1573年7月 幕政と変局の始まり
文禄元年(1573年)七月 尾張国名古屋城
文禄元年七月一日。朝廷からの将軍宣下により正式に「名古屋幕府」が発足すると、高秀高が居城の名古屋城では早速にも重臣たちが「幕閣」としての活動を始めた。即ち諸国の検地帳を元にした諸大名に対する知行朱印状の発行の作業を執り行っていた。この朱印状は従来の守護に代わる領地統治の根本になる物であり、秀高に従属した諸大名はこの朱印状発行を心待ちにしていたのであった。
「…にしてもよ、やはりというかなんと言うか。」
「ん?どうしたの?」
名古屋城本丸表御殿にある重臣の間。そこに検地帳といった全国の資料が集められ、その中で「幕府家老」として知行朱印状作成に取り掛かっている大高義秀と小高信頼は、二人の秘書的ポジションでこの場にいるそれぞれの正室、華や舞から検地帳などの資料を受け取りながら目の前の机にて諸大名宛ての朱印状を書いている中で、義秀は目の前の朱印状を見つめながら信頼に話しかけた。
「今の幕府に従属する諸大名の方が、所領の石高が多いんだな。秀高の意向で譜代の大名達は概ね十~二十万石に抑えられているようだが…。」
「そうだね。今の所譜代で多くの石高を貰っているのは、佐治八郎為興殿で、加賀江沼郡を除いた加賀国の三郡計二十五万七千石だけで、それ以外の譜代大名は殆どが二十万石以下に所領しか貰ってないね。」
先の東国戦役の際、北陸道を進む畠山輝長率いる幕府軍を阻むべく尾山御坊の門主代理である七里頼周が加賀一向一揆を引き起こし幕府軍の足止めを行った。しかし数に勝る幕府軍は各地の一揆衆を懐柔若しくは殲滅。そして七里頼周を尾山御坊にて討ち取って一揆を鎮圧し、戦後に畠山輝長は尾山御坊を再建しそこには越中瑞泉寺の顕秀を入れると本願寺派の門主・顕如に伝えていた。
しかし足利義輝の死によって幕府が滅亡となると顕如は秀高に申し出て尾山御坊一帯を宗門の知行として与えられるならば加賀一国を秀高の差配に任すと伝え、これを聞いた秀高によって毛利長秀が大聖寺の城持大名として加賀江沼郡六万六千石。そして残る加賀の大部分が佐治為興に与えられ、為興は尾山御坊の西南にある松任城に入ってそこの城主に任ぜられたのである。
「まぁ為興もよく加賀への転封を受け入れたもんだぜ。佐治っつたら在地の豪族だったろう?生まれ育った土地を離れるなんて余程の覚悟がねぇと出来ねぇもんだぜ。」
「そうとも限らないわよ?ヒデくんから聞いた話だと為興は領内の家臣や水軍衆を指揮する船大将を引き連れ、加賀で自前の水軍を作ると息巻いてむしろ率先して転封を引き受けたそうよ。」
義秀の話を聞いていた華が、義秀に朱印状作成に必要な資料を手渡しながら発言した。この華の発言の後に同じく夫の信頼に資料を手渡ししていた舞が、今現在の情勢を踏まえながら加賀への転封話の利を語った。
「それに今現在、北陸側に当家の水軍衆はおろか在地の諸大名の姿はありません。為興殿や長秀殿が加賀にそれぞれ所領を持つことで、北陸側の幕府諸侯ににらみを利かすことが出来るんです。」
「つまり、為興は私情より現実的な観点から判断した。という訳だね。」
信頼が舞から資料を貰った後に義秀に向けて言葉を言った後、机に向かって朱印状を書き記している中で義秀は墨の付いていない筆を指先で器用に回しながら、自身も今時点での情勢を踏まえて発言した。
「なるほどな…確かに俺の所領の若狭からじゃあ越前を跨いだ向こうまでの監視は出来ねぇし、加賀に俺たちの息が掛かった大名を置くのも自然な道理かぁ…。」
「勿論、これから幕府が各地の大名を従属させていく中でも、この高家の家臣たちを城持大名として配置していくから、より中央である幕府の権威は地方に浸透していくことになるね。」
すると、信頼のこの言葉を聞いた義秀は何かを思い出したかのように、華からある資料を受け取った。それは京の将軍御所に収納されていた、康徳五年(1571年)初頭に当時の諸大名から提出された指出検地帳で、義秀は検地帳の貢をペラペラと捲りながら信頼にこう言葉をかけた。
「だがよ信頼、諸大名の中で徳川や浅井、それに阿波の細川はこっち側だから置いておくとして、専ら気掛かりなのは中国の毛利じゃねぇか?」
「うん。先月の将軍宣下の際も使者を参列させたにとどまって、毛利隆元を始め毛利傘下の諸大名皆、領国へと帰還してこちらに顔を見せに来る気配もないからね。」
先の秀高に対する将軍宣下の際、毛利隆元や吉川元春・小早川隆景などの毛利一門から三村親成、宇喜多直家といった毛利傘下の諸大名は式典に参列せず、それぞれの使者を代理として立てて参列するにとどまっていた。それら毛利の予断を許さない状況を述べた信頼に対し、義秀は開いていた検地帳の中から中国地方の項目を信頼たちに向けて開いて見せながら言葉を返した。
「ほら見て見ろ。毛利の影響下にある諸大名全ての石高を大目に計算してみると、十二ヶ国で二百二十万石以上あるぜ。これだけでも徳川や浅井といった俺たちに近い諸大名のみならず、秀高が直轄地としている石高を優に超えているんだぜ?」
「確かに…この毛利の動き次第では幕府の屋台骨は揺らぎかねないわ。もし先の諸法度実施に不満を持つ諸大名が毛利と連動することになれば、私たちは二正面に敵を抱えることになるわよ?」
「その心配はいりませんよ。」
とその時、この一室に秀高が嫡子の高輝高を連れて現れ、華の言葉に対して返事を返しながら義秀らの側に腰を下ろすと、その言葉を聞いていた義秀が開かれていた検地帳を片手に持ちながら聞き返した。
「秀高、それはどう言う事だ?」
「毛利ら本人たちが先月の将軍宣下に来なかったのはこちらを敵対視している訳じゃない。寧ろそう簡単に頭は下げないぞという意思表明だ。それにこっちが憤って服従を迫れば、その時こそ毛利は幕府に対して兵を挙げて東国の鎌倉府と二正面作戦に陥る可能性がある。」
「それじゃあ秀高さん、毛利に対して何も手を打たないのですか?」
すると舞からの問いかけを聞いていた秀高は、義秀から開かれていた検地帳を受け取るとそれを片手で示しながら舞への問いかけに答えを述べた。
「いや、手は打つ。大名本人じゃないとはいえ、毛利らは形として将軍宣下の式典に参列した。それを見れば毛利たちにも知行安堵の朱印状を発行するべきだろう。だが…少し意趣返しはしてやるべきだな。」
「意趣返し?」
秀高の発言を聞いて背後にいた輝高がオウム返しをして聞き返すと、秀高は背後の輝高に対して二槍をほくそ笑んだ後に信頼の方を振り返り、それまで義秀が開いていた検地帳の中の中国地方の項目を見つめながらこう尋ねた。
「信頼、確か吉川元春の所領は吉川本領の安芸一郡の他、出雲や隠岐、それに伯耆に因幡まで伸びているんだったよな?」
「うん。毛利の中では毛利本家に迫る石高を有していて、そのお陰で毛利家中の発言力は元春の方に軍配が上がっているそうだよ。」
この頃、吉川元春は吉川家代々の居城がある安芸山県郡を始め出雲などの山陰四ヶ国を影響下においておりその石高は五十七万石にも昇っていた。これは毛利本家が領有石高としていた六十五万石に迫る石高であり、それが毛利家中での発言力を示していた。尚且つ元春は康徳播但擾乱以降、毛利家に泥を付けた秀高の事を嫌悪しており、それが毛利家と秀高ら名古屋幕府の間に大きな亀裂を入れる要因になる事は自白の明であったのだ。それを信頼から聞いた秀高は、検地帳の項目を指差しながら意趣返しの内容をその場で発した。
「ならばこうしよう。知行安堵の朱印状をもう二人増やし別々の大名として扱うことにする。つまり因幡は吉川の分家で石見吉川家当主、かつ鳥取城主でもある吉川経安に、伯耆は有力国人の羽衣石城主・南条宗勝にそれぞれ一国ずつ安堵する。」
「なるほど…それで行けば因幡は吉川経安に十三万二千石。伯耆は南条宗勝に十七万五千石になるから、それを差っ引けば吉川元春の所領は二十六万三千石になる。こうすれば小早川隆景の所領(二十六万五千石)と同じくらいになるから、元春が毛利家中で発言権を振るう事は出来なくなるね。」
この秀高の意趣返しを聞いた信頼が言葉を発して反応し、同時に華や舞なども深く頷いて納得した。すると秀高が広げていた検地帳の中の中国地方の項目を見てから、義秀が顎に手を当てながら深く頷いて言葉を秀高へ返した。
「へぇ、見事に意趣返しになるじゃねぇか。だが、これを聞いたら元春はさぞ怒るだろうぜ。」
「そうだろうな。だが自分が怒ったところで最早毛利家が動くわけじゃない。これからは当主である隆元の命令により一層従うことになるだろう。」
この差配は毛利家中の中で対幕府強硬派と目される吉川元春への釘刺しに他ならず、こうなってしまっては石高の兼ね合いで元春の発言権が低下するのは目に見えており、将来的に元春が毛利家中の論調を幕府強硬に舵切る事は難しくなったのである。その差配を聞いていた輝高は目の前の父・秀高に対してその先の予測を語った。
「問題は、隆元がどこまで幕府に従う意思があるか、ですね?」
「そうだ。輝高、くれぐれも毛利家には大きく出過ぎず、だが堅実に名古屋への参府を促す事が今の状況で大事な事だ。その事を心しておけよ?」
「ははっ。」
この後、幕府は諸大名に対する知行確定の朱印状を発行。これは将軍宣下に参列した諸大名は言うに及ばず、使者だけを派遣した毛利隆元や傘下の諸大名に対しても発給された。この中で徳川家康は東海三ヶ国に計七十五万二千石。浅井高政が近江三郡と越前合わせて八十八万一千石と大禄を得ており、現時点では幕府と従属する諸大名との間に石高の差は開いておらず、名古屋幕府はまだまだ諸大名に対して顔色を窺わなければならない状況であった。しかし、時勢というのは時に流れが急に変わる物。両者の石高の差が徐々に開くきっかけとなる一つの事件が起こったのは、朱印状発行から僅か一月後の事であったのである…。




