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1574年6月 別れも、そして新たな生まれも。



文禄二年(1574年)六月 尾張国(おわりのくに)名古屋城(なごやじょう)




 文禄(ぶんろく)二年六月。この月は高秀高(こうのひでたか)が居城の名古屋城に立て続けに二つの訃報が入った。六月四日、名古屋幕府の家老長野藤定(ながのふじさだ)の実父にして、長野工藤家(ながのくどうけ)の先代当主でもある長野稙藤(ながのたねふじ)が天寿を全うし死去。享年七十一歳。そしてそれから四日後の六月八日。元武田信玄(たけだしんげん)配下の家臣であり、秀高の客将を経て高家の重臣に真田家を加えさせた名将・真田一徳斎幸綱さなだいっとくさいゆきつなが、嫡子であり幕府家老の真田信綱(さなだのぶつな)が居城とする鳴海城(なるみじょう)にてその生涯を閉じた。享年六十二歳…。


「幸綱殿が…。」


 幸綱の死から二日後の六月十日。名古屋城本丸表御殿にある秀高の書斎、そこで秀高は上段に置かれた自身の机の前に座して、参上した信綱より父・幸綱こと一徳斎幸隆いっとくさいこうりゅうの死去を知らされると、その死を悔いるように下を(うつむ)いて言葉を発した。この秀高の言葉の後に信綱は気丈に振る舞うようにして言葉を続けた。


「はっ、我が父は信濃(しなの)の領地を離れてから十数年にわたり、上様にお仕えできたこと誠にありがたく思うと仰せにございました。」


「幸綱殿には尾張に来て以来、当家の客将の時から美濃(みの)攻めや三好(みよし)征伐の際に数々の献策を行ってもらった。特に勝龍寺(しょうりゅうじ)乗っ取りや芥川山城(あくたがわやまじょう)土竜(もぐら)攻めの二つは、真田幸綱の名を天下に示したと言っても過言ではない。」


 秀高は目の前にある書斎の机をじっと見つめながら、在りし日の幸綱の戦功を思い浮かべるように感傷に浸っていた。思い起こせば幸綱が長野業正(ながのなりまさ)の死を契機に秀高のもとに客将として仕えて以降、真田一族は秀高の飛躍となる数々の戦いにおいて積極的に戦功を立てた。特に三好長慶(みよしながよし)の大軍を迎撃する前哨戦としての勝龍寺城奪取の計略は鮮やかな物であり、それを褒め称える言葉を書斎の上段から述べた秀高に対して息子の信綱は務めて頭を下げて感謝の念を述べた。


「そのお言葉、ありがたきお言葉にございまする。我が父は臨終の際、真田一族を迎え入れてくれた上様への感謝の言葉を述べておりました。」


「そうか…幸綱殿には亡き信玄公の代わりに、不俱戴天(ふぐたいてん)(てき)である上杉輝虎(うえすぎてるとら)の滅亡を見届けて欲しかったんだがな…。」


 幸綱にしてみれば亡き主君の仇・輝虎討伐の果てを見届けることが出来ないのは心残りだっただろうと思った秀高が、幸綱の思いを代弁する様に言葉を発するとそれを聞いた息子の信綱は、それに触れた事で打ち明けられるこんな事を秀高に向けて進言した。


「それにつきまして上様、不躾(ぶしつけ)ながら父より遺言として、来る上杉征伐に向けた献策を与っておりまする。」


「献策だと?」


 信綱より亡き幸綱からの遺言とも言うべき献策を与っている事を聞いた秀高は、それまで俯いていた顔を上げて信綱に視線を向けてその策を問うと、信綱は返事をした後にその内容を秀高に向けて語った。


「はっ。我が父が申すに(いわ)く、「来る上杉征伐に際して信濃に侵攻する際には、信玄公と(ゆかり)深い木曽(きそ)諏訪(すわ)を調略すべし。」と。」


「木曽と諏訪?」


 この木曽と諏訪というのは信濃の中でも有力な国衆として名高く、特に木曽家は東濃の遠山綱景(とおやまつなかげ)遠山友勝(とおやまともかつ)らと国境を接する有力国衆であった。その木曽家と諏訪大社(すわたいしゃ)禰宜(ねぎ)としても知られる有力国衆・諏訪家の調略を提案された秀高に、信綱は言葉を続けて調略の詳細を語り始めた。


「はっ、木曽の当主・木曽義昌(きそよしまさ)殿は信玄公のご息女である真理姫(まりひめ)を娶っておりましたが、輝虎の圧に屈して木曽黒沢へ幽閉せざるを得なかった経緯があり、一たび交渉を行えば夫婦の仲を引き裂いた輝虎に反旗を翻すこと間違いないと我が父は申しておりました。」


「木曽義昌か…それで、諏訪というと諏訪勝頼(すわかつより)を?」


 木曽義昌が調略に応じる所以を聞いた秀高が、続いて諏訪家調略の対象でもある現諏訪家当主の勝頼について信綱に問いかけると、信綱は首を縦に振ってから秀高からの問いかけに応えた。


「その通りにございます。諏訪勝頼殿は信玄公と諏訪御寮人(すわごりょうにん)の子であり、信玄公が武田義信(たけだよしのぶ)殿よりも愛したと言われるお方にて、信玄公亡き後に輝虎によって武田家から完全に切り離され、諏訪家当主となった事に内心鬱屈した思いを抱いている筈と我が父は申し、義昌殿同様にこちらも調略するべしと。」


「確か…諏訪勝頼は先の東国戦役(とうごくせんえき)の際、武田義信と共に東山道(とうさんどう)から勝手に撤退していたな。そう言う事情があるのなら調略する価値があるという事だな。」


 数年前に行われた輝虎の東国戦役の際、上杉軍敗退の報に接した義信は村上義清(むらかみよしきよ)小笠原長時(おがさわらながとき)などの輝虎派の国衆たちや守護と対立して勝手に撤退。これに諏訪家の当主たる勝頼も応じて戦陣から離れたいきさつがあった。これを秀高が持ち出して信綱に尋ねると、信綱は首を縦に振ってから書最上段に座している秀高に少し頭を下げて言葉を返した。


「はっ。我が父の最期の献策である木曽と諏訪の調略は、きっと上様が志す輝虎討伐の手助けになる事となりましょう。どうかこの策、お聞き入れ頂きますよう…。」


「うん、分かった。幸綱殿の最期の献策、必ず成し遂げてみせよう。」


 秀高が信綱の頼みを聞きいれて信綱に言葉を返すと、徐にスッと上段の席で立ち上がると、上段の場から襖の向こうに広がる中庭の景色を見つめながら改めて幸綱の死について率直に思ったことを述べた。


「それにしても…年月が経つというのは残酷な物だな。自分の子供たちが時が経つにつれて成長していくのが楽しみである反面、支えてくれた家臣たちとの別れも来るんだからな。」


「上様…。」


 秀高の言葉を聞き、信綱は下段から上段の上座で立っている秀高の姿を見上げてその哀愁漂う姿を見つめていた。その後、秀高は幕府として真田幸綱、そして長野稙藤の両名に対し弔問の使者を発してその死を悼むと同時に、その子である真田信綱と長野藤定には名古屋から領国へ帰還させて各々の後処理を行わせたのだった。




————————————————————————




 亡くなる者もあれば生まれる命もあるとよく言ったものである。この年は真田幸綱など無くなる命もあったが産まれる命もあった。去る四月十日には三浦高意(みうらたかおき)にめでたく長女が生まれた。母は丹羽氏勝(にわうじかつ)の妹で、父・丹羽氏識(にわうじさと)の五女である「お(ふみ)の方」であるこの娘はその名を村松姫(むらまつひめ)と名付けられ、幕閣として奮闘する父に代わって母や時折訪れる祖父の三浦継意(みうらつぐおき)の養育を受けることになった。そして幸綱の死から数日後の六月十二日…。


「何、善助(ぜんすけ)に長男が!?」


「うん!産まれたんだって!」


 秀高の第一正室である(れい)が本丸裏御殿で歓喜の表情を見せながら伝えてきたことは、昨日の十一日に尾張より東の遠江(とおとうみ)浜松(はままつ)城主である徳川家康(とくがわいえやす)に成り代わっている口羽善助通朝くちばぜんすけみちともと、通朝と結婚した秀高とほぼ同じ年代の日本から転生して来た西郷愛衣(さいごうあい)との間に待望の長男が生まれたという内容であった。生まれた長男はその名も於義丸(おぎまる)。そう、元の世界では家康の次男であり越前松平家(えちぜんまつだいらけ)の祖となった結城秀康(ゆうきひでやす)の幼名そのものであったのだ。


「そうか…善助に長男が産まれたのか。」


「愛衣からの手紙からだと産まれた於義丸は、善助さんの意向で愛衣と結衣(ゆい)が二人がかりで養育に当たるって。」


「でも、これで徳川家の情勢も平穏無事というわけには行かなくなったわね。」


 と、本丸裏御殿の縁側で秀高の側で玲の話を聞いていた第二正室の静姫(しずひめ)が言葉を挟んで意見すると、その不穏な意見を聞いた玲が少し不安になってその理由を尋ねた。


「どう言う事?平穏無事にいかないって…。」


「善助次第では、徳川家の家督は高康(たかやす)じゃなく於義丸が継ぐという事になるという事だ。」


 秀高が於義丸が産まれた事による徳川家の情勢の変化を、問われた静姫に代わって玲に告げた。三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで死した家康本人からその子への徳川高康(とくがわたかやす)への代替わりは本多作左衛門重次ほんださくざえもんしげつぐら徳川家臣と秀高が約束した事実であり、影武者でもある善助はいわば中継ぎ(・・・)の立ち位置で徳川家の家督に収まる人物ではなかった。しかし今回善助に実子が産まれた事により、善助の考え如何では高康へ徳川家の家督相続を白紙に戻し、実子の於義丸へと家督を相続させることが可能になるのだ。その予測を聞いた玲は驚きながらも秀高に向けて言葉を返した。


「でも、徳川家の家臣は皆、高康に継がせるべきだって言って来てるんだよね?」


「それはあくまで家臣団がそう言っているだけだ。今の善助は影武者ではあるが徳川家康としての実権を有している。人間、親ならば子が一番かわいい物だ。それが大名なら血が繋がっていない者に家督を継がせるより、血の繋がった我が子に家督を継がせたいと思うのは親として当然の感情だ。」


「そうね。もし善助が徳川家康(・・・・)として我が子への家督を優先させたら…。徳川家は割れることになるでしょうね。」


 善助の実子・於義丸の存在が徳川家中に新たな火種を生み出したことを、静姫が秀高の傍らで予測する様に言葉を発した。するとこの予測を聞いた秀高は裏御殿の縁側から中庭の向こうにある名古屋城の四層の天守閣を視界に収め、この場で広がりつつあった重い見通しを払拭させるような言葉を二人に向けて返した。


「まぁ、俺としては善助には高康への徳川家継承を行ってくれることを切に願うだけだ。」


「そうだね。私もそう思うよ。」


 秀高の言葉に玲はしっかりとした口調で返事を返した。この六月は秀高にとっては別れも、そして新たに生まれた命を噛みしめるように思いを馳せる月となり、それと同時に秀高はこれからの先の未来に向けて、より邁進しようと同時に決意するのであった…。





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