
「御大将、秀高殿が義元を討ち取ったようにございますな。」
その軍勢の真ん中、馬上に乗って指揮をしている信長に対して木下藤吉郎が声をかけた。
「うむ…さすがは姉上が召喚しただけの男であるな。」
「…風の噂では、義元の後詰に向かっていた今川軍一万は領国へと引き上げたとか。これで東国は荒れましょうな。」
藤吉郎が信長にそう言うと、信長は藤吉郎から手渡された瓢箪の水筒を受け取ると、その中の水を飲み水筒を藤吉郎へと返した。
「もし奴がしくじれば、この俺が城攻めをしている最中の義元の脇腹を突き、そのまま討ち取ってやったのだが、これで予定は変わったな。」
信長はそう言って指示棒を肩に当てて鳴海城の方角を見つめた。信長にしてみれば、義元に対抗するための一時的な休戦は、義元死後には自然消滅するものと考えていた。そしてそれと同時に、信長の中には、僅か数千の兵で今川勢四万弱を討ち取った秀高の才能に大きな警戒心を抱いていた。
「ここにおいて、秀高を屈服させるには、今しかない。その為の出兵だ。」
「御大将、ところでこの戦には、姉上殿が御参陣なされておりませんが…」
藤吉郎は信長に対し、この戦に出陣して来ていない信長の庶姉・織田信隆の事を尋ねた。
「あぁ、姉上は品野城の攻略に向かっておる。義元亡き今、今川の勢力を尾張から駆逐する好機だ。姉上ならば心配いらん。」
信長が藤吉郎にこう話していると、そこに丹羽長秀が馬を操って信長に近づいてきた。
「殿、左翼の森可成勢、右翼の柴田勝家勢、共に準備が整いました。
「よし、これより鳴海を包囲する。本陣は丹下におき、城の周囲を蟻の這い出る隙間もなく囲め。」
信長が長秀に下知を下すと、長秀はそれを受け入れて全軍に進軍を指示した。これを聞いた信長軍一万はその夜のうちに鳴海城を完全に包囲。城からの迎撃の備えて逆茂木や馬防柵、更には櫓を備えるなど完全な陣地を構築してしまったのだった。
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「…しまった、謀られた…」
祝宴のさなか、信長軍襲来の報に接した秀高は、酔いがさめたように二層の天守に上り、二階の高欄に出て周囲を見た時には、既に信長軍によって四方は包囲され、城からの攻撃に備えて陣地を構築している最中であった。
「ここまで接近されるとは、見張りは何やってたんだ!」
「いや、敵はこの夜半に乗じて近づいてきた。見張りが目を凝らしても、そう簡単に気づけなかっただろうね。」
秀高に続いて同じく高欄に出て様子を窺った大高義秀が怒るようにこう言うと、その後にやって来た小高信頼がこう意見した。するとその後に来て外を見た三浦継意が軍目付の滝川一益に尋ねた。
「これ、この城にいるのはどれほど居るか?」
「はっ、既にこの城にいた兵は戦を終えてそれぞれの土地に返しており、ここにいるのは城兵千二百ばかりでございます…」
その報告を聞いた継意はため息をつくと、城の外に広がる軍勢を目視で数えると、秀高に向かってこう意見した。
「殿、おそらく信長の事、一万もの軍勢を率いて来ているならば、生半可な攻撃は通じますまいな。」
「…それなら、夜半に乗じての奇襲なんて、全くの無意味でしょうね。」
継意の言葉を聞いた上で、同じく天守に上った静姫が言葉を発すると、それに義秀がかみついた。
「何を言いやがる!奇襲が通じないなんて誰が決めた!やってみなけりゃわからねぇじゃねぇか!」
「…正気なの?敵はこっちの十倍。それに少数で奇襲に行くなんて自殺行為よ。…中島砦での重俊たちの事を忘れたの?」
静姫の言葉を聞いた義秀は、その内容を聞いて反論する言葉を失い、その場で黙り込んでしまった。最早その高欄に上る秀高配下の諸将たちは、一瞬で戦勝を喜ぶ雰囲気から絶望に叩き落とされたように、その外の光景を見つめていた。
「…とりあえずは残った兵に籠城の手配をさせねばなりますまいな。一益、城兵たちに戦の支度をさせるように告げよ。」
「ははっ!」
継意の指示を聞いた一益は、すぐさま城兵たちに臨戦態勢を取るように命令するため、天守の階段を急いで下りていった。しかしその中で秀高は一人、後ろを振り向いて天守の中に入ってしまった。
秀高にはすでに、この不意を突かれた戦いは負けが決まっていると思っていた。たとえここで臨戦態勢を取り、信長の軍勢にあらがっても、所詮は焼け石に水だと考えていたのである。それは決して卑下しているわけではなく、今川義元との死闘を終えた直後で、意気軒高な織田勢を迎え撃つのは、今の自分の軍勢の状況では到底無理があると思っていたからであった。
こう思っていた秀高は天守の中に入ると、そこである物が目に留まった。それは桶狭間の戦い後、天守に安置していた義元の首桶であった。秀高はそれが目に留まると、不思議とその首桶に収められている義元の声が聞こえたような気がした。
この義元を討ち取っておいて、まさかここで諦めるつもりか?と。
その声は秀高の気の迷いによって聞こえた物なのか、それとも義元の首の怨念が招いた不可思議な現象なのかは分からない。だが一つだけ言えることは、この言葉を聞いた秀高は信長に降伏することなく、決して何があろうと諦めない心を最後まで持つという意思を、しっかりと心の中に決めたという事であった。
「殿!」
と、その秀高を呼んだのは継意であった。秀高がその声に反応して再び高欄に出ると、その欄干に一本の鏑矢が刺さっていて、その矢には矢文が括り付けられていた。
「これは…矢文?」
秀高はその鏑矢を欄干から抜くと、それに括り付けられていた矢文を取り、それを開いて内容を一読した。その差出人というのは、他でもない、織田信長であった。
【高秀高へ、明日の正午、鳴海城大手門前で話がしたい。刀を持たず、軍勢を率いずに出てくるがいい。 織田上総介信長】
「信長が、明日俺と話がしたいと言っている。」
その矢文の内容を読み、秀高がその場にいる一同にそう言うと、それを聞いた玲が秀高を諫めた。
「そんな、危険だよ!これが信長さんの計略だったら…」
「玲の言う通りよ。これは余りにも危険すぎるわ。」
玲に続いて華も秀高に反対意見を述べると、秀高はそれを聞いた上で三浦継高にこう言った。
「…継高、お前は明日、俺の護衛に付け。」
「なんと、某を?」
その突然の事を聞いた一同は驚いた。罠かもしれないこの誘いに乗った秀高に、とてつもない不安を抱いたからである。
「殿!それは余りにも危険すぎますぞ!」
「そうだ!お前の身に何かあったらどうする!」
義秀と継意が秀高に諫言する様に叫ぶと、秀高はそれを制して信頼にこう告げた。
「信頼、お前は明日大手門そばの櫓に上り、敵に不穏な動きがあったらすぐに法螺貝を吹け。そうなった時はすぐに城内に戻る。」
「…分かった。」
信頼が渋々その指示を受けたのを見た秀高は、次いで義秀に向かってこう言った。
「義秀、お前は大手門そばの板塀に鉄砲足軽を潜ませ、何かあった時は鉄砲の銃口を信長に向けろ。」
「馬鹿なことを言うな!もしそれでお前が討たれたらどうするつもりだ!」
義秀が秀高にこう反論すると、秀高はここで継意ら一同にこう言う。
「みんな聞いてくれ。あの信長が軍勢を包囲しておきながら、城攻めをせずに話し合おうと言ってきたその魂胆…俺は間違いなく、信長は俺たちの力を欲していて、圧倒的な力を見せつけて俺を降伏に引きずり込もうとしている。」
「なんと…」
その秀高の言葉を聞いた継意は恐れ入り、静姫らもその内容を固唾を飲んで聞いていた。
「…だが、俺は決してあいつに屈しはしない。俺は今回の休戦を破っての行動、そして俺のあいつへの不信をぶつけ、信長がもし降伏の言葉を出してくれば、その申し出を断ろうと思う。」
その言葉を聞いた一同は考え込んだ。義秀たち秀高を昔から知っている面々は秀高の決意に賛同していたが、家臣の中には未だ覚悟を決め切れていない者が見受けられた。
「それに俺たちは、あの今川義元を討ち取った。信長は結局、俺とその首を欲しているんだ。その首桶を渡してまで、俺は生き恥をさらしたいとは思わない。」
秀高がそう言って天守の中の首桶を指さすと、諸将はそれを見て気持ちが改まった。今川義元との決戦で死ぬ覚悟して戦い、そして命を落とした者達の事を考えれば、ここで膝を屈して降伏できないという秀高の意見を尊重しようと思ったのだ。
「…もし、降伏を断ってその場で俺が死んだら、その時は義秀、さっきの鉄砲で俺ごと討て。そうなった時は、皆もうこの世にはいられなくなるがな。」
「はっはっは、何を申されるか。」
その秀高の言葉を聞いて、笑って声を上げたのは、明日秀高の護衛を頼まれた継高であった。
「兄の仇を討ち、この鳴海の者たちの希望となった殿が、明日降伏を拒んで討たれようとした時は、この拙者がいの一番に、信長の心臓を貫いて見せましょうぞ。」
「継高…」
秀高が継高の覚悟を聞いて声をかけると、今まで目を閉じていた継意も目を開いて秀高にこう言った。
「殿、倅の申す通りじゃ。殿はあの今川義元を討ち取った英傑。もし殿の申された通りのことになれば、我らこぞって殿のために戦い、華々しく散りましょうぞ。」
継意の言葉と同時に、その場にいた諸将が秀高の前に跪き、頭を下げて服従の意を示した。それは義秀や信頼、玲たち三姉妹から、継意父子に静姫、更には山内高豊や安西高景に至るまでみんな賛同していた。
「…そうか、みんなありがとう。だが、できれば明日は生き延びたいと思うがな。」
「あぁ。もしも最悪の事態になったら、俺たちは最期の一兵まで戦うぜ。」
義秀が秀高の言葉を聞いた上でこう言うと、静姫が秀高にこう言った。
「そうね。あの義元を討ったあんたが、信長の前に跪く必要ないわ。意地を通して、信長の鼻を明かしてやりなさい。」
静姫の言葉を聞いた秀高は、諸将たちを天守閣の中に誘い、明日の事を祈る様に義元の首桶の前で手を合わせた。それは神頼みというよりは、明日の不測の事態を避けたい一心の行動であった。
そして翌日の正午、秀高は継高を連れ、大手門から信長と会うために出ていったのである。