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1575年6月 東国征伐<甲信路side> 海津・寺尾の戦い 後編<一>



文禄三年(1575年)六月 信濃国(しなののくに)海津(かいづ)城外




 文禄(ぶんろく)三年六月十日午前、朝日が天高く昇っている川中島(かわなかじま)に近い海津城外にて繰り広げられている高輝高(こうのてるたか)上杉輝虎(うえすぎてるとら)両軍の激戦は新たな展開を迎えた。車懸(くるまがか)りの陣形を敷く上杉勢は先陣・第二陣を幕府軍の迎撃の前に失い、これを受けた総大将の輝虎は幕府軍後方に位置する諏訪勝頼(すわかつより)隊への攻撃を命令した。この命を受け上杉勢第三陣を務める神余親綱(かなまりちかつな)本庄秀綱(ほんじょうひでつな)、そして輝虎の養子である上杉景勝(うえすぎかげかつ)の三部隊合わせて一万余りの軍勢が迂回して諏訪隊三千に怒涛の如き突撃を敢行したのである。


「行けぇーっ!一気に諏訪勢を打ち破れ!」


 第三陣の先頭を切って突撃する神余親綱隊の中で、馬上の上で太刀を引っ提げている親綱が背後に続いてくる味方に向けて督戦する言葉を投げかけた。この言葉に応じるかのように味方の将兵は親綱の後を続いて突進。目の前の諏訪勢へと流れ込んだ。これら上杉勢第三陣による諏訪勢への攻勢は、すぐさま幕府軍中央に陣取る輝高の元に届けられた。


「何、敵陣が諏訪隊に流れ込んだ?」


「はっ、諏訪隊は我ら幕府軍の各隊と比べて兵も少のうございまする。突破されるのも時間の問題かと!」


 輝高に向けて輝高付きの側近である土方高久(ひじかたたかひさ)が諏訪隊の苦戦を言葉にするや、輝高はこの言葉を受けて側近くにいた側近の岡田重善(おかだしげよし)に矢継ぎ早の命令を下した。


「重善、すぐさま高則(たかのり)半兵衛(はんべえ)に命じて本隊から兵を割き、諏訪隊への後詰に向かわせよ。」


「はっ!その旨しかと伝えまする!」


 輝高からの命を受けた重善が素早く返事を返してその場から去って行くと、それを見送った後に輝高は報告を述べて来た高久に向けてあることを尋ねた。


「高久、千曲川(ちくまがわ)対岸に布陣する各隊に早馬を向かわせたか?」


「はっ、既に早馬を発しておりまする。後しばらく持ち堪えることが出来れば、川の向こうより織田(おだ)隊と浅井(あざい)隊が渡河して参りましょう。」


 この海津城外にて戦が始まってすぐに、輝高は密かに早馬を千曲川の向こうにいる味方諸隊へと派遣し、援軍を乞う旨を伝えてさせた。それに応じた織田信澄(おだのぶずみ)浅井高政(あざいたかまさ)の両隊はそれぞれが布陣していた広田城(ひろたじょう)大堀砦(おおぼりとりで)に守兵を残し、合わせて二万の軍勢がこの頃既に出陣して千曲川の渡河を始めていたのである。


「よし、ならば味方の諸隊に伝令を。千曲川の向こうより味方の軍勢が渡河を終え次第、上杉勢に向けて全軍攻勢を仕掛ける、と。」


「承知!」


 この輝高の考えはすぐさま高久らによって味方の各隊へ伝えられた。同時に輝高本隊の実戦指揮を請け負う深川高則(ふかがわたかのり)は自らの弟である深川助松高晴ふかがわすけまつたかはるや深川家臣の狩野三蔵則吉かのうさんぞうのりよしらに本隊の兵四千を預け、猛攻を受けている諏訪勢への救援へと向かわせた。その目下の激戦地となっている諏訪勢では、当主勝頼や付き従う諏訪家臣たちが奮戦していたが、一万対三千では旗色の悪さは明白であった。


「申し上げます!知久頼氏(ちくよりうじ)殿討死!下条信氏(しもじょうのぶうじ)殿討死!」


 その激戦地の真っただ中で采配を揮う勝頼の元に、諏訪家の侍大将が味方の討死の報を告げた。これこそ劣勢を如実に示す何よりの証拠であり、馬上の勝頼がその報告に苦虫を噛み潰したような表情を見せていると、その勝頼の元に同じく諏訪家臣の秋山虎繁(あきやまとらしげ)が馬を近づけて当主の勝頼に向けて進言した。


「殿!ここは旗色が悪うございまする!はや退き陣の合図を!」


「何を申すか!この戦で憎き輝虎の首を上げる好機なるぞ!?そのような弱気で何とする!?」


 虎繁の進言に勝頼が怒気を込めて反論。この言葉を受けた虎繁はなおも言葉を挟もうとしたが、その時また別の侍大将が駆け込んできて勝頼に報告した。


「申し上げます!幕府軍より後詰が参りました!輝高さまの本隊並びに、小高信頼(しょうこうのぶより)殿の部隊より塙直政(ばんなおまさ)殿の手勢合わせて七千が合力して戦うと申しておりまする!」


「何、幕府軍が!?」


 その早馬の報告を耳にして勝頼より先に虎繁が反応すると、報告を黙して受けた勝頼はニヤリとほくそ笑んで天の助けと言わんばかりに喜んだ。


「さすがは輝高殿。我らが窮地を見逃さぬと信じておったぞ!良いか、息を吹き返して敵の攻勢を跳ね除けよ!!」


「おぉーっ!!」


 この勝頼の発破を受けるや、それまで旗色を悪くしていた諏訪勢はまるで活気が満ち満ちとするばかりに息を吹き返した。事実それまで優勢に戦いを進めていた上杉勢第三陣は、幕府軍の後詰も相まって逆に旗色を悪くさせていったのである。この状況を先陣切って戦っていた上杉配下の武将たちが色めき立たない訳が無かった。


「ええい、怯むな!諏訪勝頼の首を取れば諏訪勢は瓦解する!諏訪勝頼の首を取れぇ!」


 第三陣の先陣として諏訪勢に攻め込んだ親綱もまた、戦況の逆転を肌で感じ取りながらも味方の崩壊を食い止めるように呼び掛けていた。しかしその空気間の変化は武将たちよりその配下でもある足軽たちの方が敏感に感じ取り、次第にそれまで戦う意欲を見せていた神余勢の足軽たちは徐々に浮足立ち始めた。その隙を見逃さないかのように後詰に入った幕府軍、そして救援を受けた諏訪勢の将兵が次々と上杉勢の足軽たちを討ち取っていった。


「そこに見えるは名だたる将と見える!」


「下郎が!わしを上杉家臣、神余親綱と知っての事か!!」


 その激戦の最中、自らも太刀を振るって戦う親綱の前に現れた一騎の騎馬武者からの呼びかけに親綱が大喝を浴びせんばかりに反応した。親綱に向けて声をかけたのは深川家臣の大原兵庫則行おおはらひょうごのりゆきであり、則行は自身に向けて怒鳴りつけてきた親綱が太刀を片手に攻め寄せてくると、得物の槍で太刀を受け止めて一合、二合と打ち合うや、則行は素早い所作で槍の石突(いしづき)を用いて親綱の胴を突くや、たじろいだ親綱に向けて素早く槍を返して脇腹に切っ先を突き刺した。


「ぐふっ…」


「神余親綱、大原兵庫が討ち取ったり!」


 呻き声を上げてゆっくりと落馬した親綱を見た後に、則行は味方に向けて名乗りを上げた。この名乗りを受けるや神余勢の足軽たちは大将の討死に戦意を喪失し、戦いを放棄して戦場からの離脱を各々開始したのである。


「慌てるでない!皆、武器を取って戦え!」


 神余勢の後に続いて突撃を敢行していた本庄勢もまた、逃げてくる神余勢の足軽たちによって陣形を乱されていた。その中で果敢に秀綱が馬上から督戦を指示するが、逃げてくる神余勢の足軽たちの数は多く、のみならずその後を追うかのように幕府軍と諏訪勢が怒涛の如く雪崩れ込んでくるや、その突撃の前に本庄勢の足軽たちは次々と討ち取られるばかりか、なおも督戦する秀綱めがけて小高信頼の家臣である松倉右近重信まつくらうこんしげのぶが馬を操って素早く駆け寄り、すれ違いざまに太刀で秀綱を斬り伏せた。


「うわぁぁっ!!」


「敵は瓦解したぞ!このまま押し返せ!!」


 秀綱を瞬時に斬り伏せた重信は背後から続いてくる味方の将兵に向けて突撃を命令。これを受けた後続の幕府軍は諏訪隊とともに上杉景勝の部隊へと攻め掛かったのである。


「…野戦に一日の長がある越後勢が、こうも簡単に敗れるのか。」


「若殿、ここは速やかに下がるべきかと!」


 景勝が崩壊する神余勢や本庄勢の敗残兵や、その背後から土煙を上げて迫ってくる幕府軍の姿を馬上から見つめて(ほぞ)を噛んで悔しがり、これに景勝の近習である樋口兼続(ひぐちかねつぐ)が後退を進言したその時、同じく景勝近習の栗林政頼(くりばやしまさより)が駆け寄って景勝に火急の報告を述べた。


「申し上げます!千曲川の向こうより敵の増援にございまする!このままでは我らはこの地で全滅致しまする!」


「殿、如何なさいますか!?」


 昌より空の火急の報せ…千曲川を渡河し終えた織田・浅井両隊の救援を知った景勝は、方策を尋ねられた兼続の言葉を聞いた後、言葉少なに発言した。


「…ここは任せる。わしは義父上(ちちうえ)の元に向かう。」


「承知いたしました。なれば我らはすぐにでも引けるよう動いておきまする!」


 ここにおいて景勝は義父上である輝虎に撤退を進言する事を決断。家臣の兼続や政頼に命じて素早い撤退を暗に任せて自身は輝虎の元に向かって行った。既にこの時初巳(しょし)の刻(午前九時ごろ)。僅か数刻の合戦で大勢は決したのである。





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