表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
546/598

1573年6月 武家諸法度発布



文禄元年(1573年)六月 山城国(やましろのくに)伏見城(ふしみじょう)




 文禄(ぶんろく)元年六月三日。朝廷からの将軍宣下により正式に「名古屋幕府(なごやばくふ)」が発足して征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の座に就いた高秀高(こうのひでたか)は将軍宣下の翌日、伏見城本丸表御殿は大広間に勢揃いした諸大名に向けて「康徳法令(こうとくほうれい)」に代わる新しい法度である「武家諸法度(ぶけしょはっと)」制定を布告。後に「文禄令(ぶんろくれい)」と呼ばれる初期の武家諸法度は康徳法令の条文を取り入れつつ更なる強化を施した法令となった。


「一つ、諸大名をはじめ日ノ本中の武士は(もっぱ)ら文武両道、(すなわ)ち学問と武芸を磨き精進を重ねる事。一つ、諸大名をはじめ日ノ本中の武士は、身に余る酒宴や遊興を控え、皆ほどほどに(たしな)む事…」


 本丸表御殿は大広間にて諸大名が下段に頭を下げつつ勢揃いする中で、諸大名らの脇に筆頭家老にして幕臣首座に就いた三浦継意(みうらつぐおき)を先頭に大高義秀(だいこうよしひで)森可成(もりよしなり)安西高景(あんざいたかかげ)佐治為興(さじためおき)丹羽氏勝(にわうじかつ)らが居並び、そして上段の秀高を背にして小高信頼(しょうこうのぶより)が長い巻物を広げながらその中に書かれていた条文の一つ一つを諸大名に向けて布告するように読み上げていた。


「一つ、法度に背いた者を私情によって領地に隠匿するのを固く禁ずる事。一つ、諸大名や武士は、雇った直臣や陪臣が謀叛を起こしたり殺害したという訴えあらば、速やかにこれを追放する事。一つ、諸大名や豪族、並びにその家臣たちは勝手に私闘を行ったり、また主君への謀反を固く禁ずる事…。」


 信頼から告げられる新たな幕府が発行する諸法度を聞き、下段に勢揃いする諸大名達は旧来の室町幕府(むろまちばくふ)とは段違いの法令の数々に、秀高率いる新たな幕府が諸大名などの統制に意欲的であることをむざむざと思い知らされたのである。その信頼が読み上げた新たな武家諸法度のその他の条文は以下の通りである。




————————————————————————




一つ、諸大名の家臣たる武士たちは徒党を組み、家中で諍いを起こしたり謀議に及ぶのを固く禁ずる事。


一つ、この法度以降、諸大名は特例を除き領内に新規の築城を行う事を固く禁ずる事。


一つ、もし天災などで城が損害を負った時は、幕府奉行の立会いのもとですべて元通りに修築する事。


一つ、諸大名並びに豪族はこの法度の施行以降、特別な理由を除き他国の者を家臣として取り立てるのを禁ずる事。


一つ、諸大名は各々の領土を清廉に統治し、領民を(おもんばか)る事。


一つ、諸大名並びに豪族は己の私欲にて、領内の各郡や各村落を衰亡させてはならない。


一つ、もし領内にて諍い起こった時は独断で裁断せず、幕府からの使者を待ってその裁可に従う事。


一つ、諸大名や豪族・地侍など諸侍(しょさむらい)間の婚姻は必ず幕府の許可を得る事。


一つ、諸大名含め各地の諸侍は、領内の街道に私設の関所を設け、街道の往来を妨げる事を禁ずる事。


一つ、諸大名や各藩家老などの上級武士並びに公家以外の者が、勝手に輿などの乗り物に乗る事を禁ずる事。


一つ、南蛮との貿易を行う際には、事前に幕府からの朱印状を得て決められた品物を用いて貿易を行う事。同時に無断交易並びに密貿易はこれを固く禁ずる事。


一つ、領内にて望まぬ者に対し、切支丹への改宗を強要したり宣教師と組んで布教を推し進めるのを固く禁ずる事。


一つ、他の家中にて問題を起こした者を、自らの家中に加える事を固く禁ずる事。


一つ、大名及び大商人は、五百石積み以上の商船・軍船の建造を基本禁止する事。但し、已むに已まれぬ事情がある場合には、幕府奉行指導のもと軍船・商船を建造する事。




————————————————————————




 これら合わせて十九ヶ条に及ぶ武家諸法度を聞いた諸大名達は、改めて秀高率いる幕府が今までの幕府と全く違う事を思い知らされ、諸大名の中には今まで許されていたことが出来なくなると知って、不満を抱く者も少なからずいた。しかし…


「…以上の法令を以て幕府の新たな武家諸法度と為し、諸大名並びにその配下の武士皆々に至るまで、これを順守する事!文禄元年六月三日。征夷大将軍・高秀高。」


「ははーっ!!」


 信頼から秀高の名前が告げられた後にいの一番に承服を示す返事を発したのは、諸大名の中でも大大名と目されている徳川家康(とくがわいえやす)その人であった。そしてこの家康に続けて浅井高政(あざいたかまさ)細川真之(ほそかわさねゆき)といった現時点での幕府従属諸大名の中で高禄持ちの大名が承服の意を示すように頭を下げると、諸大名達はその場で不服を顔に出すことも出来ず、渋々と頭を下げる事しか出来なくなったのである。




————————————————————————




「ええい、秀高殿は我ら大名衆を煙たがっておられるのか!!」


村重(むらしげ)殿、滅多なことを申されるな。我ら一同、そうなる事を覚悟して秀高殿…上様にお味方したのではござらぬか。」


 諸大名に対して武家諸法度が布告された後、本丸表御殿内の控えの間に戻った諸大名の中から、大きく声を上げて不服の意を示した荒木摂津守村重あらきせっつのかみむらしげに対して細川兵部大輔藤孝ほそかわひょうぶたいふふじたかが村重に対して自制を促す発言をすると、村重は藤孝の方を振り向いてから食い掛った。


「何を申されるか藤孝殿!貴殿は上様より幕臣として迎えられることが決まっておる故その様に悠長にしておられるのであろうが、我らが領国は不安定なままにて、旧幕府直轄の城主たちや自立心高い豪族を抱えておるのでござるぞ!それを先程の諸法度が施行されれば、きっと目を付けられて改易されるは目に見えており申す!」


「ならば、速やかに領国に立ち戻り荒木家が頂点の体制を作れば宜しいではないか。」


 と、村重や藤孝の会話を聞いて口を挟んだのは、両名に対して背を向けていた松永弾正少弼久秀まつながだんじょうしょうひつひさひでであり、久秀は背後にいる村重に向けて背中を向けながら、今まで領内の問題を放置していた村重に対してややとげ(・・)のある物言いをした。


「それを為さずに放っておいたのは、旧幕府の権威に(すが)った怠慢という物。今の今になって泣き言申すは、それこそ見苦しい物ではござらぬか?」


「久秀殿!!何を申されるか!」


「御両所、上様のご城中でございまするぞ!何卒ご自制あれ!」


 久秀の言葉を受けて村重が逆上せんばかりに声を上げると、それを聞いていた別所安治(べっしょやすはる)が村重と久秀に対して喧嘩になるような事はやめるように諭した。これを聞いて久秀は安治に向けて承服したと一回頭を下げ、そして村重もまたその場に腰をどうっと音を立てて下ろした。すると、その場で不満を吐露した村重に対し、この場に参列していた旧幕府管領(かんれい)畠山輝長(はたけやまてるなが)が、脇に能登畠山家(のとはたけやまけ)当主で幽閉から復帰した畠山義慶(はたけやまよしのり)がいる中で村重に語り掛けた。


「…村重、それを言うのであれば我らの所領とて同じことよ。今、我が家中でも新たな体制を取ろうとしておるが、それに反発する家臣や地侍も少なくない。」


「管領殿…。」


 かつて室町幕府草創の重臣の一家として、長きにわたり室町幕府の中枢に関与して来た畠山家。三好長慶(みよしながよし)征伐以降、秀高の推挙を受けて幕府管領の座に就いて幕政の中枢を担ってきた輝長は、将軍・足利義輝(あしかがよしてる)の死から始まった一連の世の流れを受けて自身が領内統治の背景としていた幕府管領の座、そして各国守護の座が無くなった事により今までのような半強権的な統治体制が取れなくなったことを、誰よりも機敏に感じ取っていたのだ。


「村重、もはや我々は今までのやり方が出来なくなったのだ。秀高が…いや上様があのような武家諸法度を施行されたからには、務めて家臣たちの掌握や家政の改革を推し進める他は無いのだ。くれぐれもそこをはき違えるでないぞ。」


「輝長殿…ははっ。承知致した。」


 輝長からの言葉を受けた村重はようやく気持ちを落ち着けて、輝長に対して返事を返した後に藤孝の方を振り向くと、藤孝は村重の顔を真っすぐに見つめつつ村重に対し心しておくべきことを言葉にして伝えた。


「村重殿、くれぐれもこれだけは心しておかれよ。我らが秀高殿を奉じた以上は、秀高殿こそが天下を導けると信じて従わねばならぬ。良からぬ事を考えて家の存亡を招く事だけはくれぐれもお気を付けなされよ。」


「うむ、相分かった。藤孝殿。」


 この言葉を聞いた村重が藤孝に向けて頭を下げたことにより、それまで不穏な空気が張り詰めていた控えの間の空気は一気に晴れやかになった。そしてそれらのやり取りを見ていて、万が一の際には仲裁に入ろうとしていた家康は、藤孝に向けて頭を下げた村重を離れた位置で見つめながら心の中でこう思った。


(一時はどうなるかと思ったが…今の所は諸大名も秀高への服従に傾いておるようだ。)


 家康やその隣に座していた高政、真之ら秀高に近い三名とは別に、村重や安治ら外様の立ち位置は新しい幕府の中では不安定な物になりつつあった。しかし諸大名達は秀高を天下人として仰ぐと決めた者達でもあり、秀高が施行した諸法度に沿って各国の領内統治を行うことを腹に決めていた。一時は諸大名と幕府の中が疎遠になろうとしていたが、今、諸大名達は新しい幕府の中でそれぞれの国政に当たって行くことになった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ