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1575年5月 東国征伐<甲斐路side> 甲府盆地進入 



文禄三年(1575年)五月 甲斐国(かいのくに)富田城(とだじょう)




 文禄(ぶんろく)三年五月三十日。小高信頼(しょうこうのぶより)指揮する甲斐路(かいじ)を進む幕府軍総勢九万六千は、降伏して来た河内(かわち)地方の領主・穴山信嘉(あなやまのぶよし)道案内の下、甲府盆地(こうふぼんち)の南端にある笛吹川(ふえふきがわ)釜無川(かまなしがわ)の合流地点に近いここ、廃城となっていた旧富田城跡に布陣。城の遺構を利用して幕府軍が本陣を置くとその日の夕刻には、甲斐路を進む幕府軍諸将を集めて軍議が開かれた。


「さて穴山殿。ここから甲府…躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)までどのくらいかな?」


「はっ、ここから約四里(約16km)先にありまする。」


「四里…目と鼻の先にございまするな。」


 旧富田城跡の本丸部分に張られた陣幕の中にて、大将の信頼が道案内役を務める信嘉に武田義信(たけだよしのぶ)の本拠・躑躅ヶ崎館までの距離を尋ね、これに対して返答した信嘉の言葉を聞いて脇にいた滝川一益(たきがわかずます)が相槌を打つように言葉を発すると、その言葉を聞いた信頼が首を縦に振って答え、陣幕の中に置かれた机の向こうにいた信嘉に向けて言葉を続けて尋ねた。


「それで信嘉殿、この辺りの武田方の拠点は?」


「大きな物であれば、ここより西にある中野城(なかのじょう)なる山城にございまする。ここには原虎胤(はらとらたね)の子供である原盛胤(はらもりたね)横田康景(よこたやすかげ)らが千の守兵で守っておりまする。」


「なるほど…ならばまずは中野城を攻め落とし、後顧の憂いを断つべきにございましょう。」


 信嘉の言葉を聞いた徳川家康(とくがわいえやす)が、陣幕の上座に座る信頼に向けて発言し、これに信頼は頷いて答えた。するとそこに信頼家臣の島左近清興(しまさこんきよおき)が現れ、外の偵察を行ってきた物見からの報告を伝えた。


「信頼様!申し上げます!先ほど物見より報告があり、躑躅ヶ崎館より武田勢が出陣したと報告がありました!」


「何!?武田勢が打って出て来たと!?」


 この清興からの報告を聞いて陣幕の中にいた丹羽氏勝(にわうじかつ)が声を上げて反応すると、一益は側にいた前田慶次郎利益まえだけいじろうとしますと顔を見合わせた。その中で信頼は務めて冷静に報告しに来た清興に向けて言葉を返した。


「左近。敵の陣容は分かる?」


「物見が旗指物を見て判断した内容によりますれば、風林火山(ふうりんかざん)の旗を掲げて義信本隊が出陣。これに飯富虎昌(おぶとらまさ)馬場信春(ばばのぶはる)春日虎綱(かすがとらつな)ら譜代の家臣たちが全て出陣。その総数二万二千との事にございまする!」


「風林火山の旗印…甲斐の虎(武田信玄(たけだしんげん))の遺産ですな。」


 清興より「風林火山」という単語を聞いた家康が、信頼の方を振り向いてから言葉を発した。風林火山…即ち今は亡き甲斐の虎こと信玄が作り上げた最強の武田軍団の出陣を示す家康の言葉に信頼はしっかりと噛みしめるようにして頷いた後、報告した清興に向けてあることを尋ねた。


「そういえば左近、郡内(ぐんない)領主の小山田信茂(おやまだのぶしげ)の旗印はあった?」


「はっ…それが小山田をはじめ、栗原信盛(くりはらのぶもり)今井信俊(いまいのぶとし)ら元は甲斐国衆であった家臣たちは義信の元に参陣しておりませぬ。小山田は郡内…岩殿山城(いわどのやまじょう)から動かず、栗原は栗原郷の屋敷に、今井は今井郷の屋敷に籠っておりまする。」


「…それが真であれば、その二万二千なる武田の軍勢、こちらを迎え撃つ為に農兵や流民、それに地侍らを無理やり集めたでしょうな。」


 この清興の言葉が示す事は、高秀高(こうのひでたか)が朝廷に対して奏請した朝敵指名の効果が甲斐領内でも発揮されたことを意味した。小山田や栗原、今井といった者達は武田家臣でもあるがその反面、国人領主の一面も有しておりそれらが義信の元に参集していないという事は、小山田らが武田に見切りをつけた事を示すものであった。その情勢を踏まえて一益が信頼に向けて発言すると、信頼は過度な慢心を戒める言葉を一益に返した。


「でも油断は出来ない。雑兵がいるといえ、武田の本隊は北の若神子城(わかみこじょう)まで出向いていた軍勢を合わせて一万四千だと思う。この一万四千はきっと、僕たちに目に物を見せようと奮戦してくることは間違いないよ。」


「左様ですな…。然らば如何なさいます?」


 信頼の言葉を聞いてから利益が総大将である信頼に方策を尋ねると、信頼は座っていた床几(しょうぎ)から立ち上がって陣幕の中にいる諸将たちに向けて対応策を示した。


「ここは正々堂々、武田勢を野戦で迎え撃ちましょう。氏勝殿、利益。」


「うむ。」


「ははっ!」


 信頼から指名を受けた氏勝と利益が順々に返事をすると、その返事を聞いた信頼は机の上に広がっていた絵図の箇所を指し示して指示を伝達した。


「お二方の軍勢は西の中野城攻めを任せます。それと城攻めの前に一度、城方に開城を呼び掛けてみてください。」


「果たして応じるであろうか…?」


 信頼から城攻めの前に開城を呼び掛けるよう命じられた氏勝が、提案してきた信頼にその成否の程を尋ねると信頼は氏勝に対して即答するように言葉を返した。


「駄目で元々です。ですが義信本人が朝敵の指名を受けた今、降伏するかどうかは武田家臣たちの裁量にかかっています。無駄な血を流さぬことが出来れば、それに越したことは無いでしょう?」


「…相分かった。ならば我らは中野城を攻め取る故、信頼の勝報を待っておるぞ。」


「城攻めは、この俺と氏勝殿にお任せくだされ!」


 信頼の考えを聞いた氏勝が改めて命令に服する意向を示し、その後に利益が意気込むように勇ましい返事を信頼に返した。それを聞いて信頼は続いて視線を家康の方に向けてこう指示した。


「徳川殿はここから西に向かい、郡内地方の平定をお願いします。」


「うむ。郡内地方には岩殿山をはじめ、富士南麓(ふじなんろく)吉田(よしだ)にも武田方の城がある。こちらの平定は任せよ。」


 信頼から甲斐東部・郡内地方の平定を命じられた家康はこれを受け入れ、ここに徳川軍は富田城跡より東に進路を取って郡内地方に向かう事となった。その家康の返事を聞いた信頼は諸将の方に一度視線を向けてから言葉を発した。


「後の者は僕と共に出陣します。徳川殿、すみませんが配下の一隊をここに留まる輜重隊の守備も兼ねて残してくれませんか?」


「承知した。然らば家成(いえなり)の一隊をここに残そう。」


 家康は信頼の要請に応え、配下の石川家成(いしかわいえなり)率いる八千人を富田城跡に留まる幕府軍輜重隊の警備に残す事を宣言した。この言葉を聞いた信頼は改めて居並ぶ諸将を視界に収めるよう視線を戻してから、諸将に向けて自らの行動を宣言した。


「ならば我が軍はこれより北東に進軍し釜無川を渡河。川を越えた先にある紙漉阿原(かみすきあはら)の地に進みます。」


「紙漉阿原…信嘉殿、ここからその紙漉阿原までの距離は?」


「およそ一里半(約6km)ほどかと。」


 信頼の方策を聞いた後に織田信澄(おだのぶずみ)が信頼に代わって信嘉に尋ねた。これに信嘉が目的地である紙漉阿原までの距離を正確に伝えると、これを聞いた信澄は視線を信頼の方に向けてから言葉を発した。


「ならば急いで出陣せねばなりませんな。」


「うん。全軍出陣!」


「ははっ!!」


 こうしてここに幕府軍は三手に分かれて行動を始めた。即ち丹羽・前田ら一万六千は富田城より西にある中野城攻めに向かい、徳川勢三万は正反対の東方向へと進軍し郡内地方の平定に。そして残る信頼本隊三万二千は富田城跡に徳川家の石川隊八千を残すと、進路を躑躅ヶ崎館がある北東方向にとって釜無川を渡河。会敵予測地である鎌田川(かまたがわ)なる小川の南岸、紙漉阿原へと進軍していったのである。





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