1575年6月 東国征伐<関東side> 里見家の決断
文禄三年(1575年)六月 上総国久留里城
文禄三年六月十七日。上杉輝虎の首級が高秀高の元に届けられたころ、関東は房総半島に根を張る里見家の本拠・久留里城にて一つの激論が交わされていた。その発生元となっていたのは当主の里見義弘であり、義弘は久留里城本丸館にて相模から落ち延びて来た正木弘季・正木憲時父子を引見して詰問していた。
「弘季、憲時!よくも臆面もなく逃げ延びてきたものよ!」
「…面目次第もありませぬ。」
この本丸館の広間の中に広がる空気は、義弘の怒号によって重苦しい物になっていた。この怒号を脇に控えていた正木信茂や正木時忠ら正木一門や秋元義久・岡本頼元といった里見家重臣、そして病身を押して広間に出座している隠居の里見義堯は肘掛けにもたれかかりながら黙して聞いていた。そんな空気を漂わせている義弘は目の前にいる弘季父子に向けてなおも詰問の言葉を続けた。
「貴様ら、公方様(足利藤氏)の家臣でありながら公方様の死に狼狽えて敵と交渉したのみならず、領地や家名を捨てて上総に逃げ延びてくるなど以ての外であろう!!何故踏み止まって戦おうとせんのだ!?」
「…畏れながら、あの状況で戦えなど無理という物にございまする。」
「何っ!?」
この弘季の反論に、上座にいた義弘は膝をついて立ち上がり反論を返してきた弘季に向けて怒号を返した。
「貴様、武士の誇りを捨てたのか!?土豪や豪族が従わないから何だというのだ!?攻めてきた敵に立ち向かってこそ面目が立つというものぞ!」
「されど殿、殿の領地とて他人事とは申せませんぞ。土岐為頼をはじめ、酒井敏房・酒井玄治の両酒井、庁南武田などの国衆共が殿の命令に従わぬではありませぬか!」
「憲時!口が過ぎようぞ!!」
憲時の反論に鋭い剣幕を見せた義弘の表情を察したのか父である弘季が子を叱りつけるように怒号を発すると、その憲時の言葉を受けた義弘は脇にいる父・義堯の視線を受けながらもそっぽを向いた国衆たちに対する恨み言を吐いた。
「奴らも奴らだ!土岐も酒井も武田も、皆里見家の恩顧を受けてきた国衆ではないか!それを朝敵指名ごときでそっぽを向くなど不忠の極みであろう!」
「…義弘。そこまでにせよ。」
「父上!父上は悔しくはないのですか!?土岐は母上の郷にございまするぞ!?」
父・義堯に向けて義弘が母の実家である土岐の裏切りをなじると、義堯は肘掛けにもたれかかりながら時々息を吐きつつ、声を振り絞って義弘に言葉を返した。
「…土岐為頼殿からは、里見を裏切る事を神妙に詫びる書状を貰い受けておる。土気・東金の両酒井も、それに武田からも同様の書状を貰い受けておる。皆、己の領地を守るために取った決断なのじゃ。」
「だからと言って離反を許せば、それこそ示しがつきませぬ!!」
義堯の言葉を受けて義弘が更に声を荒げて反論すると、耳鳴りがするほどの反論を聞いた義堯は、すこし怪訝そうな表情をしながらも義弘に向けて諭すような言葉をかけた。
「聞くが良い義弘。秀高が行った朝敵指名は決して侮れぬ。現に我が領土のみならず、千葉や結城といった者共の領地でも、国衆共がそっぽを向き始めておるのだぞ。これでどう戦をするというのじゃ?」
「そのような弱音、聞きとうありませぬ!!」
義堯の言葉を弱音だと断じた義弘はぴしゃりと言い切ると、すぐさま自身の座る茣蓙から立ち上がってその場にいる重臣たちに向けてこう宣言した。
「良いか!我ら里見は新田源氏の流れをくむ名門である!何処の馬の骨とも知れぬ奴に屈するほど落ちぶれてはおらん!!直ちに里見領内の兵を集めるのだ!!」
「殿!?まさか幕府軍に戦を仕掛けるとでも!?」
その義弘の宣言に脇に控えていた時忠が驚いた声を上げると、その声を耳にした義弘は時忠の方を振り向いてから言葉を続けた。
「そのまさかよ!奴らは武蔵に攻め込もうとしておる!我らは軍勢を整え次第、陸路江戸へと向かう!」
「江戸!?」
義弘が告げた進軍先を聞いて、驚きの余り重臣の信茂が声を上げるとその声を聞いた義弘は、自身の脇で父の義堯がしかめっ面をしている隣で江戸へと軍を進める意図を語った。
「敵が武蔵に攻め込んだとなれば、真っ先に向かうは江戸城とその城下にある湊ぞ!扇谷上杉の憲勝殿と連携してこれを迎え撃てば勝つ事も容易い!いざ、者ども出陣じゃ!!」
「と、殿ぉーっ!!」
勇ましい言葉を発した義弘が先陣切って広間から外へと出ようとしたその時、広間に里見家臣で時忠の嫡子でもある正木時通が駆け込んでくるや、義弘をはじめその場にいる者達を青ざめさせる報告を告げた。
「去る六月十日、関東管領・上杉輝虎様、信州・川中島にて討死しました!」
「…何?」
その余りにも実感のない報告を受けて義弘は呆気にとられた言葉を発した。そしてその報告を耳にした広間の中の重臣たちがざわざわとどよめきだした中で、義弘に向けて時通は報告の続きを述べた。
「先ほど千葉胤富殿からの使者が参り、その使者が申すに曰く輝虎さま率いる軍勢は川中島にて敵の軍勢に大敗!輝虎さまはじめ多くの重臣を失い、今は上杉景勝殿の下、命からがら越後へ逃げおおせたとの事!!」
「そんな…関東管領殿が負けるなど…。」
時通から告げられた天地がひっくり返るほどの報告を受け、広間の中の空気は異質なものになり始めていた。しかしその中でただ一人、病身を押してこの広間に姿を見せていた隠居の義堯は、輝虎の死を耳にするや活気に満ちた表情を段々と取り戻し、その場で立ち尽くしている義弘に向けて言葉をかけた。
「…どうするつもりか義弘。管領殿も、公方殿も死してなお幕府と戦うというのか?」
「それでも、我らは坂東武士にござる!」
「それでどうにかなる物ではないぞ!!」
義弘の反論を受けて義堯がこう叫んだ後、義堯はゴホゴホと咳き込んだ後に苦悶の表情を見せながら義弘に向けて言葉を返した。
「貴様も当主ならば、この状況がどういうものか分かるであろう!?ここは誇りを捨ててでも膝を屈するべきぞ!!」
「嫌にございまする!!」
義堯の言葉に義弘が一言で反論するや、踵を返して広間にいる重臣たちの方を振り返るや、自身の決意を改めて表明した。
「例えこの家が滅ぼうとも、坂東武士の誇りを成り上がり者共に見せつけてくれる!!出陣じゃ!!陣触れを発せよ!!」
「は、ははっ!!」
義弘が出陣を命じる言葉を投げかけてから足音を立てて広間を去って行き、その義弘の後を追いかけるように返事を返した信茂、並びに義久や頼元、時通ら里見家臣たちが続々と広間を後にしていった。そして去って行った広間にポツンと残った義堯は、子の行動に天を仰いで悲観的な思考を巡らせると、その場にただ一人残った重臣の時忠に向けて一言、命令を出した。
「時忠。この事大高義秀殿に伝えてやれ。それと万が一に備え、里見の水軍衆は一艘たりとも湊から出すな。」
「はっ、畏まってございまする。」
その命を受けた時忠は会釈をした後に単身広間から退出し、その広間に残った義堯は再び肘掛けにもたれかかって事の成り行きを窺うそぶりを見せた。ここに里見軍は二日後の十九日に久留里城を出陣。しかし出陣した義弘の元に集まったのは里見家直轄の武士や農兵合わせて四千余りであり、下総の千葉勢も重臣の原親幹・高城胤辰らが主家の参陣要請に応じなかったためにその軍勢は東国戦役の頃より少ない四千しか集められず、ここに里見・千葉合わせて八千余の軍勢が江戸川方面にむけて進軍していったのである。




