1573年8月 畠山改易
文禄元年(1573年)八月 尾張国名古屋城
「輝長殿…いや、畠山輝長がやったのか?」
名古屋城本丸表御殿。高秀高が所謂「高屋騒動」の詳細を耳にしたのは八月二十日。折しも季節外れの雨が降りしきっている日の事であった。秀高は本丸表御殿の書斎の上段から下段におり、縁側に繋がる敷居を跨がずにそこから中庭に振っている雨の様子を見つめながら、背後の下段にいる幕府家老の森可成に安西高景、それに大高義秀や小高信頼の四名と、脇に控えていた側衆筆頭の三浦継意より騒動の更なる仔細を背を向けつつ聞いていた。
「堀尾泰晴からの早馬によれば、去る十四日に畠山殿は高屋城にて安見宗房ら四人を誅殺。泰晴らが畠山殿に問いただしたところ、「全ては己の一存で行った」と証言していると…。」
「幕府の使者を待たず勝手に片方の主要人物を斬り捨てるとは、言語道断にございまする!!」
可成が秀高に向けて語った後、その場にいた高景が輝長の所業を非難する言葉を述べた。その中でも秀高は敷居の中から外に広がる中庭の方を向き、降りしきっている雨をじっと見つめつつ言葉を背後にいる信頼に向けて尋ねた。
「信頼、今回の一件は武家諸法度に抵触しているな?」
「うん。武家諸法度の「幕府からの使者を待って裁可に従う事」の違反をしているよ。のみならず今回の端緒も含めれば、安見宗房らが「徒党を組んで謀議に及ぶ事の禁止」を犯しているし、極めて重罪と見て間違いないね。」
「じゃあなんだ、あれだけ大恩ある畠山家を取り潰すってのか!?」
と、秀高と信頼の会話を聞いて誰よりも情に厚い義秀が急に怒りだした。義秀にしてみればこの場の議論の方向性がある程度見え、それが長年世話になった畠山家を蔑ろにする物であると感じていたからこそ、義秀はこの場で居ても立っても居られずに声を上げたのである。するとこの義秀の言葉に対して諭す様に言葉を返したのは可成であった。
「義秀、大恩あろうとなかろうと、幕府が定めた法度に違反せし罪は免れがたい。それが親しき大名家ならば尚の事じゃ。」
「おっさん!俺だって無罪にしろなんてことを言ってるんじゃねぇ!!せめて紀伊の没収か、大半の知行を没収した上で美濃か尾張に転封させるのが妥当じゃねぇのか!?」
「…甘い。」
とその時、義秀の処分案を聞いた秀高が背中を向けながら呟くように言葉を発した。この言葉を聞いて義秀が素早い速度で秀高の方を振り向くと、それを背中で感じ取った秀高は義秀に対して幕府の長としての立場を踏まえて反論した。
「義秀、ここまで幕府を虚仮にされておきながら、その処分じゃあ他の大名は幕府など恐れるに足らずと軽侮するだろう。例え付き合いがある大名でも遠慮は無用だ。」
「秀高…お前!」
秀高の言葉を聞いて義秀が食って掛かろうとすると、それを義秀の前にいた信頼が手で抑えて止めた。そして今まで中庭の方を振り向いていた秀高は踵を返して広間の中の方を振り向き、義秀や可成らに顔を見せた上で側に控えていた継意に将軍としての処分案を発表した。
「継意、畠山輝長は家中不始末、並びに幕府の使者を待たずに独断で差配した事許しがたい。よって所領の河内・紀伊二ヶ国全て没収し、輝長ら畠山一門はこの尾張に蟄居閉門処分とする。この事、伏見城代(北条氏規)と京都所司代(増田長盛)に伝えておけ。」
「ははっ、しかと承りました。」
この秀高の言葉によって、その場にいた幕府家老たちは秀高の容赦ない差配を改めて知ることになった。継意に向けて上方への伝言を頼んだ後、続いて秀高はその場にいた可成の方に視線を向けてこの処分案に関する命令を伝達した。
「可成、お前には自らの軍勢と神余高政・神余高晃兄弟の指揮する幕府軍を引き連れ、河内・紀伊国内の畠山家の各城を接収しろ。その際、反抗する意思を見せる国人がいたら遠慮はいらない。全て滅ぼせ。」
「秀高!!」
とその時、義秀は信頼の制止を振り切ってすくっと立ち上がるや、秀高に近づくなり胸ぐらを掴んだ。これを見た継意が立ち上がって義秀を秀高から引き離そうとしている中で、義秀は秀高の胸ぐらをつかんだまま秀高の冷酷な差配を叱りつけるように言葉を放った。
「お前には、血も涙もねぇのか!!輝長殿は…お前と室町幕府で共に幕政を取った協力者だろうが!その人にこんな仕打ちをして心が痛まねぇのか!!」
「…心は痛んでいるさ。だがな、今の俺は天下人。幕府の頂点に立つ将軍だ。そこに私情を差し挟んではそれこそ今後に大きな禍根を残す。」
「秀高…。」
この秀高の返答を聞いた義秀が力を緩めた隙に継意は秀高から義秀を引き離し、再び信頼の背後に座らせた。この時義秀は秀高があくまで私情を一切差し挟まず、あくまで天下のため。幕府の為に動きつつも内心ではわずかに心が痛んでいる事を聞いて、自身の中にあった怒りをぶつけるように畳をドンと一回小突いた。するとその場の空気を変えるように、秀高から軍勢指揮を託された可成が秀高に向けて手を付きながら、命令に承服する意向を示した。
「しかと承りました上様。この森可成、ご下命に従い畠山の諸城を接収して参りましょう。」
「うん、頼んだぞ。」
秀高は可成に対し返事を返すと、再び踵を返して外に広がる中庭とそこに降りしきっている雨の様子を再び見つめ始めた。秀高の胸中には先程の言葉にもある通り、恩人でもあり幕政における同僚でもあった輝長の事を思えば心苦しい感情があるのも事実であった。しかし今、秀高は名古屋幕府の将軍として存在しており、その身分と職責の重さを鑑みれば私情を差し挟むわけにもいかず、秀高の中にも未だ非情になり切れていない自分がまるで滝行の様に打たれる様を、降りしきる雨を見つめて思い浮かべながらじっとその場で立ち尽くしていたのだった。
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この高屋騒動を経た幕府の畠山家に対する処分は、幕府に臣従する諸大名を震撼させるに十分であった。畠山家が河内・紀伊六十六万三千石を没収された後、森可成と神余高政・高晃兄弟が指揮する幕府軍は二手に分かれて畠山領内の諸城を接収。それと同時に城割りと従属国衆の吸収を進め、これに反抗した紀伊国人の野長瀬盛秀を攻め滅ぼし、同時に湯川直光を筆頭に玉置直和や小山隆重、堀内氏善ら南紀の国人衆から服属を得て領土安堵の確約を渡した。
そして当事者となった畠山輝長と弟の畠山政尚、畠山政頼らは尾張の旧小牧山城に近い政秀寺に送られ蟄居閉門を命じられ、そこで輝長は剃髪して名を一空と号して余生を過ごすことになった。ここに名古屋幕府は草創直ぐでありながらも諸大名を統制できる力を示し、幕府の権威が強大であることを天下に示したのである…。




