1572年9月 善得寺停戦和議
康徳六年(1572年)九月 駿河国善得寺
康徳六年九月二十九日。東海道方面や北陸道・東山道の合わせて三方面で行われていた室町幕府対鎌倉府との東国戦役は、足利義輝の敵討ちを成した高秀高の奏上によって朝廷からの勅使派遣という形での停戦交渉が行われることとなった。その重要な交渉の席となったのは、十二年前に「第二次善得寺会盟」が行われた富士川沿いの古刹・善得寺である。この場には双方を代表する者達が集まり、勅使・勧修寺晴右と息子の勧修寺晴豊立会いの下で談判が行われた。
「さて、此度こうして双方顔を合わせたのは、単に帝のご叡旨によるもの。よって双方は叡旨に従い、条件を取り決めて停戦に及ぶように。」
「ははっ。」
「…ははっ。」
晴右からの言葉を受けた幕府側の交渉団はその言葉に素早く返事を返したが、一方の鎌倉府側の交渉団はどこか腹に一物を抱えるように一拍を置いて返事を返した。この善得寺に停戦交渉の幕府側の交渉団として参列していたのは、秀高の名代として嫡子の高輝高。並びのその重臣の織田信澄。徳川家康が名代の石川数正と本多重次。そして幕臣を代表して三淵藤英が顔をそろえ、その中で輝高が鎌倉府側の交渉団に対し口火を切った。
「ではまず、この停戦に際する双方の線引きを行いたい。北陸道では管領(畠山輝長)殿の働きで富山城・奥能登の反乱分子を鎮圧、そして魚津にいる大宝寺勢を追い払いました。よってこの方面の線引きは従来の国境線である親不知を分け目としたいが、如何か?」
「…異存はござらぬ。」
輝高から提示された条件を聞いて、交渉団の中にいた足利藤氏が重臣・簗田晴助が言葉を発して返答した。鎌倉府側の交渉団は、晴助の他にその子の簗田持助、伊豆国主・犬懸上杉家宰の大石綱元に扇谷上杉家宰の太田資正。そして関東管領・上杉輝虎の一門である上杉景信が列しており、それら交渉団の面々が苦虫を噛み潰したような顔を見せている中で、輝高は更に言葉を続けて線引きを提示した。
「続いて東山道については、この方面では戦が起こっていない事もあって現状のままを維持。そして肝心のここ、東海道。この方面についてはここにいる徳川家の面々の働きによって駿府、そしてここに近い江尻城や蒲原城の奪還も果たした。よって現時点での双方の対陣に沿って、この潤井川を分け目としたい。」
「待った!」
この輝高が示した東海道方面の線引きを聞いた鎌倉府側から待ったがかかった。その声を上げたのは藤氏の家老を務めている晴助であり、晴助は輝高ら幕府側と自分たち鎌倉府側の中間に敷かれていた東日本地域が描かれた地図にある富士川付近の箇所を指し示しながら、反論を輝高らに向けて述べた。
「潤井川では現時点の対陣に沿っており申さぬ!ここは従来に倣い、南の富士川を分け目とするべき!」
「これは異なことを申される物じゃ。」
この晴助の反論を聞いて幕府側から反対意見を示したのは、現地・駿河にて戦を繰り広げている当事者たる徳川家重臣の重次であった。今現在、双方の勢力圏は蒲原城を背にした徳川勢が富士川を渡河し、幕府側の要求点である潤井川の西岸に布陣しており、鎌倉府側の要求である富士川を分け目とする案は到底飲めるような内容ではなく、重次はこれを踏まえて晴助に向けて徳川家の力を誇示するように反論した。
「先の宝渚寺平での大勝以降、我が軍勢は鬼神の如き戦いぶりを見せてここまで戦線を押し返したのじゃ!蒲原城奪還以降、この地で其方の佐竹や小田の軍勢と相対しており、その布陣を見れば妥当であろう!」
「それではこちらに何の利もござらぬ!!」
幕府側から現状に沿った停戦案を提示されても、鎌倉府側が富士川を分け目とするにはある理由があった。それは富士川が駿河国内の富士郡と庵原郡の境目でもあり、潤井川は富士郡内にあった。もし潤井川までの分け目を認めてしまえば鎌倉府側が完全に得ることが出来たのは富士郡の東隣にある駿東郡のみとなり、それ即ち鎌倉府の更なる威信低下を招く結果と同様でもあったのだ。それを防ぐ様に反対意見を述べた晴助の子、持助の後に続いて扇谷上杉の家宰でもある資正が意見を述べた。
「左様!ここはかつて河東一乱の線引きに即し、富士川を双方の分け目とすべし!」
「それは不可解な申し出じゃ!」
「双方とも、お控えあれ!」
資正の後に反論した数正の怒号を聞いた後に、双方の言い争いを黙して聞いていた晴右が口を開いて双方を制止するように声を上げた。この言葉を聞いた双方は首を引っ込めるようにその場に座り直し、双方が落ち着いたことを確認した晴右は双方に交互で視線を送りながら自身の私見を述べた。
「…卿にしてみれば、富士川も潤井川も代わりはありませぬ。もしや双方はいらぬ言いがかりをつけ、ご叡旨を蔑ろになさるお積もりか?」
「…。」
この晴右の言葉を受けて、特に鎌倉府側の面々に緊張が走った。鎌倉府側にしても今回の停戦は渡りに船であり、これ以上徳川勢と戦ってその名に傷が付くのは避けたかった。しかしその為には富士川を分け目にした方が今後の戦況挽回に活かせるとも思っていた為に譲歩を引き出したかったのも事実である。しかし、仲裁を行う晴右より告げられた内容はそんな見通しが甘い事を指し示す言葉であり、次に晴右が発した言葉によってそれは確実となってしまった。
「ならばここはこの卿が裁定いたしまする。双方は潤井川を分け目とし、停戦に応じるように。」
「な…!?」
「…承知いたしました。」
この晴右の言葉によって、鎌倉府側の交渉団は厳しい条件を課されることになってしまった。反対に幕府側にしてみれば現状の戦況に即した結果となった事に満足しており、晴右に対して輝高が返事を返すと、それを聞いた晴右は首を縦に振った後に双方に向けて言葉をかけた。
「では、分け目は先ほどのように定め、双方とも誓詞血判の交換を行う事と致す。そして停戦は今日より一年を目安とする。双方ともこの停戦に応じ、矛を収め領国へと帰還なされよ。」
「ははっ。」
「…ははっ。」
晴右の言葉を聞いた輝高は即座に返答を返し、反対に鎌倉府側からはただ一人、黙して成り行きを見守っていた景信のみが返事を発してこの停戦を受け入れる旨を示した。その後、勅使である勧修寺父子立会いの下、双方の交渉団を代表して輝高と景信が誓詞を記し、末尾に血判を捺して互いにその誓詞血判を交換。ここに停戦はその効力を発揮した。
この善得寺での停戦によって上杉輝虎が幕府改革を掲げた「東国戦役」は一応の終戦を迎えた。この一連の戦乱によって双方は将兵に甚大な損害を背負い、特に東海道での激戦を繰り広げた徳川家の将兵やそれと戦った鎌倉府傘下の将兵たちの討死は凄まじかった。のみならずこの戦の発起人でもある輝虎自身に至っては秀高の前に自身の精鋭軍団たる家臣や足軽たちを大いに失い、その名声を大きく減退させる結果となった。鎌倉府はこの一連の戦乱で得た領土は停戦交渉で得た駿河の河東地域のみであり、将兵の被害から見れば大損益とも言うべき結果となってしまった。そしてこの停戦成立によって、義輝亡き後の天下人の座に秀高が座る事を認める事にも繋がり、事実この後行われる義輝の葬儀には、鎌倉府傘下の諸大名から弔問の使者は誰一人として来なかったのである。




