１５７５年６月 東国征伐＜甲信路side＞ 海津・寺尾の戦い 前編＜二＞
文禄三年（１５７５年）六月 信濃国海津城外
朝日が照らし始めた海津城外に法螺貝の音が鳴り響いた。この音は高輝高率いる名古屋幕府軍と藤沢川を挟んで対陣する上杉輝虎の軍勢より発せられたものであり、それこそまさに戦を告げる合図であった。
「良いか、全軍は車懸りの陣を維持しつつ、右方向から敵陣に突っ込め！偃月陣を打ち破り、敵の首を取るのだ！」
「おーっ！！」
法螺貝が自陣に鳴り響いた後、上杉勢の将兵は意気軒高な喊声を上げて輝虎の言葉に応えた。それから間もなくして上杉勢は車懸りの陣形を維持したまま藤沢川を渡河。柿崎祐家・村上国清両隊五千を先陣に敵勢の右翼目掛けて突撃を敢行した。
「行けぇーっ！！亡き父・景家の弔いとせよ！」
祐家は馬上から後に続いてくる配下の足軽たちに呼びかけつつ、自らも槍を構えて敵陣に突っ込んでいた。その柿崎隊や同じ先陣の村上隊が藤沢川を渡河した後に大きく迂回して攻め込む先は、幕府軍の輝高本隊より後方に位置している小高信頼の部隊であった。
「殿！敵先陣がこちらに向かって攻めて参りますぞ！」
「やはり、輝虎の狙いは中央の撃破みたいだね。」
家臣・島左近清興より敵の接近を聞いた信頼は即座に敵の意図を見抜くと、馬上からすぐ近くにいた清興に向けてすぐに指示した。
「左近、敵が迫ってきたのなら、構築させた馬防柵の裏から改良火縄銃や弓矢を射掛けて。」
「承知！」
信頼の下知を聞いた清興はすぐにその場から去って前線へと戻っていった。やがてその信頼隊の前方に柿崎・村上の上杉先陣が土煙を上げて迫って来ると、信頼は馬防柵の裏に隠れて近くにいた鉄砲足軽や弓足軽に向けて下知した。
「良いか、敵を存分に引き付けよ。構えぃ！」
清興の指示と共に足軽たちは馬防柵の隙間から改良火縄銃や弓矢を覗かせ、清興の指示をただひたすらに待った。やがてその馬防柵の目と鼻の距離に柿崎隊の騎馬武者や足軽などが近づいてくると、好機到来と判断した清興は堰を切ったように号令した。
「放てぇい！！」
この清興の命令と同時に馬防柵の裏から迫り来る柿崎・村上両隊に向けて矢玉が放たれた。その矢玉は性格に向かってくる敵兵を打ち抜いて騎馬武者は馬上から、そして徒歩の足軽たちは膝をついて転げ落ちた。それを見た祐家は馬防柵を見据えながら憤った。
「おのれ小癪な！！ひるまず進め！」
しかし、この勇ましい祐家の言葉とは裏腹に、味方の将兵は馬防柵の前にその亡骸を重ねるのみであった。この凄まじい討死を見た祐家はふと自身の目の前にあった一つの馬防柵を見た。見るとその馬防柵の裏には指揮を執っている敵将・左近清興の姿が見え、兜の表に金の前飾りを付けている清興の姿を見た祐家は好機とばかりに叫んだ。
「そこの馬防柵に隠れる卑怯者！我が槍を受けてみよ！」
「むっ、敵か！槍を持て！」
清興の姿を見つけて迫ってくる祐家を馬防柵の裏から確認した清興本人は、側にいた足軽に自身の槍を持ってこさせると、それを受け取るや目の前まで接近にした祐家に馬防柵の隙間から槍を突き出した。これに祐家は咄嗟に清興の槍を避けるや逆に馬上から馬防柵の隙間に槍を突き刺した。するとその槍は清興の近くにいた一人の鉄砲足軽に命中し、その足軽は槍が抜かれた反動でその場に転げ落ちた。
「違ったか！？」
「甘いわっ！！」
槍を引き抜いた祐家が再度馬防柵の隙間に槍を突き出そうとすると、その攻撃を見た清興は隙を見計らって即座に祐家の胴体へと槍を一突きした。祐家は馬上でその槍を受けるや声もなく苦痛の表情を浮かべ、やがて槍が抜かれたと同時にその場に転げ落ちた。
「敵将、討ち取ったり！者ども、気勢を上げよ！！」
「おぉーっ！！」
この祐家の討死によって柿崎隊は算を乱して総崩れを起こした。柿崎隊の崩壊は同じ先陣として後続に続く村上隊に、敗残兵の逃げ込みによる指揮統制の混乱といった大きな悪影響を及ぼした。これによって村上隊は突撃の勢いを削がれることになり、さらに悪い事は重なってそれらをかき分けて突撃した村上隊に、幕府軍からの容赦のない射撃が浴びせられることになり、それによって無数の将兵が屍となって地に伏した。
「申し上げます！！先陣、柿崎祐家様討死！！」
「何っ！？祐家が！？」
祐家討死の報は、柿崎・村上両隊の後に続く第二陣の色部顕長の元に届けられた。この時すでに色部、並びに中条景資の両隊合わせて六千は先陣の後に続いて敵陣への突入を行っていたが、華々しく先陣を切った祐家討死の報を聞き衝撃を受けていた。
「何と言う事だ、親子二代に続いてその命を散らすとは…」
「申し上げますっ！！村上国清殿、清野清秀殿。敵の銃弾を浴びてお討死！！」
味方が前へと進む中で一人馬を止めて衝撃を受けていた顕長の元に、また別の早馬が先陣にいた国清、並びに村上重臣の清秀両名の討死を伝えた。これを聞くや顕長の側にいた弟の色部惣七郎長実が兄・顕長に声をかけた。
「兄上！如何なさいます！？」
「…やむを得ぬ、惣七郎。我らは攻める矛先を変える！」
そういうと顕長は片手に持っていた鞭をある方向に向けた。その先にあったのは輝高本隊から最前面に布陣する新発田長敦の部隊。色部や中条ら揚北衆一揆によって敵味方に分かれたかつての同胞が率いる部隊であった。
「目指すは新発田長敦、本庄繁長らがいる部隊！御実城の為にもあ奴らの首だけは取る！全軍、新発田隊めがけて突っ込むぞ！！」
「おぉーっ！！」
この顕長の命を聞いた色部隊の将兵は、進む進路を北に位置する新発田隊に向けて突撃を敢行。これに中条隊も続いて二陣は新発田隊へと殺到した。この両隊の攻勢を受けた新発田隊は長敦の弟・五十公野治長や繁長らの奮戦、並びに陣頭指揮によって中条・色部両隊の将兵を矢玉で撃ち抜きつつ、時には馬防柵の外に出て敵勢と野戦を繰り広げるなどの柔軟な戦術で色部・中条両隊の攻勢を受け止めていた。
「む、貴様は…！」
「繁長殿…。」
この中条・色部両隊と新発田隊の乱戦のさなか、新発田隊に属する旧上杉家臣の繁長は、馬上からかつての同胞である顕長の姿を見止めた。顕長も繁長の姿を馬上から確認しやや物悲しげな表情を浮かべると、繁長は片手に持っていた得物の打刀を構えて顕長に呼びかけた。
「色部顕長、貴殿に恨みはないがこれも乱世！そっ首頂戴する！」
「…相分かった。ならば勝負！」
自身に馬を駆けて近づいてくる繁長にようやく戦う腹積もりを決めた顕長は、繁長と同じく打刀を片手に繁長に挑みかかった。繁長と顕長は互いに近づくと刀で一合、また一合と打ち合った。この双方の打ち合いの中で繁長は顕長の事を睨み付ける一方、顕長の方はどこか吹っ切れていない様子が垣間見えた。その隙を見抜いたのか繁長は顕長の刀を払うと、一瞬の隙を突いて顕長の脇腹に刀を突き刺した。
「ぐおっ、し、繁長殿…」
「顕長、あの世で勝長殿に詫びてくれ。」
繁長は息絶えようとする顕長にむけ、顕長の父である色部勝長への伝言を託すような言葉をかけた後に脇腹へ突き刺していた刀を抜いた。顕長は刀を脇腹から抜かれたと同時に馬の上にうつ伏せになった。この兄の死を見た長実は、兄を殺した繁長の姿を見るや敵討ちとばかりに躍りかかった。
「繁長！兄の仇！」
「む、惣七郎か！」
顕長同様に若い頃より知っていた長実の姿を見た繁長は、襲い掛かって来た長実の一太刀を華麗に避けるや、手にしていた刀で長実の片腕を器用に斬り飛ばした。
「ぐあぁっ！！」
「惣七郎！命を粗末にするな！疾く下がれぃ！！」
この繁長からの言葉を受けた長実は、斬り落とされた片腕を手綱を持つもう片方の腕抑えつつ、繁長の事を一たび睨み付けた後にその場から去って行った。この顕長の死と長実の敗走という事実はやがて広まって色部隊の残存兵は戦場からの離脱を開始。これを同じ新発田隊と戦っていた景資が見つめると、最早形成の不利を悟ってすぐさま下知した。
「已むを得ん、一旦離脱せよ！再度の突撃に備えるのだ！！」
この景資の下知を受けた中条隊の足軽たちは後退を開始。これを新発田隊は無理に追わず中条隊は辛くも一時的な後退を果すことが出来た。しかし、戦いが始まってから僅か半刻（１時間ほど）の間に上杉勢の先陣と二陣はほぼほぼ崩壊し、前線からの後退を果して本隊の背後に付いた中条隊より報告を受けた輝虎は敵の強さをしみじみと実感した。
「輝高め、やりおるわ。やはり奴もあの秀高の子という訳じゃな。」
「御実城、如何なさいます？」
この報告を側近の吉江景資より受けた輝虎は、すぐさま作戦の変更を景資に向けて返した。
「全軍に下知せよ。これより第三陣を先頭に兵数の少ない後方の諏訪隊に狙いを絞って攻め込む！各隊は海津城からの敵に備えつつ、輝高が後方を食い破れ！」
「しかと、承りました！」
ここに輝虎率いる上杉勢は作戦を変更。車懸りの先頭となった神余親綱・本庄秀綱・そして養子の上杉景勝の第三陣合わせて一万人を、輝高率いる幕府軍最後方に位置する諏訪勝頼の部隊へ攻め掛かるよう命じた。この下知を受けた第三陣の三隊はすぐさま諏訪隊への突撃を開始。龍と若き大樹の戦いは更に熾烈さを増そうしていた…。
