1573年4月 幕府の骨組み
文禄元年(1573年)四月 尾張国名古屋城
文禄元年四月上旬。高秀高は名古屋城は本丸表御殿の中庭に併設されている一軒の遠州流茶室に茶頭の千宗易を呼び寄せ、本丸内にある旧那古野城の本丸館に住む織田信長の正室・帰蝶を招いて茶の湯を嗜んでいた。
「幕府の基本組織が固まったと城内の噂で聞きましたが、それは本当なのですか?」
「はい、諸大名には名古屋幕府成立とともに説明する手はずでしたが、ここで帰蝶さまに先んじて教えようと思います。」
千宗易が黙したまま茶を点てている脇で帰蝶から話しかけられた秀高は、小高信頼ら幕政の基礎固めに奔走する家臣たちより献上された組織図の素案をその場で広げ、目の前にいる帰蝶に向けて見せながら一つずつ説明した。
「まず、幕政の中で主軸となる譜代家臣の中で大名が就く「大名役」の役職ですが、基本軸にしたのは唐土の唐朝時代に中央体制として取られた「三省六部制」をもとに構成しています。その中で重要な役目となるのが「宿老」、「家老」、「中老」と呼ばれる役職です。」
「宿老に家老、中老ですか。」
秀高の説明を耳にした茶頭の宗易が耳を傾けている中で、秀高は帰蝶の言葉を聞いた後にその三職の役目を一つずつ説明した。
「この三職、似て非なる物かと思いきや実は重要な役目があるんです。まずこの宿老職は常設の役職ではなく、臨時の重職なんです。例えば将軍が幼君であった場合、若しくは将軍が病に倒れ政務の決裁が出来ない場合に宿老が代理として政務を執り仕切る非常時の役職なんです。」
「なるほど…言わば万が一の際の備え、という訳ですね。」
帰蝶は秀高より宿老職の役目を聞いて絵図を見つめながら相槌を打った。この宿老という役職は、秀高がいた元の世界における「大老」と似ており、秀高はその職務に三省六部制における門下省の役目も与えようとしたが信頼から幕府内における権力分散の進言を受け、宿老職に関しては大老職と同じ役目を当てたのであった。そんな秀高は帰蝶から受けた言葉に対し、相槌を打ってから次の重要な役職を説明した。
「はい。専ら幕政の中心となるのは次の家老職で、これは現在の当家内で城持大名である皆の殆どがこの職務に就くことになります。その役目は次の中老から建議される政策などの建白書を稟議し、将軍に奏上して決裁を得てからそれを執行する役目です。いわばこの役職こそ三省の内の尚書省に似た役目でもあるのですよ。」
「では、もし建白書に不都合あれば中老に差し戻すことが出来る…?」
「そうです。」
この秀高が帰蝶に向けて説明した家老職にこそ、秀高が元ネタでもある江戸幕府の「老中」職の役目の中に三省六部制下の尚書省の役割を宛がうことに成功した一つであった。幕府に設置されるこの家老職は、信頼や高浦秀吉の進言で数年前に高家中で試験的に実施されていた二人一月交代による「輪番制」を政務実行の際に取りつつ、政策評議の際には名古屋在府の全家老合議で取り決める事が役目となっていたのである。いわば幕政における肝であり、同時に幕政の舵取りを一手に任される責任重大な役目にもなっていたのだ。
「これだけの権力を家老全体が請け負う訳ですから、無論その下には一万石以下の旗本が就く「旗本役」の役職の殆どが付いています。代表的な物は各地の鉱山奉行に各主要町奉行、お膝元の名古屋には南北の町奉行を置き、更には大目付や御庭番として稲生衆の頭など、いずれも高家には欠かせない縁の下の力持ち的な役職ばかりです。」
「つまり、幕政における実務的な役職は全て家老職の下に置かれるという訳ですな?」
秀高の話をお茶を点てながら聞いていた宗易が尋ねると、秀高はお椀の中で茶筅を用い抹茶をかき混ぜていた宗易の方を振り向き、首を縦に振って頷いた。
「はい。そして最後に残った中老職。これは先ほども言った通り幕政における政策の下となる建白書を作成する役職で、この下には建白書作成に必要な書物を管理する書物奉行に右筆を統率する右筆組頭、並びに幕府に出仕する儒者や医師、天文方が配属されます。」
「それは、建白書作成を題目に掲げる中老職に相応しい機関ですね。」
この中老職には、元ネタでもある「若年寄」よりも三省六部制下における中書省的役割が存分に強く出ている役職でもあった。事実この下に付けられた書物奉行・右筆組頭などの旗本役がその役目を如実に表している証拠になっていた。この幕政における重要な役職三つを帰蝶に対して説明した秀高は、その場でその他の大名役に付いて言葉を続けた。
「このほかにも大名役の役職には、朝廷や武家伝奏と交渉する奏者番に各寺社を統率・管理する寺社奉行、京の朝廷や公家衆を監視する京都所司代と西国大名に睨みを利かせる伏見城代があり、いずれも宿老・家老・中老に引けを取らぬ重要な役職となっています。」
「なるほど…秀高殿の話を聞けば、幕府の体制は高家に権力が集められておるようですな。」
秀高から説明された内容を聞いた宗易が、帰蝶に対して点て終わった茶を目の前に差し出した後に、説明を終えた秀高に向けて自身の中にあった不安材料を吐露するように語った。
「されど…その役職を聞いて野心旺盛な各地の大名たちが納得するかどうか…。」
「納得してもらなくては困ります。今まで通り無理難題が通るようでは何も変わりません。」
「秀高殿…」
宗易から指し出された茶を前に、宗易に向けて頭を下げた後に帰蝶が秀高の方に顔を向けて言葉を発すると、秀高は茶室の中にいる宗易や帰蝶に向けて両手を付き、まるで頭を下げんばかりの体勢で二人に対し念を押すような言葉を発した。
「全ては日ノ本の安定と次の時代に向けた布石…この事は帰蝶さまや宗易殿にも良くご理解していただきたいんです。」
「そうですか…分かりました。そこまで言うのならば私は秀高殿を信じましょう。」
「この宗易も帰蝶さまと同じご意見にございます。然らば秀高殿、野心旺盛な諸大名に一度釘を刺されては如何?」
「釘、ですか?」
秀高の姿勢を見た帰蝶が納得した後、同様に納得した宗易が秀高に対して将軍宣下の際に有効打となる諸大名への「釘刺し」の内容を、秀高に向けて詳細に語るとその内容を聞いた秀高はまるで得心がいったかのように深く頷きつつ、感嘆する言葉を発した。
「…なるほど、それは面白いですね。どうでしょうか帰蝶さま?」
「えぇ。その釘ならば諸大名も表立っての反発を控えるでしょう。」
秀高から尋ねられた帰蝶はお椀を手にしながらも納得するような言葉を述べ、その後に帰蝶はお椀に口を付けて中に入っていた抹茶を飲んだ。すると毎度ながらその見事な味に感動した帰蝶は、中の抹茶を飲み干した後に手慣れた所作でお椀を自身の目の前に置き、頭を下げて宗易に挨拶した。
「…結構なお手前にございます、宗易殿。日ノ本が安定した世の中になれば、皆がこうして茶を楽しめるようにもなりますわね。」
「そうですな。秀高殿、この宗易もその時を楽しみにしておりますぞ。」
この言葉を受けた秀高は内心で、決してこの思いを無駄にはしないと改めて誓ったのであった。そして秀高は宗易から告げられた釘刺しの策を実行するべく、裏で密かに行動を起こしたのであった。