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1575年6月 東国征伐<関東side> 国府台に相対す



文禄三年(1575年)六月 下総国(しもうさのくに)船橋(ふなばし)




 文禄(ぶんろく)三年六月二十日。武蔵国(むさしのくに)江戸城(えどじょう)にて太田虎資(おおたとらすけ)による一連の反乱が終結した同じ日、武蔵の隣国である下総は船橋に軍勢が布陣していた。この軍勢こそ隠居である父・里見義堯(さとみよしたか)を振り切って出陣を強行した里見義弘(さとみよしひろ)率いる四千人と義弘に呼応した千葉胤富(ちばたねとみ)率いる四千人合わせて八千人である。この軍勢は船橋にて下総北部から来る結城晴朝(ゆうきはるとも)が軍勢四千との合流の為に待機していたがこの日の午後、義弘の元に江戸城での騒動の顛末が退去した敗残兵によってもたらされた。


「何、江戸城が!?」


「はっ。太田虎資殿の離反によって太田資正(おおたすけまさ)太田資房(おおたすけふさ)父子が謀殺され、裏切った虎資殿も幕府軍によって処断されたとの事にございまする。」


 船橋の村落近くに野営の陣地を敷いていた里見軍の本陣にて、義弘は陣幕の中にて江戸城の顛末を重臣・正木信茂(まさきのぶしげ)から聞いていた。その報告に接した同じ陣幕の中にいる胤富が床几(しょうぎ)に腰掛けたまま放心状態になっている隣で、義弘は単身床几から立ち上がってから言葉を発した。


「信じられぬ…虎資殿が資正殿を討っただと…?」


「既に江戸城を抑えた幕府軍はそこから河越城(かわごえじょう)岩付城(いわつきじょう)に進軍。江戸城には大高義秀(だいこうよしひで)率いる本軍が入城するべく進軍中との事にございまする。」


「殿!江戸城が敵の手に渡ったのならこれ以上の進軍は危険にございまする!」


 信茂の言葉の後に重臣の秋元義久(あきもとよしひさ)が義弘に向けて進軍を思い直す様諫言すると、その言葉を聞いた義弘は義久の方を振り向いて怒鳴りつけた。


「何を言うか義久!ここは一気に江戸城近くまで進んで大高義秀の首を取り、関東諸大名の士気を回復させるべきぞ!」


「されど義弘殿、聞けばこれから来る結城殿も四千程度の兵しかおらぬと事。対する敵勢は義秀本隊だけでも一万二千はおりまする。とても太刀打ちできませぬぞ?」


 勇ましい発言をした義弘に向けて胤富が懸念を示した通り、既に江戸城には義秀が高浦秀吉(たかうらひでよし)率いる軍勢と共に進軍をしている最中であり、その軍勢合わせて二万二千の大軍であった。しかし義弘はその懸念を聞いてもなお、闘争心が衰えていない様子を言葉にして発した。


「千葉殿!敵が既に江戸まで抑えた以上はここで尻尾を撒いて逃げるわけにもいきませぬ。我らはこのまま進軍して市川(いちかわ)近くの国府台城(こうのだいじょう)に布陣いたす。」


「国府台城、ですか。」


 下総国・国府台城。太日川(ふといがわ)東岸の丘陵地帯にあるこの城は、今を(さかのぼ)る事天文(てんぶん)七年(1538年)、小弓公方(おゆみくぼう)足利義明(あしかがよしあき)の軍勢と北条氏綱(ほうじょううじつな)の軍勢が戦った古戦場でもあった。この城は下総国への玄関口とも言うべき戦略の要衝でもあるが北条家滅亡後にその戦略性は低下して現在は廃城となっていた。義弘はこの国府台城への布陣を胤富に提言し、言葉を続けて布陣の利点を語った。


「国府台城は今は廃城となっておるが、柵を構えて防備を固めれば城として今も機能する。ここに我が軍勢と千葉勢、そして結城勢と共に布陣すればさしもの幕府軍とて手は出せまい!」


「されど、国府台城は規模が小さい小城にて、布陣をするなら川を越えた葛西城(かさいじょう)に布陣した方が今後の策も立てやすくなりまする!」


「いや、国府台城だ!」


 と、義弘の策に反論を提示した信茂に向けて義弘は自論を押し付けるように怒鳴り、陣幕の中にいる味方の諸将に向けて改めて命じた。


「良いか!我が軍は明日早朝より国府台城に本陣を置く!各々明日の出陣に備えよ!!」


「ははっ!!」


「…。」


 こうして義弘の判断によって里見・千葉連合軍は国府台城への布陣を決定。反論した信茂は自身の献策が容れられなかった事に僅かな不安を胸中に抱いたのであった。翌二十一日、里見・千葉連合軍は船橋から市川近くの国府台城跡に着陣。廃城となった国府台城の改修を行うと共に周辺に砦軍の構築に当たった。即ち国府台城から北にある矢切(やぎり)の渡しから来る敵に備えるため、国府台城の北側にある栗山(くりやま)栗山砦(くりやまとりで)を、そして南側に市川砦(いちかわとりで)を築いて防備体制を整えると、古河(こが)方面から南下してくる結城勢との合流を待つ構えを見せたのである。




————————————————————————




 一方、江戸城を制圧した幕府軍は城を接収した北条氏規(ほうじょううじのり)三浦高意(みうらたかおき)両軍を北上させた。北条軍は河越、三浦軍は岩付と扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)の重要拠点に対する攻略を行わせる(かたわ)ら、関東方面の攻略を担当する義秀は長野藤定(ながのふじさだ)の軍勢に小机城に留まらせて相模(さがみ)からの兵站確保任務を任せると、自身は秀吉の軍勢と共に二十一日の午前中に江戸城への入城を完了した。そんな義秀の元に、下総方面から里見・千葉連合軍の動向を知らせる早馬が駆け込んできたのはそれから間もなくの事であった。


「なるほど、里見が国府台城に…。」


「あぁ。里見は江戸から逃げた太田の敗残兵を吸収し、尚且つそこで結城の軍勢と合流するのを待っているみてぇだ。」


 江戸城の本丸館にある広間にて義秀は秀吉と、敵である里見・千葉連合軍の動静について言葉を交わした。すると義秀はその場にいる正室・(はな)に向けて尋ねた。


「華、どうやら里見と一戦やることになりそうだぜ。」


「そうね…でも、なんで里見は葛西城ではなく国府台城に陣を敷いたのかしら?」


 義秀の言葉を耳にしつつ華は広間に置かれた机の上に広がる絵図を見つめながら、里見が取った戦略について疑問を呈した。するとその言葉を聞いて返答したのは、義秀と会話を交わしていた秀吉であった。


「華様、確かに葛西城は国府台城より規模は大きく、その分籠城戦を容易に行えまする。されど葛西城は周囲を川に囲まれた中洲にあり、一方の国府台城は陸地続きにございまする。もし、里見の水軍衆が出陣していたのであれば、海や川から水軍の援護を受けられる葛西城に陣を敷くのが妥当にございましょう。」


「されど今現在、江戸湾(えどわん)に里見の水軍衆は一艘も姿を見せていない。となれば孤立する恐れのある葛西城より国府台城に布陣した方が、里見としては結城との合流も果たせる故に有利だと判断したと思いまする。」


 秀吉に続けて弟の高浦秀長(たかうらひでなが)が兄同様に里見軍の戦術を予測すると、それを聞いた義秀家臣の桑山重晴(くわやましげはる)は主君の義秀に向けて策を尋ねた。


「殿、では我らは如何致すので?」


「決まってるだろう。俺たちはこの葛西城に進む。秀吉は小岩(こいわ)の辺りまで進んで俺からの指示を待ってくれ。」


「承知致した!」


 義秀の指示を受けた秀吉は意気込むような返事を返した後、弟の秀長と共にいち早く広間から去って行った。それを見送った義秀はその場にいた世田谷(せたがや)城主の吉良氏朝(きらうじとも)の方を振り向いて命令を伝えた。


「氏朝、俺が戦をしている間は江戸城をお前に任せる。もし万が一何かあった時には早馬で伝えるんだぞ?」


「ははっ、江戸城の事はこの氏朝にお任せくださいませ。」


 ここに義秀は里見軍の布陣に呼応する様に軍勢を東へと向かわせた。江戸城には氏朝の吉良勢二千人余りが守備に就いて義秀本隊一万二千は葛西城に、高浦勢一万は中川(なかがわ)を渡河して小岩の地に陣を敷いた。その後、二十一日の夕刻には結城晴朝勢四千人が国府台城付近の相模台(さがみだい)に着陣。後の世に「第二次国府台合戦だいにじこうのだいかっせん」として知られる里見・千葉・結城連合軍対大高・高浦の幕府軍、双方の合戦が始まろうとしていたのである…。





次回以降の掲載は、12月28日以降を予定しております。

ご了承ください。

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