1575年6月 東国征伐<甲信路side> 海津・寺尾の戦い 前編<一>
文禄三年(1575年)六月 信濃国金井山城
文禄三年六月十日早暁。東から日の後光が善光寺平を照らし始めようとしていた頃、まだ漆黒の闇が降りている金井山城の本丸にある物見櫓から上杉輝虎はただ一人、南の方角をじっと見つめていた。薄暗いその視線の先にあったのは高輝高・小高信頼らが拠る海津城。犀川南岸の川中島一帯を制圧した幕府軍の虚を突くべく夜通しでこの城に入城した輝虎は今、敵の度肝を抜いたという達成感に満ち満ちていた。
「…義父上、ここにおられましたか。」
「おう、景勝か。」
物見櫓の中で腕組みをしながら仁王立ちしている輝虎に向けて、養子の上杉景勝が物見櫓に入って来てから声をかけた。景勝の声掛けに輝虎が相槌を返すと、景勝は輝虎の隣に立って同じように真っ直ぐ見つめると、輝虎は日が昇って徐々に明るくなりつつある視線の先を見つめながら呟いた。
「…高輝高め、さぞ我らの動きに度肝を抜いているに違いない。」
「はっ、我が将兵も意気軒高にて、必ずや此度も勝つこと間違いありませぬ。」
「御実城!」
と、輝虎と景勝が仁王立ちで立っている物見櫓の中に上杉重臣の直江信綱が梯子を昇って駆け込むと、真っ直ぐ目の前を見つめている輝虎に向けて報告を述べた。
「先刻より方々に放った物見が、誰一人帰って来ませぬ!」
「物見が?」
輝虎に代わって景勝が信綱に言葉を返したその時、東から徐々に昇り始めた陽の光によって物見櫓から目の前に広がる海津城方面の景色が少しずつ露わになると、その視線の先にあった風景を見た輝虎が表情一つ変えずに呟いた。
「…輝高め、三方ヶ原の頃より成長したか。」
輝虎のその言葉を耳にした景勝や信綱が輝虎の見る視線の先を見つめると、そこには驚きの風景が広がっていた。夜中行軍を行い敵である輝高らの出鼻を挫いたと確信していた輝虎らであったが、今、海津城の前面には籠城しているはずの輝高率いる名古屋幕府軍が偃月陣形を取って整然と布陣していた。
「ま、まさか敵はこちらの動きを見抜いていたと!?」
「…どうりで物見が帰って来ぬわけだ。」
輝虎の脇にいた信綱と景勝が物見櫓の中から海津城方面を見つめつつ、視界の先にいる敵軍の布陣を見て個々に言葉を発すると、その中で輝虎は敵・輝高率いる軍勢が偃月の陣形を敷いていることに着目してこう言葉を発した。
「偃月か…我らが車懸りを警戒しておるわ。」
「義父上、ここは敵地!策が見抜かれた上は一刻もこの城を去らねば!」
目標であった敵勢の出鼻を挫く事に失敗し、形勢の不利を悟った景勝が輝虎に即座に撤退するよう進言すると、輝虎はその進言をはねつけるかのような言葉を返した。
「いや、最早こうなっては死中に活を求める他は無い!全軍は予ての手はず通りにこの城を出陣!城の麓に車懸りの陣形を敷く!」
「御実城、誠に戦うのですな…?」
輝虎の意向を聞いた信綱が確認の意を込めて尋ねると、それに輝虎は首を縦に振って頷いた。
「輝高め、偃月の陣形を敷いたとて我らが車懸りは止められぬ!我が軍勢必殺の車懸りの妙味、奴に再度味合わせてやろう!出陣だ!法螺貝を鳴らせ!!」
「ははっ!」
この輝虎の号令を物見櫓の側に控えていた侍大将が相槌を発するや、その侍大将の近くにいた法螺貝を持つ足軽に目配せをして法螺貝を鳴らさせた。この金井山城の本丸から鳴り響いた法螺貝の音色こそ上杉勢出陣の合図その物であり、上杉勢三万は城に籠っていた村上国清の軍勢二千と共に続々と山城である金井山城から下山して麓の寺尾の原に車懸りの陣形を敷いたのである。
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「申し上げます。上杉勢、城から下山しておりまする。」
上杉勢が金井山城から出陣したとの一報は、川中島や海津城一帯を東から昇っている朝日の光が照らし始めている頃に輝高の元に届けられた。馬上の輝高へ報告に来た輝高本隊の指揮を取る深川高則に、輝高は兜の眉庇を手で少し上げてから高則に言葉を返した。
「よく分かった。各隊は偃月の陣形のまま待機、上杉軍の布陣が終わるまでこちらからは矢玉一発たりとも打ち掛けるなと伝え回れ。」
「ははっ!」
高則が輝高からの下知に返事すると、自身の側にいた数騎の早馬に目配せをして方々へ走らせていった。それを見届けた輝高は近くにいた竹中半兵衛重治の方を振り向いて尋ねた。
「半兵衛、馬防柵の方はどうなっているか?」
「はっ、既に偃月陣形の右方向…敵の車懸りが攻め込んでくるであろう方面に重点的に配置しておりまする。」
輝高率いる幕府軍は日付が変わってすぐに海津城を出陣し、真夜中で松明を焚かずに布陣を済ませると同時に、偃月陣形の右方向に向けて出陣前に用意させていた馬防柵や逆茂木といった妨害用の構造物を拵えさせた。これによって上杉勢の侵攻をある程度止め、かつ味方はその馬防柵の裏から改良火縄銃や弓矢を存分に射かけることが出来るのである。
「上杉勢は死地に飛び込んできた以上、死に物狂いの戦いをしてくるだろう。各隊にくれぐれも矢玉の備えを怠りなきよう伝えてくれ。」
「承知しました。」
半兵衛が輝高の言葉に相槌を打つと、輝高は自らの軍勢の前面に布陣し始めている上杉勢の方向を向いて来る戦いに備えるような険しい表情をした。それからすぐに上杉勢は金井山城から出陣して寺尾の辺りに車懸りの陣形を敷いた。時に六月十日早暁、朝日の光が川中島一帯を照らし始めた頃の事であった。
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金井山城から海津城までの平野部。東西1km半ほど、南北2kmほどの小さな戦場に双方合わせて七万五千人ほどの軍勢が密集した。上杉勢と名古屋幕府軍を隔てるように中間に流れる藤沢川なる小川を境に、北岸には上杉勢が車懸りの陣形を取った。車懸りの先陣には柿崎祐家・村上国清の計五千、第二陣には中条景資・色部顕長の計六千、中間の第三陣には輝虎の養子である景勝をはじめ本庄秀綱・神余親綱の計一万。後詰には信綱と一門衆の上杉景信合わせて七千が列をなし、そして最後方に輝虎の本隊四千が布陣しここに越軍伝統の車懸りの陣形が川を挟んで幕府軍と対峙した。
一方、藤沢川の南岸には輝高指揮する幕府軍が右側に弧線を描く偃月の陣形で布陣した。中央部の輝高本隊一万二千人を起点に後方に小高信頼隊、諏訪勝頼隊の計一万三千人、前方に真田信綱隊、新発田長敦隊の計一万八千人が布陣し戦端が開かれるのを今か今かと待っていた。そして開戦の合図とも言うべき法螺貝の音が鳴り響いたのは、幕府軍と川を挟んだ北側に陣取る上杉勢の方向からであった。




