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1575年1月 密使伊助、陸奥最北部へ



文禄三年(1575年)一月 陸奥国(むつのくに)浪岡御所(なみおかごしょ)




 明けて文禄(ぶんろく)三年一月十日。日ノ本の北にある奥州(おうしゅう)こと陸奥国。その最北部にある津軽地方(つがるちほう)にある浪岡北畠家(なみおかきたばたけけ)の御所・浪岡御所に三人の大名達が集結していた。一人は津軽地方から北にある南部地方(なんぶちほう)を収める大大名・南部(なんぶ)家の当主、南部大膳大夫晴政なんぶだいぜんだいふはるまさ出羽国(でわのくに)檜山郡(ひやまぐん)秋田郡(あきたぐん)を領する安東(あんどう)家の当主、安東侍従愛季あんどうじじゅうちかすえ。そしてもう一人は津軽海峡(つがるかいきょう)の向こう、蝦夷地(えぞち)渡島半島(おしまはんとう)南部に勢力を持つ安東愛季の配下、蠣崎若狭守季広かきざきわかさのかみすえひろである。この三名は浪岡北畠の当主である浪岡侍従顕村なみおかじじゅうあきむらのいる御所の広間に集まっており、そこで彼らはある一人の人物と面会していた。


「これは南部大膳大夫殿に安東侍従殿、並びに蠣崎若狭守殿までお越し頂き何よりにござる。」


 広間の上段の前に勢揃いしている晴政や愛季ら四人に向けて言葉をかけたのは、名古屋幕府(なごやばくふ)の将軍・高秀高(こうのひでたか)の密使として来訪した稲生衆(いのうしゅう)の頭目、伊助(いすけ)である。伊助はここ数年の間、上杉輝虎(うえすぎてるとら)の本国である越後(えちご)にて情報収集や攪乱工作に従事していたが、今回陸奥への密使を秀高より命じられると、配下に越後国内の諜報活動を任せて単身、この浪岡御所へと足を運んでいたのである。伊助は旅の僧侶の身なりをして晴政や愛季ら四人と対面しており、その伊助からの言葉を受けて最初に相槌を返したのは晴政であった。


「いや何、大浦為信(おおうらためのぶ)めを石川城(いしかわじょう)まで追い詰め、反攻の余地を許さぬよう家臣どもに命じた上でこの御所に参ったのじゃ。それはここにいる安東殿も同じであろう?」


「如何にも。これまで当家と南部家は数百年に渡り骨肉の争いを繰り広げて参りましたが、輝虎の東北遠征(とうほくえんせい)で奴の支配下に入るなど出来ぬと思い、この晴政殿と過去の怨恨を水に流して共に大浦討伐に兵を挙げたのでござる。」


 晴政と愛季、いや南部家と安東家は津軽地方を巡って数百年に渡っての怨恨があったが、愛季の言うように東北遠征を機に両家は仲たがいを止めて、それぞれ輝虎が定めた当主から実権を譲られて復権した二人でもあった。このように陸奥北部での根強い輝虎への反感を目の当たりにした伊助に向けて、御所の主である顕村が話題を切り替えるように尋ねた。


「それで伊助殿、上様からの密書を此度お持ちになられたとか?」


「はっ。此度上様より南部殿に安東殿、それに蠣崎殿や浪岡殿の四人に対し知行安堵の朱印状並びに幕府からの内密な御内書を受け取っておりまする。」


 そういうと伊助は法衣の裾に忍ばせて持ってきた幕府からの朱印状を晴政や愛季ら四人それぞれに手渡しした。この朱印状は主に大浦為信討伐後の加増分も含まれている物であり、その朱印状を一目見てまず反応したのは、大浦為信討伐の為に兵を出した愛季であった。


「なるほど、外浜(そとはま)西浜(にしはま)の全域、それに平賀郡(ひらがぐん)までが南部領であると。」


「ははっ、そして安東殿には鼻和郡(はなわぐん)一帯、浪岡殿には田舎郡(いなかぐん)全域を与え。蠣崎殿は蝦夷地にある蠣崎家の所領全てを安堵というのが幕府の意向にございまする。」


 秀高…いや幕府が裁定した知行割りというのは、大浦討伐に動いた南部や安東、それに浪岡へ一定数配慮する内容であった。事実、それまで津軽地方の一領主に過ぎなかった浪岡家はこの朱印状で数万石近く加増され、さらに安東家に至っては先祖がその昔に収めていた十三湊(とさみなと)を含む鼻和郡を加増されるのだった。それとは別に、数年前まで津軽地方の大半分を領有していた晴政は、朱印状の内容を伝えた伊介に対して厳しい言葉を返した。


「なるほど、幕府はやはり津軽地方を折半した方が宜しいと?」


「南部殿、お気持ちは重々承知致しております。されど此度の大浦討伐には安東や浪岡の助力も得ておりますれば、幕府としてはこれらに配慮する必要もあり…。」


 津軽半島をほぼ全域支配していた晴政から見れば、名古屋幕府が晴政や愛季ら四人の大名達に下した朱印状の内容はとても厳しい物であった。しかし、晴政は伊助から告げられた言葉を聞くと手にしていた朱印状を外紙で包みながら言葉を返した。


「…いや、大浦は元はと言えば南部の家臣。それが叔父(石川高信(いしかわたかのぶ))を討たれて津軽地方を失陥した身であれば、今更図々しく津軽全郡などとは申しませぬ。伊助殿、我ら南部家は謹んで幕命を受け申す。」


「南部殿、お分かりいただき感謝します。」


 伊助に向けて頭を下げた晴政の返答を聞き、伊助は安堵した表情を浮かべて首を縦に振った。すると伊助は次に渡す物を法衣の裾野中に腕を入れながら、晴政や愛季ら四人に向けて言葉をかけた。


「それで…次に渡す物が幕府からの密命にございますが…。」


 伊助はそう言って法衣の裾から幕府よりの密命が記された密書を取り出し、目の前の四人にそれぞれ手渡しした。晴政や愛季ら四人は伊助から密書を受け取り、各々に密書を開封して中身に目を通すと、その内容に驚いた顕村が伊助の方を振り向いて声を上げた。


「なんと、真に朝敵指名が?」


「はい。朝廷からによりますれば、今年の春ごろには朝敵指名が下されると。それによって朝敵指名された諸大名の官位は解官され、支配下の家臣たちの間に動揺が広がるのは間違いありませぬ。」


 伊助から告げられた通り、既にこの年の初めには近衛前久(このえさきひさ)近衛派(このえは)の公家たち四十名ほどが朝廷から解官・追放される「文禄の政変」が起こっており、朝廷はこの追放謀議に協力した秀高の要請を受け、今年の春頃に上杉輝虎ら鎌倉府(かまくらふ)傘下の諸大名へ朝敵指名を行う事を関白(かんぱく)二条晴良(にじょうはれよし)の主導で決めた。この事を伊助は晴政や愛季ら四人に伝えた後、少し頭を下げて幕府の意向を四人に向けて代弁した。


「ついては、幕府は春以降に上杉輝虎への攻勢を開始いたします故、南部殿や安東殿には北から鎌倉府傘下の諸勢力へ攻勢をお願い致します。」


「春頃…つまり雪解けを待って攻撃すればよいのですな?」


 晴政や愛季ら四人が今いる浪岡御所の外は一面雪景色であり、その外の様子を窺うようにして晴政が伊助に尋ねると、伊助は首を縦に振ってから言葉を返した。


「それで構いませぬ。既に仙北(せんぼく)戸沢道盛(とざわみちもり)殿や小野寺輝道(おのでらてるみち)殿、岩手(いわて)斯波詮真(しばあきざね)殿、更には浜通りの相馬義胤(そうまよしたね)殿などもこれに呼応して挙兵の段取りを進めておりまする。」


「そこまで挙兵の段取りを…ならば我らが後れを取る訳には参るまいな?」


「如何にも。」


 この伊助から幕府の段取りを聞いて晴政が愛季と言葉を交わして頷きあった後、愛季は晴政や顕村、季広と共に幕府の使者である伊助の方を振り向き、少し頭を下げながら正式な返答を告げた。


「伊助殿、是非とも上様にお伝えあれ。我ら安東と南部、必ずや幕府の東国平定にお役立ちいたしますると。」


「はっ、承知いたしました。その旨必ずや上様にお伝えいたします。」


 ここに、南部や安東、それに浪岡北畠や蠣崎ら陸奥最北部の諸大名達は正式に幕府に従属することを決め、同時に幕府に寄る上杉征伐に呼応して挙兵する事を内々に取り決めた。この返答に満足した伊助は晴政や愛季ら四人にくれぐれも事が露見せぬように伝えた後、密かに浪岡御所を発って葛西(かさい)大崎(おおさき)伊達(だて)といった親上杉派の諸大名の領土を潜り抜けて相馬義胤や二階堂盛隆(にかいどうもりたか)二本松義継(にほんまつよしつぐ)蘆名盛興(あしなもりおき)といった南陸奥の諸大名に朱印状と幕府からの密書を届け、それぞれの返答を得ると一路信濃(しなの)へと向かっていったのである。





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