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1573年2月 登用政策



文禄元年(1573年)二月 尾張国(おわりのくに)名古屋城(なごやじょう)




 二月二十五日。この日、高秀高(こうのひでたか)は旧室町幕府(むろまちばくふ)に仕えていた幕臣たちを招集。「康徳(こうとく)の変」・「山科(やましな)の戦い」を経て保守・改革両派に属した幕臣たちの大半は将軍・足利義輝(あしかがよしてる)や大逆人・足利義秋(あしかがよしあき)と共に命を落としたが、僅かに生き残った細川藤孝(ほそかわふじたか)蜷川親長(にながわちかなが)を筆頭とする改革派の幕臣は、秀高の招きを受けて名古屋城に足を運んでいたのである。


「皆を集めたのは他でもない。来る幕府草創の際、旧室町幕府の幕臣たちを新しい幕府の幕下に加えたいと思う。」


「なんと…我らを幕臣にお加えいただけるのですか。」


 大広間に勢揃いした旧室町幕府の幕臣たちの中より秀高の申し出に驚くような声が上がると、秀高は下座の脇に控えていた小高信頼(しょうこうのぶより)大高義秀(だいこうよしひで)、それに筆頭家老の三浦継意(みうらつぐおき)らと視線を交わした後に、先程の声に対し首を手に振って頷いてから言葉を発した。


「ここにいる細川殿は幕臣ではあるが丹後(たんご)奥丹波(おくたんば)二郡を領する大名である。そこで今後は細川家を当家の家臣として組み込み譜代大名の一人とする。そうすれば藤孝殿は幕政に関与することが出来るわけだ。」


「その代わり、細川家は高家の傘下に入ることになって完全に独立した大名ではなくなりますが…。」


「いえ、むしろ願っても無い申し出でございまする。」


 秀高の後に信頼が細川家に関する差配を口に出した後、その差配を耳にした藤孝は信頼の申し訳なさそうな素振りを懸念無用とばかりに振り払うと、目の前の上段に座している秀高に向けて自身の存念を語った。


「この細川藤孝、亡き上様の分まで秀高殿の御力になれるのであれば本望にございまする。ついては我らが所領は丹後一国のみで十分にございます故、奥丹波二郡は幕府の直轄地としてお納めくだされ。」


「なんと…奥丹波二郡を?」


 秀高は藤孝からの申し出に驚いていた。というのも藤孝が提示した奥丹波二郡とは何鹿(いかるが)天田(あまた)合わせて九万石ほどの領地で、いずれも丹後国境に隣接する地域であった。その地域を高家の所領として献上する藤孝の姿勢に、秀高は深く感心して藤孝に向けて上段から言葉を返した。


「藤孝殿。そのお気持ち、ありがたく頂戴しよう。ならば今後は俺の配下として新しい幕府でもその辣腕を振るってくれ。」


「ははっ!!お任せくださいませ。」


 ここに細川藤孝は幕府譜代格の臣として高家に迎えられ、後々に幕臣として名を馳せることになるのであった。その後、秀高に代わって信頼が藤孝の脇に座していた朽木元綱(くつきもとつな)を指してその場にいた旧幕臣たちに対して説明した。


「この細川殿と同様、幕臣でありながら朽木谷(くつきだに)の領主でもある朽木元綱殿には近江高島郡(おうみたかしまぐん)の所領を与え、当家の傘下大名として幕閣に加わってもらうことになります。朽木殿、何卒良しなにお願いしますね。」


「ははっ。この朽木元綱、身命を賭してお仕えいたしましょう。」


 こうしてここに秀高配下の大名である細川家・朽木家がここに誕生し、両家は譜代大名として幕府の中枢に関与出来る存在へとなったのである。こうした大身の旧幕臣への登用策を示した秀高は、続いてその場にいた幕臣たちに対して次なる登用策を示したのである。


「さて、幕府の中でも所領を有していない幕臣…特に京極(きょうごく)殿や蜷川殿には当家から数千石程度の知行を与え、幕府の旗本格の幕臣として諸役に取り掛かって欲しい。」


「旗本格?」


 この秀高が発した聞きなれない単語を、京極高吉(きょうごくたかよし)はオウム返しするように言葉を発した。するとその言葉を聞いた秀高はその旗本役が為す役目を簡潔に旧幕臣たちに向けて説明した。


「幕府は基本、幕閣の中でも意思決定機関である「老中」らの話し合いで幕政の舵取りを決めるが、それを実行に移すのが老中の下におかれる各諸役だ。代表例では「高家(こうけ)」、「勘定奉行(かんじょうぶぎょう)」、「大目付(おおめつけ)」に各城代並びに各町奉行…。」


「それらの諸役が課されるのが知行一万石以下の武士たち。これを僕たちは「旗本役」と定義してそれらの役目を任せようと思っています。」


「なるほど…。」


 つまり大名未満の高家直参の家臣たちが就く役職として、旗本役の職務が整備されていたのである。この説明を受けてその場に座していた武田義統(たけだよしずみ)が納得するように頷くと、秀高は上段から旧幕臣たちに対してそれぞれの役目をその場で言い渡した。


「それで実際問題の話だが、まず京極殿に蜷川殿、武田殿には高家の役に付いていただき、有識故実を用いて朝廷との儀式典礼を(つかさど)っていただきたい。」


「ほう、儀式典礼を…。」


 秀高がまず高吉や親長、義統の三名に命じたのは朝廷との折衝役や儀式典礼の用意・指導などを行う「高家」の役目であった。三名がその役目をしっかり耳を傾けて聞き入っていると、秀高に代わって信頼が役目を命じられた三名の事を踏まえながら詳細な内容を語った。


「特に京極殿や蜷川殿は長年室町幕府の幕臣として、京の公家たちとの折衝を取り纏めていたと聞きます。そこでお二方にはそれらの知恵を活かし、公家との交渉事も任せたいと思っているんです。」


「この役は既に当家で保護している津川義近(つがわよしちか)も従事している役目だ、是非とも武田殿を含めお三方には義近と共同でお任せしたい。」


 秀高から義近と協力し役目に当たれとの言葉を受けた三名は、秀高からの命令に服するように頭を下げて心意気を語った。


「ははっ、そのお役目しかと承りました。」


「幕府を格式高い者とする為にも、我らが知恵を用いてみせましょうぞ。」


 こうして京極高吉・蜷川親長・武田義統の三名はここに高家の役目を与えられ、義近と共に朝廷交渉に奔走することになったのである。その三名への役目伝達を終えた秀高は、続いてその場にいた三淵藤英(みつぶちふじひで)の方を振り向いて藤英への役目を伝えた。


「それと…藤英殿には京の町奉行をお願いしたい。」


「町奉行…ですか?」


 藤英は秀高から聞いた役目を聞いて少し不安そうに言葉を発した。というのも藤英の中には町奉行というのは末端の役目であるという考えが支配的であり、自分をその末端職に追いやるのかという憤りを抱いていた。しかし秀高はそんな感情を察したかのように、藤英に町奉行の重要性を語った。


「町奉行と言っても簡単な役目ではありません。幕府草創後に設置する京都所司代(きょうとしょしだい)伏見城代(ふしみじょうだい)の下で、京の治安維持や民間の訴訟解決、不審者の摘発並びに町衆の営利調整といった実務的な内容をこなしてもらうことになります。」


「なんと、その様な重大な役目をこの(それがし)に…。」


 秀高より告げられた内容を聞いて藤英は事の重大性を悟った。言わば京における行政・裁判を一手に担う役目であることを感じ取った時には先程の憤りはどこかへと消え去っており、その役目に服する事を秀高に対して表明した。


「しかと承りました。そのお役目、必ずや成し遂げてみせましょうぞ。」


「うん、よろしく頼む。」


 秀高は藤英から言葉を受け取ると、その他の旧幕臣たちへの登用策をその場で表明した。即ち楠木正虎(くすのきまさとら)和田惟政(わだこれまさ)は幕府の大目付に、先の山科の戦い後に斬首された大舘晴光(おおだちはるみつ)と同族である大舘義実(おおだちよしざね)は名古屋の町奉行の役目を秀高より託された。こういった旧室町幕府の幕臣たちに対する登用は保守・改革の分け隔てなく行われ、事実保守派幕臣の一派と見なされながら、伊勢貞助(いせさだすけ)らと共に行動を起こさなかった伊勢家嫡流の伊勢虎福丸(いせとらふくまる)伊勢熊千代(いせくまちよ)の兄弟を二千四百石の旗本待遇で登用し、幕府側衆の役目を与えたのである。こうした硬軟織り交ぜた登用政策は旧幕臣たちに秀高への疑心暗鬼を払拭させるに十分であり、秀高は来たる幕府草創に向けてより一体化した体制を構築したのであった…。





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