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1575年5月 東国征伐<伊那路side> 待ち受ける猛牛



文禄三年(1575年)五月 信濃国(しなののくに)飯田城(いいだじょう)




 文禄(ぶんろく)三年五月。いよいよ高秀高(こうのひでたか)名古屋幕府(なごやばくふ)による対上杉輝虎(うえすぎてるとら)鎌倉府(かまくらふ)への攻撃作戦である「東国征伐(とうごくせいばつ)」が開始された。その先陣を切るべく行動を起こしたのは、美濃(みの)岩村城(いわむらじょう)から恵那山(えなさん)を経由し、伊那谷(いなだに)から輝虎の本拠・越後(えちご)を目指す高輝高(こうのてるたか)指揮する幕府軍総勢九万六千。幕府軍は工作隊を同伴させて美濃岩村から信濃飯田までの街道の拡張や整備を行いつつ行軍。幕府に呼応した諏訪勝頼(すわかつより)の家臣で、元は武田信玄(たけだしんげん)配下の猛将でもあった秋山虎繁(あきやまとらしげ)が密かに制圧していた飯田城に入城したのは五月十一日の事であった。


「輝高殿、お初にお目にかかります。諏訪勝頼が家臣、秋山虎繁にございまする。」


「おぉ、貴方が「甲斐の猛牛」と噂されたあの…。」


 飯田城の本丸にある本丸館にて、近隣諸国にその名を轟かせた秋山虎繁に会った輝高は、お互い対面し合いながら名高い武将でもある虎繁と顔合わせできて感無量の思いを抱いていた。すると虎繁は輝高の表情を察したのか少し照れくさそうにして言葉を輝高に返した。


「お恥ずかしい限りにございまする。我が主信玄亡き後、主家は伊那谷の統治を放棄して甲斐に引き払ってしまい、途方に暮れていた所を四郎勝頼(しろうかつより)殿より誘いを受けまして、これこそ天の導きと諏訪家臣として仕えて参ったのでございまする。」


「そうだったのですか…。」


「さぁ輝高殿、まずは上座に。」


 虎繁の言葉を受けた輝高は本丸館内の広間に設けられた軍議の席の上座に当たる床几(しょうぎ)に腰を下ろし、輝高の右脇には安西高景(あんざいたかかげ)稲葉良通(いなばよしみち)らの諸将が、そして左脇には幕府親藩の格を有する浅井高政(あざいたかまさ)三浦高意(みうらたかおき)尼子勝久(あまごかつひさ)らがそれぞれの床几に腰を下ろした。そして飯田城を制圧した諏訪家臣の虎繁は輝高と長机を挟んだ正反対の位置にある床几に座し、全ての諸将が着座した事を確認した輝高は虎繁に開口一番尋ねた。


「それで虎繁殿、ここから先の情勢はどうなっておるか?」


「はっ、然らばこの絵図をご覧くださいませ。」


 そう言うと虎繁は矢盾で(こしら)えられた長机に伊那谷一帯の絵図を広げ、絵図に描かれている箇所を虎繁が指差しながら、輝高を始め幕府軍の諸将に向けて情勢を報告した。


「ここから先、諏訪家の本領である諏訪湖(すわこ)までの主要な城郭は、大島城(おおしまじょう)松尾城(まつおじょう)阿島城(あしまじょう)、それに高遠城(たかとおじょう)福与城(ふくよじょう)などがありまする。このうち我らの工作によって既に松尾城と大島城はこちらに内通の意思を示しており、阿島城の知久頼氏(ちくよりうじ)やここから南の吉岡城(よしおかじょう)の主・下条信氏(しもじょうのぶうじ)もこちらに帰順の意思を示しておりまする。」


「ほう、それでこの高遠城の方は?」


 虎繁より想像より遥かに手際よく伊那谷南部の恭順が成った事に、両脇に控える高景や高政ら幕府軍諸将が感心する様に頷いている中で、輝高が言葉を発して高遠城の方角…即ち伊那谷北部の情勢を尋ねると、虎繁はその問いかけに対して即座に返答した。


「はっ、既に高遠城主の保科正俊(ほしなまさとし)殿は勝頼殿の命を受けて既に開城の準備を進めており、これに福与城の藤沢頼親(ふじさわよりちか)殿も呼応。これによって伊那谷のほぼ全域は幕府軍の見方と相成りましてございまする。」


「…さすがは勝頼殿。ここまで内通の網を広げておられるとは…。」


 この虎繁の報告を受けて高政が虎繁の主君である諏訪勝頼の工作に感心する言葉を発すると、その虎繁の説明を聞いていた高意が絵図を見つめながら虎繁に尋ねた。


「畏れながら虎繁殿、伊那谷はこちらの物となっても山向こうの塩尻(しおじり)の方はどうなっておるのですか?」


「ご案じなく。敵である小笠原長時(おがさわらながとき)は右往左往するばかりで家臣団の統制はろくに取れておりませぬ。我が主である勝頼殿と合流しても、自ら戦わず村上(むらかみ)などの周辺諸国の来援を待つだけの愚物なれば、こちらに攻めてくる気概は全くありますまい。」


 武田信玄の死後、輝虎によって信濃守護の座に復帰した小笠原長時は、かつての旧領に戻ってからという物、武田家が敷いた税制や兵制を破棄して従来の内政に戻した結果、武田家の内政に慣れ親しんでいた民衆たちの反感を買っていた。のみならず長時は止むを得ず武田家に従属した旧小笠原家臣団を冷遇し、信濃脱出後も自身に仕えた家臣や一門を重用したために家中の不和も大きなものとなっていた。これによって長時はその統治力の欠如を露呈する事となり、それによって小笠原の軍勢は信玄期に戦っていた頃よりさらに弱体化していたのだった。この有様を虎繁が鼻で笑いながら輝高に言うと、輝高は味方の動向を虎繁に打ち明けながら小笠原の戦いの結末を予想した。


「なるほど…来月になれば鳥居峠(とりいとうげ)の方角から木曽義昌(きそよしまさ)の道案内の元で金森可近(かなもりありちか)飛騨(ひだ)の軍勢一万二千余りがやってくる。そうなれば小笠原も風前の灯火だろう。」


「なんと、そこまで手を打たれておるのですか。ならば此度の戦はより早く片が付くという物にございまする。」


 輝高から軍勢の動向を聞いた虎繁が勝ちを確信したかのように頷くと、輝高は目の前にいる虎繁や主君の勝頼の働きぶりを褒め称えるように(ねぎら)いの言葉をかけた。


「虎繁殿、此度の伊那谷の調略における勝頼殿や、そなたら家臣たちの働きは大きい。後々幕府から発給される知行安堵の朱印状も期待しておかれよ。」


「おぉ、それを聞けば我が主は喜びましょう!ささ、今日の所はこの飯田城で休息をお取りになられ、明日からはこのわしと共に諏訪に参りましょうぞ!」


「うむ、よろしく頼む。」


 虎繁の言葉を受けた輝高はこくりと首を縦に振って頷き、その後幕府軍の諸将たちは飯田城の本丸館にて虎繁の歓待を受けた。それと同時に配下の軍勢にも酒食が振る舞われ、しっかりと英気を養った幕府軍は翌日より伊那谷を北上開始。虎繁の説明通りに大島城や松尾城といった諸城を無血開城させ、伊那路を進む幕府軍は一兵も損なわずに虎繁案内の下、諏訪勝頼が待つ諏訪湖…諏訪家の本城でもある上原城(うえはらじょう)へと向かって行ったのである。






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