1558年6月 桶狭間奇襲<一>
永禄元年(1558年)六月 尾張国沓掛城
中島砦の陥落から一夜明けた十四日。遂に今川義元率いる本隊が動き始めた。この時には、既に大高の地に陣城が出来上がっており、その報告を受けていた義元勢は東浦街道から大高道を経由しての進軍を開始した。
「ふふふ、いよいよ秀高の最期も近かろうな…」
輿に揺られて乗っている義元はこう言ってほくそ笑んだ。出立の前に坂部城の戦況や中島砦の戦果を聞いていた義元は気を良くし、士気が下がっている味方の活力剤になると更に確信していた。
「…太守、太守。」
と、その進む輿に対して、義元本隊に従軍している家臣の朝比奈親徳が言葉をかけた。
「親徳か。いったい何用じゃ。」
「はっ。先ごろ落とした中島砦より、敵将共の首が届けられて参りました。」
「おぉそうかそうか。さすがは元康じゃ。」
義元は親徳よりその報告を受けると、扇を広げて更に機嫌をよくした。それと同時に義元は暑さを感じ始めた。
「…それにしても今日は暑くてかなわん。どこか小休止できるところはないか?」
「…されば、この近くの桶狭間は秀高の領主館があったところで、今は空き家になっておりまする。」
その報告を聞いた義元はその提案が魅力的に聞こえ、扇を閉じると親徳にこう指示した。
「良かろう。少し暑くてかなわんわ。城攻めは元信や泰朝らに任せ、我らは桶狭間に入るとしよう。」
「ははっ!」
親徳は義元の指示を受けると、輿を押して進む軍勢に桶狭間へと向かうように指示を下した。そして義元の軍勢はそのまま桶狭間の村落に入り、領主館に入って本陣を構え、かつて秀高がいた居間に腰を下ろすとそこに側近の一人の久野元宗がやってきてこう言った。
「太守、近くの農民が我らの戦勝祈願を願い、ご進物を献上してまいりました。」
「進物を?いったい何なのだ?」
義元が元宗にその進物の内容を尋ねると、元宗は配下に命じてその進物を持ってこさせ、義元の目に見せさせた。
「太守の戦勝間違いなしと領民たちは申し、酒や地魚、ちまきに握り飯など食物を中心に献上してまいりました。」
「…そうか、食物をか。この暑さでは長持ちすまい。元宗、直ちに兵たちに食事を振る舞ってやれ。」
「しかし太守、敵はまだ降伏しておりません。食事や酒をふるまうのは些か早いかと…」
義元の言葉に親徳がこう言って意見すると、義元は親徳の意見を退けるように扇を手首で振って否定した。
「何を言うか。敵は籠城の構え。それに先日来の戦で兵も損耗しておる。わざわざ少ないのに打って出てくるほど愚かではあるまい。ここでしばし骨休みしても、大事には至らぬはずじゃ。」
義元のその言葉に、親徳や元宗は承服するしかなかった。こうして義元勢は誘われるように桶狭間に布陣し、本隊三千は酒食を振る舞われ、士気を高めるようにその食事を楽しみ始めたのだった。
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一方その頃、ここ善照寺砦では天候を確認した小高信頼が土の中に作られた建物の中に入ると中で地図を見ながら床几に座っていた高秀高に話しかけた。
「秀高、丁度桶狭間方向に小さな積乱雲が見えたよ。それにこのままいけば、一降りあると思うよ。」
「そうか。それならば突発的な雨もあり得るな。」
秀高はそう言うと、大高義秀に向かって話しかけた。
「義秀、兵たちの様子はどうだ?」
「あぁ、兵たちは昨日の中島砦の一件を聞いて、より一層油断せずに敵にあたる様に心してるようだぜ。」
「…そうか、二人の死は、無駄じゃなかったんだな。」
秀高は足軽たちの様子を聞いてしみじみとこう言うと、隣で話を聞いていた山口盛政が秀高に言った。
「そうですぞ殿。この状況を見れば、さぞ喜ぶことにございましょう。」
「あぁ。そうだな。」
盛政の言葉を受けて秀高がこう言葉を返すと、そこに伊助が現れた。
「殿!沓掛を立った義元本隊、見事罠にかかって桶狭間に入りました!」
「そうか。領民たちはうまくやったようだな。」
実は義元に進物を献上した桶狭間の領民たちは、秀高の恩に報いるべく自ら役割をかって出て、命の危険を顧みずに義元への進物献上の役目を負っていた。
義元は秀高の所業を憎み、領民たちに至るまで命を取ると事前に噂されていても、領民たちはその危険を承知で行動に移したのだった。
「それにしても、義元は領民たちに危害を加えなかったのか?」
「はっ、それがどうやら義元は戦況に気を取られるあまり、余計な被害を出すのを恐れ、沓掛到着時に諸将たちに領民には手を出すなと触れを出したようで…」
伊助の言葉を聞いた秀高は、自身たちが奮戦したことによる成果が意外な結果を招いたことに驚いていた。すると、その情報を聞いて安西高景が秀高にこう言った。
「その触れが事実ならば、義元は徐々に余裕をなくしておるかもしれませぬな。」
「…あぁ。そうなるとこれからの状況次第では、臨機応変に作戦を変えないとな。伊助、義元本隊の布陣構成は分かるか?」
秀高に尋ねられた伊助は、机の上におかれていた指示棒を取ると各地の布陣を秀高に教えた。
「まず義元本陣は、このかつて殿が住んでいた館におかれており、その周囲に本隊三千が展開しております。また高根山と幕山の間の長坂道に蒲原氏徳隊千五百。生山の麓に由比正信隊千五百が布陣しております。」
「…見事にこっち方面からの敵に警戒してやがるな。」
その説明を聞いて大高義秀がこう言うと、隣の華が義秀の言葉に続いてこう意見した。
「そうね、このまま攻め掛かれば、義元本陣にはたどり着けないでしょうね。」
すると、華の言葉を聞いた秀高は伊助から指示棒を貰うと、諸将に向かって話し始めた。
「…良いか、この地図を元に布陣図を照らし合わせると、義元本隊は、この手越道から会下山に向かい、太子ヶ根から手越川を渡って武侍山に向かう道に一人も兵を置いていない。」
「なんだと、じゃあ伏兵でもいるって言うのか?」
「それについては、拙者から報告させてくだされ。」
秀高の言葉を聞いて義秀が意見すると、その意見に対して簗田政綱が補足事項を説明するように進言した。
「事前に我が配下に、この道のりに偵察に向かわせたところ、ここには伏兵どころか、今川の将兵の気配一つもございませぬ。」
「…なら、義元はこの道を何とも思ってはいないんだろうね。この道は沓掛にも抜けられる道だから、まさか敵が攻めてくるとは思っていないのかも。」
「では、中島砦に気を付ければ、今川本隊の側面に出ることが出来るのでは?」
その意見を聞いて盛政が秀高に向かってこう言うと、秀高はそれに頷いて言葉を続けて発した。
「あぁ、後は雨が一降りしてくれれば、一気に今川本陣に近づけるんだがな…」
とその時、秀高が、ふと外に目をやると、外の陽気はいきなり曇りだし、黒い曇天が空を覆って辺り一帯が影になったように薄暗くなった。
「これは…」
秀高が建物の外に出て天気の様子を確認していると、それにつられて諸将たちが外に出てきた。それと同時にその時、秀高の頬に一滴の水が落ちてきた。
「…ははっ、やはり、天候が俺たちに味方してくれたようだ!」
「この様子なれば…対岸の中島砦に悟られずに出陣出来ましょう!」
秀高が喜んで発した言葉を聞いて、盛政が秀高に意見をすると、秀高は盛政の方を振り向いてこう言った。
「盛政、将兵たちを集めてくれ。」
「畏まってござる!」
盛政はその指示を受けると、砦内の軍勢を集めた。そうこうしていると徐々に降り始めた雨脚は強くなり、大粒の雨が地面に降り注ぎ視界は霧がかかったように遮られ始めた。秀高はその中で馬に跨り、目の前でそろっている将兵たちに声をかけた。
「良いか!これより直ちに出陣する!目指すは義元の首ただ一つ!この雨脚を利用して迅速に行動し、一気に桶狭間に近づく!数の不利を補うためにも、目先の首や功名にとらわれず、ただ義元の首一つのみを狙え!」
秀高はそう言うと、刀を抜いて言葉の続きを発した。
「これより旗指物は持って行かず、各々白襷を身に付けて行動する!敵は白襷を身に付けていない者!それのみを狙え!鉄砲や弓などは置き捨てとする!槍や刀など、最低限の武装を身に付けて、俺に続け!」
その言葉を受け取った一同は喊声を上げ、やがて砦の門が開かれると、雨が強く降り注ぐ中、刀を高く掲げて全軍に向かって下知を下した。
「みんな、行くぞ!」
秀高はそう言って馬を駆けさせて出陣すると、それに続くように義秀ら武将一同と足軽たち総勢二千二百弱が続くように進軍していった。その姿は対岸の中島砦に陣取る者たちからは全く見えず、その動きを全く察知できなかったのだった。
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「秀高くん…」
その雨脚の中、鳴海城内の本丸館の中では、玲が雨が降り続く空を見つめながら秀高の事を案じていた。
「ふふっ、随分心配なのね。」
その様子を見てこう声をかけたのは、居室の中で動じずに事の成り行きを見守っていた静姫だった。静姫の言葉を聞いて振り返った玲に対し、静姫は言葉を続けた。
「…大丈夫よ。あいつならきっと、義元を討ち取って帰ってくるわ。」
「…そうだね。」
静姫の自信に満ちた言葉を聞いた玲はそれに頷き、秀高の勝利を祈るように胸に手を当てて祈願した。こうして秀高はまさしく乾坤一擲の決戦を祈るべく、雨が降り注ぐ中桶狭間への道を軍勢を引き連れ、急行していったのだった。