1574年4月 基礎固め進む幕府
文禄二年(1574年)四月 尾張国名古屋城
文禄二年四月十日。春の陽気に誘われて名古屋城下に桜の花が満開となって咲き乱れる中、将軍・高秀高が居城の名古屋城では在府の幕府重臣たちが本丸表御殿の大広間に集まり、大広間の上段にある上座に座す秀高と嫡子・高輝高に向けて昨年来から幕府家老たちによって進められていた諸政策の報告を受けていた。
「康徳年間に畿内や当家の領内で発布されていた刀狩令を、先月から幕府に従属する諸大名全ての領内でも実行するように命じました。これで諸国の農村は武装能力を大きく削がれ、万が一に一揆が起こっても、農民たちの武力はほぼ無力となり鎮圧も容易になりまする。」
「うん。」
上座に座す秀高は、刀狩令について語った幕府家老・安西高景からの報告を聞いて一言で相づちを打った。かつて室町幕府内で先行して施策された刀狩令は畿内や秀高の領内に存在していた惣村の武装能力や権力を削ぐことに成功しており、この法令を秀高ら名古屋幕府は今現在で秀高に従属する諸大名の領内全てに実行するよう命じていた。その結果、三月より始まった各国の刀狩令によって一部分で反発は起こったものの、大部分の農村は検地帳の提出によって石高が決められ、かつ統治する大名や幕府の圧力に屈して農村にあった刀や槍、弓といった武装全てを供出。これによって諸大名の農村部から隠れ武具の類は一掃され、それらの武具は全て各々の大名家に収められたのだった。こうした刀狩令の報告を聞いた秀高の相槌の後、続いて発言したのは同じく幕府家老として参列する山口重勝であった。
「旧室町幕府にて発案された撰銭の禁止よって良質な銭貨はある程度出回る様になりましたが、依然京では京銭と呼ばれる鐚銭が流行しておりまする。そこで幕府は此度、この京銭を幕府の標準銅貨に定めて撰銭の長所を失わせます。」
「鐚銭をか?」
鐚銭とはいわゆる「私鋳銭」(公に鋳造された銭貨ではなく、私的に偽造された銭)の事であり、古くは鎌倉時代後期に大陸から宋銭が流通すると同時に現れた歴史を持つ。数年前に室町幕府はこれら鐚銭を商人や領主が勝手に排除する撰銭を禁じたが、それ以降でも水面下では撰銭が行われて貨幣の流通価値が不安定なままが続いていたのだ。そこで名古屋幕府はいっそのこと鐚銭を幕府の公式な標準銅貨とし、これで畿内や東海に根付く鐚銭への忌避を失わせて貨幣経済への嚆矢にしようとしたのである。
「はい。幕府が一度鐚銭を公式な銅貨に定めてしまえば、幕府の手前商人や領主たちも勝手な撰銭を控えるのみならず、むしろそれらを流通させて貨幣の価値を安定化させることも出来ると考えましてございます。」
「そうか…分かった。その通りに進めてくれ。」
「ははっ。」
秀高より実行の許可を得た重勝は頭を下げてから返事を返した。それを聞いた秀高が首を縦に振って頷くと、これに関連する内容を幕府家老の丹羽氏勝が続けて発言した。
「これに関連して名古屋の城下町の南側、錦町の長島町通りに金座・銀座を開設。金座では諸国から献上される金を小判に、また銀座では銀地金を灰吹法を用いて灰吹銀改鋳し、これらを幕府の秤量貨幣に定めて貨幣の取引価値を定めまする。」
この頃、名古屋城より南の錦通り長島町には幕府公用方の金座に銀座、そして銭座が設けられ、そこが幕府の貨幣鋳造における中枢部として機能し始めていた。この金座・銀座を差配するのは室町幕府の御用金匠を務めた後藤光乗・徳乗父子であり、この後藤父子の働きによって幕府の金・銀の改鋳事業は銭座と共にようやく軌道に乗り始めたのである。
「そうか…いずれ天下平定が成れば貨幣経済も成り立つだろう。それに備えて後藤父子にはしっかりと働くように命じておけよ?」
「ははっ!!」
秀高の言葉を受けた氏勝は重勝と共に頭を下げて命に服した。やがて氏勝と重勝が再び頭を上げた後、続いて幕府家老の小高信頼が秀高に向けて幕府で取り決められた内容を報告した。
「名古屋城の南西部に日本橋という名の橋を架橋して、そこを街道の起点として五街道を整備。交通や流通の流路とするよ。」
「そうか。」
この日本橋というのは、秀高たちが元いた世界では名古屋城から南西部にある景雲橋の位置にかけられた全く別の橋であり、信頼は元いた世界で江戸幕府が江戸の日本橋を起点に五街道を整備した事に倣い、名古屋にも日本橋を架けてそこを名古屋への街道の起点としてそこから諸国に通じる街道の整備を行った。即ち日本橋から南東の三河方向へ東海道。北東の美濃方向へは信州街道、北西の京方向に中山道が配され、南西には同じく京に通じる伊勢街道が整備されたのであった。これらの方策を聞いた秀高が返事を一言で発した後、信頼が秀高に向けて不意に用件を切り出した。
「それと…これは幕臣一同から秀高、そして輝高に向けての奏上なんだけど良いかな?」
「聞こう。」
秀高より発言を許可された信頼は両手を畳の上に置いて姿勢を低くすると、視線を上座の秀高へ向けながら奏上の内容を述べた。
「武家諸法度にも記してある南蛮貿易を行う際に必要な朱印状を諸大名や商人に発布する際、その末尾に「日本国王源秀高」の名を書き記したいと思うんだけど良いかな?」
「日本国王…?」
昨年秀高が将軍宣下を受けて諸大名に発布した武家諸法度の中には、それまで自由かつ不干渉となっていた南蛮貿易を幕府からの許可制としてある程度の制限を加えると書き記されていた。この条目に従い幕府重臣たちは今年になってそれら南蛮貿易を行う西国の諸大名や商人、それに日本に交易に来た中国や欧州の商人たちへの朱印状の発行業務にかかり始めていたのだが、その際に発布される朱印状の末尾に秀高の名を示す「日本国王源秀高」の一文を書き連ねて朱印状の権威を高めようというのが信頼の奏上の内容であった。
「いわば日本国内での交易許可証となる朱印状は、場合によっては遠い大陸の国王の眼にも入るかもしれないからね。それを考えた場合、日本国王に相応しい秀高の名があればきっと相手方も納得せざるを得ないと思ってね。」
「だが俺は日本国王じゃないぞ?この国の国王は天子(天皇)様だろう?」
「あくまでも方便にございます。」
と、否定的な見解を示した秀高に信頼の背後から発言したのは、幕府家老としてこの席に列していた細川藤孝であった。藤孝は旧室町幕府の幕臣という経歴を活かし、かつての故事を持ち出して否定的な秀高を説得するような言葉をかけた。
「その昔、鹿苑院(足利義満)殿が明に貿易を求めた際、明の朝廷は鹿苑院殿を「日本国王」として冊封した故事がございまする。これに倣って上様が日本国王を名乗りあそばせば、諸国の交渉に一役買うのは間違いございませぬ。」
「方便、か…。」
「父上、宜しいのではないでしょうか?あくまで相手は明ではなく南蛮にて、細かい事情を知らぬ相手ならばその方便も通用しましょう。」
と、同じく上座で会話を聞いていた嫡子の輝高が秀高に言葉をかけると、その言葉に反応して背後にいる輝高の方を振り向いていた秀高はふっとほくそ笑み、その後に顔を下段の信頼や藤孝の方を向き直して言葉を返した。
「分かった。ならばこれから発行される朱印状には、「日本国王源秀高」の名を書き記せ。」
「うん。分かった。」
こうして秀高が率いる幕府は、樹立から二年目でありながら徐々に幕府の諸政策を実行していった。未だ国内には上杉輝虎が支配する鎌倉府などの抵抗する諸勢力や、未だ旗幟を鮮明にしない中国・四国・九州の諸大名が控えてはいたが、その中でも秀高は着実に幕府の基礎を固めていったのである。




