1575年6月 東国征伐<秀高side> 我が子からの献策
文禄三年(1575年)六月 尾張国名古屋城
文禄三年六月一日。東国において上杉輝虎・鎌倉府傘下の諸大名に対する名古屋幕府軍の侵攻作戦が進んでいる頃、その幕府の中枢たる名古屋城では城の天下普請が進む一方で将軍・高秀高がいる本丸表御殿の書斎では秀高に対して幕府家老の佐治為興や同じく幕府中老の毛利長秀が登城して秀高に東国での戦況が書かれた報告書を読み上げていた。
「先月から始まった幕府の攻勢は各方面で順調な成果を上げておりまする。信濃では若君(高輝高)の軍団が小笠原長時を討ち取って松本平を平定し、甲斐では小高信頼殿の軍団が武田義信を自刃に追い込んで甲斐を併呑いたしました。」
「それに箱根から関東平定を受け持つ大高義秀殿の軍団も、伊豆の犬懸上杉を滅ぼし伊豆を併呑。隣国相模への侵攻を企図しておりまする。」
この頃は相模小田原城接収や鎌倉公方・足利藤氏討ち取りの前であり、その時点での各戦線の戦況を為興や長秀から聞いた秀高は書斎の上段に置かれた机に手を置きながら言葉を発した。
「そうか…各戦線の侵攻は概ね順調といったところか。」
「はっ、それに加えて東北の南部晴政殿や安東愛季殿を主軸とする陸奥地方の連合軍は順次南下。相馬義胤殿や蘆名盛興殿など、幕府に通じた陸奥南部の諸大名と連携し伊達や最上等の親上杉派大名を攻撃しておりまする。」
「となれば、目下の問題はこの戦況を受けて輝虎がどう動くか、ですな。」
東北での動向を為興が発言した後に、長秀が書斎の上段にいる秀高を振り向いてから主たる敵でもある輝虎の事を口に出した。それを聞いた秀高は首を縦に振ってから自身の今後の見通しを下段にいる二人に向けて語った。
「うん…俺としては戦況の挽回を図り、侵攻してくる幕府軍をどこかで撃破する事を目論んでいるはずだ。一番可能性が高いのは伊那路の輝高か甲斐路の信頼か…。」
「そうなると合戦場は、佐久平か善光寺平の辺りになりまするか。」
「幸いにして、先程来た当家の家臣から、北陸道に上杉軍侵入の気配は一切ないとの事。となれば我らは佐久平の方面に上杉が現れる事を前提に策を立てる事が可能になりまする。」
輝虎の本国・越後と同じ北陸は加賀に所領を持つ為興から上杉の動向知らされた秀高は、机の上に両肘を置きつつ首を縦に振ってから下段にいる長秀の方を振り向いて将軍としての命令を発した。
「長秀、直ちに輝高や信頼の元に早馬を送り、村上国清や大井貞清、禰津元直ら小県の国衆や大名を迅速に撃破し、上杉軍の侵攻に対策を打てるように行動しろとな。」
「ははっ。承りました。」
秀高の命を受けた長秀が返事を返すと、秀高はその言葉の後に自身の動向を為興や長秀に向けて語った。
「近いうちにこの俺も後詰という形で越後に向かう。上杉の滅亡だけはこの目でしかと焼き付けないとな。」
「如何にも。」
この秀高自身の出陣に為興が山道の意を示すような言葉を返すと、そこに幕府側衆の一人として秀高の側近となっていた山内高豊が現れて書斎の上段に座る秀高に向けて報告した。
「上様、申し上げます。宗密様がお越しになられました。」
「宗密が?分かった、すぐに通してくれ。」
継意が秀高の言葉を受けて書斎に通したこの仏僧、かの僧侶こそ秀高と静姫との間に産まれた山口教高とは双子の片割れである静千代こと宗密。この頃は師匠である希庵玄密からの修行を済ませ、その名も「快庵宗密」と名乗って立派な僧侶となっていた。
「父上、ただいま参りました。」
「宗密、よく来たな。立派な僧侶になって父も満足しているぞ。」
一人前の僧侶となった宗密を、秀高は名古屋城下に新たに建立した臨済宗の「広徳寺」の住持にした。これによって宗密は既に幕府の宗教顧問となっていた徳善院玄以と共に幕政に関与するようになり、今日こうして父・秀高の元を訪れたのも単に相談をする為であった。
「父上、既に東国からの情報はこの私の耳にも入っています。父上の事でしょうから、近いうちに越後へ赴かれるのではないでしょうか?」
「…流石だな、その通りだ。」
宗密の尋ねを受けて秀高がふっとほくそ笑みながら返答すると、宗密は秀高の返答を受けて自身の存念を込めて静かな口調で問いかけた。
「もしこれより先、兄上(高輝高)や信頼叔父の軍が上杉輝虎の軍勢を一度でも撃破することになれば、上杉輝虎はその威名を大きく削がれて越後国内に大きな動揺を与えることになるでしょう。そうなった時、父上は上杉をお許しになりますか?」
「許す…だと?」
この秀高に対し静かに問いかけた宗密の言葉を、脇にはけた為興と長秀、それに宗密を連れて来た高豊が神妙な面持ちで聞き入っていた。その宗密からの尋ねを受けて秀高も眉をピクリと動かしてから神妙に尋ね返すと、宗密は表情を一つも変えずにまるで説法するような語気で返答した。
「いくら朝敵になったとはいえど上杉家は鎌倉の御世より続く名家。京からの噂では帝も本心では上杉家の断絶を憂いているとか。」
「…だからと言って上杉輝虎を許せと?」
「方法は幾らでもある、という事です。」
宗密を睨み付けて返答した秀高の言葉に宗密が即答すると、宗密は上段にて怒気を立ち昇らせつつあった秀高に向けて自身が申し伝えたいことを冷静に語った。
「父上が憎む輝虎を助命して欲しいという訳ではありません。輝虎の生死関係なく上杉を越後国内の小大名として存続させるとなれば、越後国内の混乱を抑える事が出来るでしょう。」
「生死関係なく、か。」
つまるところ宗密が言ったのは、京の帝や堂上公家への配慮も兼ねて上杉家当主の座を輝虎から別の人物に挿げ替え、その者に越後国内に領地を与えて小さな大名家として存続させるべきという事であった。この事を脇に控える為興や長秀・高豊らが黙して聞き入る中で、口を開いて発言したのは上段にいる秀高本人であった。
「…俺の本心を言えば、輝虎本人に恨みはあるが上杉家に恨みはない。だが宗密、さすがに扇谷や深谷、犬懸等の上杉分家までを助けろというわけには行かないぞ?」
「分かっておりまする。帝が望むのは上杉宗家の山内上杉家の存続のみ。それ以外は断絶もやむなしと仰せとか。」
宗密から京で聞いた噂を知った秀高は、その場でしばらく思慮する様なそぶりを見せた後、顔を上げて目の前の位置に座していた宗密に向けて尋ねた。
「宗密、お前がそう言うからには交渉を纏める自信があるんだな?」
「はい。必ずや輝虎から家督譲歩を引きずり出して見せましょう。」
秀高自身も心の内では上杉家の族滅にどこか躊躇する気持ちが僅かにあった。その僅かな気持ちをすくい上げるような提案を息子でもある宗密が持ち掛けてきたことによって、秀高は当初の方針を軌道修正する様に首を縦に振って頷いた。
「分かった。そう言う事ならばお前に任せよう。良いか、上杉家と交渉に当たるのは幕府の軍団が上杉勢を打ち破ってからだ。それまでは信濃か甲斐で待機し、時が来るのを待っていろ。」
「はい、承知いたしました。」
こうして幕府は当初の予定にあった上杉家の族滅から山内上杉家のみ存続する方針に変更し、その交渉役として若き宗密を抜擢する事となった。父・秀高の命を受けた宗密は翌日より名古屋を発って待機場所とした甲斐善光寺へと向かい、それを見送ってから秀高は第一正室の玲や第二正室の静姫などの奥方五人を伴い、神余高政・神余高晃の兄弟や高豊に弟の山内一豊ら手勢五百名ばかりを引き連れ、鎌倉公方の藤氏が死した六月十日に名古屋城を出立。東海道周りで甲斐から信濃へと向かって行ったのである…。




